サラハの「人々のためのドーハー」(7)
躊躇なく問え。
あなたの心という象を解き放て。
彼は川の水を飲むかもしれないが、
彼の至福の背中の上で休息せよ。
感覚という象の鼻に捉えられて、
殺されたように見えるかもしれないが、
すばやい御者のようなヨーギンは、うまく抜け出していく。
輪廻もまた、ニルヴァーナのようである。
いかなる区別もあるとは考えるな。
そしてそれは一つの性質も具えていない。
完全に純粋であるそれを、私は知っている。
家の中で座るな。森へ行くな。
あなたがどこにいようとも、心を認識せよ。
人が完全で完璧な解脱にとどまるとき、
輪廻はどこにあるか? そしてニルヴァーナはどこにあるか?
おお、この真理を知れ。
家の中も、森の中も、どちらも解脱の住処ではない。
けがれのない思考である自己の本性によって、
ごまかしの作り事から自由になれ!
「これは私であり、これは他です」
――あなたの周りを取り囲む、この足かせから自由になれ。
そしてそれによって、あなたの「私」は自由になる。
自己と他についてのこの問題において、誤ってはいけない。
すべては例外なく仏陀である。
けがれなき最終ステージは、ここにある。
真の本性の中で、思考が純粋であるところに。
二元性を知らない、正しい思考の樹は
三界に広がっていく。
それは慈悲の花と果実を結び、
その名前は「利他行」という。
正しい空性の樹には、
数々の慈悲の行為という花が、たくさん咲いている。
そして無思考の喜びのために、
他者のための果物が、自然に生じる。
芽や花や枝葉なしに、樹を想像することはできないように、
正しい空性の樹に、慈悲が欠如していたならば
それは何でもなくなってしまう。
一粒の種から二つの樹が生え、
唯一つの果物がなる。
このように、区別できないそれらを考える者は、
ニルヴァーナと輪廻から解放される。
欲望に覆われた者が近づいても
果たされていない希望は、逃げ去っていく。
家から投げ出されたボールを追いかけるよりも、
彼はその家自体を捨てなければならない。
輪廻の果物は、衆生の助けにはならないので、
欲望に覆われた者に、それを与えるな。
「私」という概念を捨てるほうがよい。
空性にしがみつき、慈悲を怠る者は、
最高のステージに到達することはない。
しかし慈悲だけを修習する者は、
存在の罠から解放されない。
空と慈悲の両方を修める者は堅固であり、
輪廻とニルヴァーナのどちらにも住することはない。
サラハの「人々のためのドーハー」を終わる。