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サラハの「人々のためのドーハー」(3)

 思考に結び付けられることは束縛をもたらし、思考からの解放は解脱をもたらす。  
 それは疑いのないことだ。
 愚か者は束縛され、賢者はすばやく解脱する。

 思考に結び付けられ、心があちこちと駆け回るのは、
 ちょうど、人間によって縄を結びつけられて、あちこち駆け回されるラクダのようなもの。 
 友よ、そこに解脱はない。

 自己に集中するな。呼吸をコントロールするな。
 えーい、ヨーギンよ、眼を細めて鼻先を見つめるな。
 おお、馬鹿者よ、早く生来のものをつかめ。
 そして、存在の足かせを捨て去れ。

 プラーナと思考の絶え間ない流れを、一つにしなさい。
 それから、生来なるものの真の本性を知りなさい。
 それらはそれ自身で鎮まるだろう。

 心が休息するとき、
 身体は束縛から解放される。
 それから、生来なるものの流出により、すべては一つの味となる。
 そこには、チャンダーラもブラーフミンもない。

 神聖なるヤムナーもガンガーもここにあり、
 プラヤガもヴァラナシもここにあり、
 太陽と月もここにある。

 かつて私は放浪し、さまざまな聖地を巡礼した。
 しかし、この私自身の身体のように至福に満ちた聖地は、どこにもなかった。
 
 蓮華とは、葉、花、香り、花びら、蔓などの集まりである。
 それらを区別するのをやめなさい、おお、無智なる者よ。
 そのような渇愛にしがみつき、おまえ自身を苦しめるのをやめなさい。

 おお、(仏陀の)家族を持たない汝よ、尋ねなさい。
 ブラフマとヴィシュヌとシヴァのために、ここへ戻ってきなさい。彼らの本源へ。 

 無分別というこの調味料の味を知りなさい。
 あれこれ批評にふける者たちは、世界を浄化する方法を知らない。

 聞きなさい、私の息子よ。この味は、さまざまな部分に分けて説明することはできない
 それは、どの存在がすべての源なのかという自尊心から自由な、完全なる至福の境地である。

 このようにして、月が新月に向かうように、幻影の創造が消えていき、
 分別が無分別となり、心が死に、自己中心性は失われていく。
 そこでなぜお前は、瞑想をすることで、自分の邪魔をするのか?

 すべてのものは、この世界に現われ、そして破壊される。
 もしそれが真の実在性を持たないならば、どのようにしてそれが再び現われようか?
 もしそこに現われも壊滅もないならば、そこから何が生起しようか?
 お前のグルの言葉の中にとどまれ!

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