クンサン・ラマの教え 第一部 第二章「無常」(5)
(7)無常を強く認識する
常に、どんな状況でも、一心に死を瞑想しなさい。立っていても、座っていても、横になっていても、「これがこの世の最期のおこないである」と自分に言い聞かせ、強く確信して瞑想しなさい。どこかに行く途中であっても、「そこで死ぬだろう。戻ってこられるとは限らない」と自分に言い聞かせなさい。旅に出るとき、あるいは休息するときには、「ここで死ぬだろうか?」と自分に問いなさい。どこにいたとしても、そこが死に場所になるかもしれない。夜寝るときには、「寝ている間に死ぬかもしれない。朝、生きて起きられるかどうかわからない」と考えなさい。朝起きたときには、「いつ死ぬかわからない。今夜寝床に入れるかどうかわからない」と考えなさい。
心の底から、死をしっかりと瞑想しなさい。いつも死について考えていた古のカダム派の修行者たちのように修行しなさい。夜、彼らは、死者にするように自分のお椀を上下逆さまにして、朝また灯をともせるかわからないと、残り火を消すことは決してなかった。
しかし、ただ死を瞑想するだけでは不十分である。死の瞬間に助けとなるのはダルマだけであり、正しい方法によってダルマの修行に励まなければならない。念正智して、用心深さを失うことなく、輪廻のおこないはうつろいやすく少しも意味がないということをいつも心にとめておかなくてはならない。本質的には、心と身体の結びつきは無常であり、身体を自分のものと考えてはいけない。それはただの借り物である。
すべての道と道程は無常である。ゆえに、歩むべきはダルマの道だけである。
どこでも、あらゆる場所は無常である。清らかな仏陀の浄土を心に持ちなさい。
食べ物、飲み物、楽しいもの、すべては無常である。ゆえに、深い精神統一を養いなさい。
睡眠は無常である。ゆえに、寝ている間にも、眠りという無智を清らかな光に浄化する修行をおこないなさい。
愛する人、友人、家族は無常である。ゆえに、孤独な場所で解脱を求めなさい。
高い地位と名声は無常である、ゆえに、常に控えめでいなさい。
おしゃべりは無常である。ゆえに、マントラや祈願文を唱えなさい。
信仰や解脱を求める心は無常である。ゆえに、誓いを揺るがぬものにしなさい。
思いつきや考えも無常である。ゆえに、善き性質をはぐくむことに努めなさい。
瞑想の体験や成就も無常である。ゆえに、すべてがあるがままになるまで進みなさい。
死と転生のつながりを断ち切ったときには、死に対する完全な準備ができたことが確信できる。まるで自由に空を飛ぶ鷲のように、不死の砦に到達できる。そののちには、死についての瞑想は必要ない。
ジェツン・ミラレーパは次のように説いている。
わたしは死を恐れて山に赴いた。
日夜、死の意味について瞑想した。
そして、死を超越した不変の本質にたどり着き
今は、死を恐れる気持ちを完全に超越した。
そして、タクポ・リンポチェは次のように説いている。
最初、牡鹿が罠から逃れるように、生と死を恐れることによって突き動かされていた。
途中、注意深く働く農家のように、たとえ死んでも後悔することは何もなくなる。
最後、素晴らしい仕事を成し遂げた人のように、安らぎと喜びを感じるだろう。
ゲシェー・ポトワは、ダルマの修行の中でたった一つだけ選ぶとしたら最も大事な修行は何ですかと尋ねられて、こう答えた。
もし、ダルマの修行をたった一つだけ修行するとすれば、無常についての瞑想が最も大事である。
最初、死と無常を瞑想することによって、真理への扉が開かれる。
途中においては、死と無常についての瞑想によって、修行に向かう心が得られる。
最後には、すべての顕現が等しいことを理解する助けとなる。
最初、死と無常を瞑想することによって、信仰をはぐくむことができる。
途中においては、修行の精進に導かれる。
最後には、智慧を生み出す。
パダンパ・サンギェーは次のように説いている。
最初に無常を完全に確信することで、ダルマの道に進むことができる。
途中にあっては、一層の精進を生み出す。
最後には、光り輝くダルマカーヤを得る。
無常という原則に対して、このような真摯な確信を感じなければ、たとえ教えを受けて修行していると思っていても、逆にダルマから遠ざかってしまう。
パダンパ・サンギェーは次のようも説いている。
今までに、死を考えているチベット人の修行者を見たことはなく、
永遠に生きる人も見たことがない。
財産を蓄える喜びのために、僧衣を身につけたのだろうか?
食料やお金によって、死を清算しようというのだろうか?
最も高価な物をため込む様子を見ていると、地獄でわいろを贈ろうとしているのだろうか?
ハ! ハ! チベット人の修行者には笑わせられる。
最も学識があるといわれる者は最も高慢な者である。
最も優れた瞑想者といわれる者は食料と財産を蓄え、
孤独な隠棲者は些細なものを追い求め、
家と故郷を捨てた者は恥を知らぬ。
これらの者たちはダルマとは無関係だ!
誤ったおこないを楽しんでいる。
他の人が死ぬのを見ても、自分たちもまた死ぬのだということを理解していない。
これが最初の誤りだ。
それゆえ、無常について瞑想することは、すべてのダルマの修行の扉を開く序章である。
逆境を打開する方法について聞かれたとき、ゲシェー・ポトワは次のように答えた。
死と無常についてじっくりと考えなさい。いったん、自分が死ぬことを納得したら、害のあるおこないをやめ、正しいおこないをすることが難しくないとわかるだろう。
その後、慈愛と慈悲についてじっくりと瞑想しなさい。いったん、慈愛があなたの心を満たせば、他者を救うおこないがもはや難しくなくなるだろう。
そして、あらゆる顕現はあるがままの空であると、じっくりと瞑想しなさい。いったん、完全に空について悟れば、自分の無智を捨てることが難しくなくなるだろう。
いったん無常を確信できれば、現世的な欲望の対象が、吐き気に苦しむ人が脂がいっぱいの肉をみるように、心から嫌悪すべきものに見えるようになる。
リクジン・ジグメ・リンパは、チベット歴七月の秋には、ある温泉で過ごすのが常であった。温泉へ降りる階段がついていなかったので、温泉に入るのにいつも苦労していた。弟子たちが階段を作ろうとすると、ジグメ・リンパは、「来年もここに来るかわからないのに、どうしてそんな手間をかけるのですか?」と答えた。ジグメ・リンパは常にそのように無常について語っていたと、わたしは師から聞いたことがある。
わたしたちも、同様の思いが完全に身についていない限り、無常について瞑想しなければならない。
日々の修行において、まず初めに菩提心を起こす。
そして主要な修行をするときには、あらゆる手段をもって自分の心を訓練し、すべての思いに無常の教えが深く染み渡るようにしなければならない。
最後に功徳を回向して、修行を終えなさい。
このようにして修行することで、古の偉大な方々と同じことができるように、最大限に努力しなさい。
すべては無常なのに、いまだに物事が永続すると考えている。
老齢に差し掛かっても、まだ若いふりをしている。
わたしとわたしのように誤った者たちをお守りください。
無常を真に理解できるようになりますように。