シャブカルの生涯(19)
第二章 世俗の放棄
どのようにしてわたしが、世俗の物事には本質がないと理解し、出家生活のために家を出たか。
ある日、わたしが根本グルのジャムヤン・リンポチェの前に出たとき、彼はこう尋ねました。
「お前はどうするつもりなんだ? 妻をめとるつもりはないのか?」
わたしはこう答えました。
「わたしは輪廻に転生したいとは思いません。家庭を持つことによるトラブルを見てきましたので、わたしの唯一の願いは、グルのアドヴァイス通りに今生の関心事をすべて放棄し、聖なるダルマの甘露を飲みながら山の隠遁所の心地よい森に滞在することです。」
わたしの返答を喜んで、彼はこう続けました。
「そうか、わが息子よ。もしそうであるなら、お前は間違っていない。肉、酒、感覚的な喜び、世俗の楽しみ――輪廻の最高の事柄は一時的には楽しいものだ。しかし若さと美しさで満ちあふれた若鳥は、簡単に間違った道へと落ちてしまう。したがって、たとえお前が神々の若い女性を伴侶として持ったとしても、執着してはいけないし、願望を抱いてもいけない。それはなぜか?
一般的に言うと、この世界の物事はすべて本質がなく、無常で、頼ることのできないもので、まさにそれらの本性によって、結果的に苦しみに変わる。特に家庭生活は、焚き火の穴や人食い人種の島、毒蛇の巣のようなものだ。輪廻における成熟や富、快楽といった一連のものを享受することは、毒の入った食べ物を食べるようなものであり、かみそりの刃に塗られた蜂蜜を舐めるようなものであり、ほんのひと触れで破壊される。」
「このことをよく考え、完全なる悟りを得られた仏陀から現在の師にいたるあらゆる霊性の存在が、今生の執着を取り除いてくれることを忘れないようにしなさい。彼らは聖なる師の御足のもとでスートラとタントラの聖なる教えの甘露を受け取り、人里離れた山の森林の涼しい木陰で、満足するまでそれを飲んだのだ。彼らの霊性の経験と悟りは完全なる成熟に達し、彼らは利益を自分自身と他者にもたらすことができた。もしお前も過去の聖者方の解放の人生に倣うことに成功したなら、まさに今生でお前が自分の渇仰と他の者たちの渇仰を叶えるだろうということに、わずかの疑いもない。」
それから彼は、以下の詩を歌いました。
「至高なるグルよ、わたしの頭頂に王冠のようにとどまってください。
わたしとすべての衆生を、慈悲を持って見てください。
息子よ、息子よ!
お前は正しい!
妻にどんな良いところがあるというのか?
妻はお前を輪廻へと縛りつける黒い縄のようなものであり、
あらゆる種類の望ましくないことを引き寄せる敵のようなものなのだ。
いったん妻を持ったなら、
至福の時やチャンスはなくなるのだ。
自分の膝に毒蛇を載せること――
それは至福なのか?
さあ、お前の気高い目的を変えることなく、
聖なるダルマを貫きなさい――
それは、それを達成した者すべてを喜ばせるのだ。
ダルマを貫きなさい。
そうすれば、真の幸福がおのずと現われるだろう。
完全なる主グルよ、わたしの頭頂の王冠よ
どうかこの献身的な息子の心の流れに、智慧をお授けください。」
彼は目を半ば閉じたまま、こう付け加えました。
「息子よ、お前は20歳のとき、卓越した師に出会い、山の隠遁地のさわやかな木陰にとどまり、このようにただ座るだろう。」
彼はこう言ったあと、背中をまっすぐにし、前方をまっすぐに見て、目を大きく開け、自然な状態でしばらく静かに安らいでいました。それから突然笑い出しました。
わたしは今そのことを思い出すとき、それらが予言の言葉だったということがわかります。まさに彼が言ったとおりに、のちにわたしは人里離れた山の隠遁地で瞑想修行をする幸運を得たからでした。