yoga school kailas

シュリー・チャイタニヤ・マハープラブ(17)

【サキーの概念】

「クリシュナとラーダーの遊戯はきわめて深く、サキー(仲間。ラーダーの同性の友人)のみがそれを理解できました。サキーの魂としてクリシュナを崇敬していた者達だけが、この遊戯の充足感を楽しみました。それゆえ帰依者たちは、魅惑の戯れをおこなうラーダーとクリシュナに注目するサキーの態度に順応することで、献身的信仰を実践しました。

 しかしサキー自身はクリシュナとの遊戯を望んでおらず、クリシュナとラーダーの戯れを企てることに情熱を感じていました。ラーダーは真にクリシュナの愛の希望の柔らかい蔓(カルパラタ)であり、サキーはそのつる植物の葉であり花であり芽でした。ラーダーとクリシュナの戯れの花の蜜は、歓喜の葉や花の形をとったサキーが流したそれの千万倍以上もあふれ出しました。互いに向けた無私の愛は滋味(ラサ)を強め、クリシュナはそのような無欲の愛の光景を喜びました。

 ゴーピーたちが感じていた愛は、欲望とは完全に別物でした。カーマ(愛欲)または性的欲望はただ個人の感覚的満足を目的としますが、ゴーピーたちはただクリシュナの喜びだけを探し求めていました。

 ヴェーダ崇拝を放棄してクリシュナを崇敬していたゴーピー達の情熱の甘露は、クリシュナの心を動かしました。クリシュナと同時代に生きたヴラジャの人々のような渇仰的な愛の道を進むことで、人は次の生で、模範としていた渇仰を持つヴラジャの人の姿をとり、クリシュナを得るのです。
 ラーダーとクリシュナの戯れを心に思い巡らすことで、私たちはサキーに生まれます。クリシュナを単に神としてどれほど崇拝しても、彼に到達することはできません。サキーとして、ゴーピーとしてクリシュナに奉仕をすることによって、彼に到達します。アストラル体でサキーによるクリシュナへの模範的奉仕に思いを巡らせることで、次の生でサキーとしてラーダー・クリシュナの御足に到達するのです。」

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