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クンサン・ラマの教え 第一部 第二章「無常」(3)

(5)その他の無常の例

 無常の例として、成長と衰退が繰り返されることを考えなさい。
 はるか昔、このカルパの最初の時代は、空に太陽も月もなく、人類はすべて自分自身から発する光で照らされていた。奇跡的なほどの距離を移動することができ、身長は数キロメートルもあった。神聖な甘露で満ち、幸福で、病もなく、神々に匹敵するほどであった。しかし負の感情と悪しいおこないの影響によって、次第に衰退し、現在の状態になった。今日でさえ、感情はさらに悪化し、寿命と幸福はさらに衰退している。そして最後は疫病、戦争、飢餓により、人類はほぼ死に絶える。そして生き残った者たちに、ブッダ・マイトレーヤの化身が不殺生を説くであろう。それから寿命は徐々に長くなり、八万年になる。そのとき、聖マイトレーヤは人の形であらわれ、ブッダとなってダルマの車輪を回す。
 成長と衰退の十八の周期が過ぎたとき、「無限の祈願」というブッダがあらわれ、善きカルパにおける他の何千ものブッダを合わせたのと同じくらい長く生きる。しかし最後にはこのカルパも追わり、すべてが破壊される。

 四季の移ろいを見ても、物事が無常であることが理解できる。昨日と今日、今朝と今夜、今年と来年がいかに早く終わるかを考えなさい。すべては次々と通り過ぎ、何も永続せず、何も頼りになるものはない。
 村や寺院、あるいは自分の周りを観察してみなさい。最近まで繫栄して安泰だった人々が急に衰退し、逆にかつて貧しく寄る辺もなかった者が、今では権威を持ち、権力をふるい、栄えている。同じ状態のままあることは決してない。
 自分たちの家族の間でも、曾祖父母、祖父母、両親と、順に一人ずつ亡くなっていく。のちには名前しか残っていない。そして兄弟姉妹、その他多くの親戚たちもまた、時が来れば死んでいく。どこへ行ったか、今どうしているのか、誰もわからなくなってしまう。
 権力を持ち、金持ちで反映している人々の中にも、次の年には名前だけになっている者も多い。飼育している動物――ヒツジ、ヤギ、犬などのうち、昨年は何頭死に、今年は何頭生き残っているだろうか。
 これらの例を考えれば、同じ状態にとどまるものはないことが理解できる。百年以上前に生きていた人は皆死んでいる。今から百年後には、今生きている世界中の人々は皆死んでいる。

 生まれた者はすべて無常であり、必ず死ぬ。
 貯めたものは無常であり、必ず尽きる。
 一緒になったものは無常であり、必ず分かれる。
 作り上げたものは無常であり、必ず壊れる。
 同様に、友情と憎悪、幸福と不幸、善と悪、心に浮かぶ考えはすべて、常に移り変わる。

 天界と同じくらい高い地位にいても、稲妻と同じくらい強くても、ナーガと同じくらい金持ちでも、神々と同じくらい素晴らしい姿をしていても、虹と同じくらい美しくても、誰であっても、どのような人であっても、死は突然やってくる。お金、好きな持ち物、友人、愛する者、召使い、国、土地、部下、財産、食べ物、飲み物、富と離れるかもしれないという耐えがたい思いが浮かんでも、すべてを後に残して逝くほかはない。何万もの人々の支配者であったとしても、ただの一人も召使いとして連れて行くことはできない。世界中のすべての富を持っていたとしても、一本の針と糸ほどの権力も持っていけない。
 愛着のある肉体も、同様にあとに残して逝く。その肉体は、生きている間は絹や綿に包まれ、お茶や酒で満たされ、よく保たれており、かつては神々と同じくらい素晴らしい姿であったかもしれないが、今や死体と呼ばれ、恐ろしい姿で横たわっている。
 
 ジェツン・ミラレーパもこう説いている。

 人は「死体」と呼ぶものを見て恐怖するが、
 それはお前の中にすでにある。

  
 死体は縄で縛られ布で包まれ、土と石の上に横たえられる。どれだけ高貴な身分で愛された人であったとしても、もはや恐怖と吐き気しかもよおさない。
 死ぬときは、たった一人でバルドの状態をさまよい、誰も一緒にいることはできない。たった一つのよりどころはダルマだけである。ゆえに、今からは、真のダルマの修行を最低でも一つ成し遂げなければならない、と何度も何度も自分に言い聞かせなさい。

 蓄えられたものはそれが何であれ、尽きることになる。世界を支配した王も漂泊の身となる。最初富に囲まれていた多くの者は、最後には飢えて死に、すべてを失う。ある年には何百頭もの動物の群れを所有していても、次の年には疫病や豪雪で死んでしまう。ある日まで豊かで権力を持っていても、敵にすべてを破壊されて、急に乞食となる。これらのことは、あなた自身にも起こりえることである。自分の富や財産に永遠に頼ることはできない。「与えること」が、築き上げることのできる最も重要な資本であることを、決して忘れてはいけない。

 集まったものは永遠に続くことはない。最後は必ず分かれることになる。大きな市場や宗教行事のために一時的に集まった群衆のようなものであり、最後には再び別れて家路につく。現在、どれほど愛情のある関係――例えば先生と生徒、主人と召使い、後援者と後援される者、兄弟姉妹、夫婦――であっても、最後には離ればなれになってしまう。死や、他の恐ろしい出来事によって、今、急に別れが来ないという保証はない。どんな間柄でも、急に別れがやってくることはよくあることである。よって、怒りや争い、罵詈雑言や喧嘩は避けるべきである。いつまで一緒にいることができるか、決してわからないのであるから、別れるまでのつかの間の間、いたわり合い、慈しみ合うように努めるべきである。

 パダンパ・サンギェーは次のように説いている。

 家族の仲は、市場で出会った群衆のように、素早く通り過ぎるもの。
 傷つけ、いがみ合うな、ディンリの人々よ。

 建設された建物はすべて崩壊する。かつて繫栄し栄華を誇った村や僧院は今やからっぽで見捨てられ、鳥が巣を作るばかりである。サムイェー寺院の中心的な三階建てのお寺は、ティソン・デツェン王の時代に奇跡的に出現した者たちによって建立されたが、たった一晩の火事によって焼き尽くされた。赤い山の宮殿は、ソンツェン・ガンポ王の時代にはインドラ神の宮殿に匹敵するようであったが、今や基礎の石すら残っていない。ましてや、今のわたしたちが住む町、家、僧院など、虫の巣のようなものにすぎない。なぜそのようなものを大切に思い、執着するのだろうか。故郷を捨てて荒野を目指した古代のカギュー派の方々の例に従ったほうがよい。彼らは野生動物しかいない崖の岩場に住み、食べ物や着るものや名声を全く気にすることなく、以下のようなカダム派の四つの目標を抱いていた。

 ダルマの教えを、心の究極の安らぎとし
 激しい修行を、ダルマの究極の安らぎとし
 訪れる死を、修行の究極の安らぎとし、
 この荒れ果てた谷を、死の究極の安らぎとする。

 高い地位や強い軍隊は、決して永続しない。王、ラマ、神々、政府など、権力と権威をふるった者の中で、地位を永遠に保ったものは一人もいないことは明白である。法を制定した権力者が、次の年には監獄に閉じ込められることも多い。このようなうつろいゆく権力が、何の役に立つだろうか。一方、完全な仏陀の境地は、決して消えることはなく、衰退することもない。それは神々や人々が供養するに値するものである。獲得しようと決意しなければならないのは、このような完全な仏陀の境地である。

 愛情や憎悪もまた決して永続しない。ある日、アルハットであるカッチャーヤナが托鉢に出かけると、子供を膝に抱いた男に出会った。彼はとてもおいしそうに魚を食べていて、その骨を盗もうとする犬に石を投げていた。しかしカッチャーヤナが神通力で見ると、男がほおばっていた魚は前世においてその男の父親であり、犬は母親であった。そして膝に抱いていた子供は、前世でその男を殺した敵であった。カッチャーヤナはその光景を憐れんで言った。

 父の肉を食らい、母を打ち、
 自分を殺した敵を膝に抱き、
 妻は夫の骨をかじる。
 輪廻の芝居で起きていることを見ると、笑うしかない。

 今生においてさえも、目の敵にしていた者がのちに友人となることがある。お互いに家族となったり、誰よりも親しくなることもある。逆に、血縁者同士や夫婦が争い、些細な財産や微々たる遺産を巡って互いに傷つけあうこともある。夫婦や親しい友人同士が、些細な理由で別れて、最後には殺人にまで発展することもある。愛情や敵意はとてもうつろいやすいと理解して、誰に対しても慈しみと慈悲をもって接することができるようにしようと、何度も何度も思い起こしなさい。

 富や貧困もまた決して永続しない。人生のはじめのうちは豊かで満ち足りていた人が、最後には貧困と苦しみを味わうことも多い。逆に、ひどくみじめな人生を送っていた人が、最後には幸せで裕福になることもある。物乞いだった男が王になることもある。このような例は数知れない。例えばミラレーパの叔父は義理の娘のために楽しいパーティーを催したが、その日の夕方には家が崩壊して多くの親戚が死に、悲しみに泣きぬれた。
 ダルマの修行によっても困難がもたらされ、多くの苦しみに耐えなければならないが、のちに得られる幸福は比類なきものである。反対に。悪しきおこないによって金持ちになっても喜びは一時であり、のちに味わう苦しみは計り知れない。

 幸福と不幸も全く予知できない。はるか昔、アパランタカ王国で、穀物の雨が七日間降り続き、衣服の雨が七日間降り続き、さらに貴重な宝石の雨が七日間降り続いたが、最後には岩の雨が降り、人々は皆死んでしまった。希望や恐怖によって、常に変わり続ける幸せや苦しみを制御しようとしても、意味のないことである。現世の慰め、富、享楽を、ごみに唾を吐くように捨てなさい。過去の聖者たちの歩んだ道に従い、ダルマのためにはどんな困難をも勇気を持って受け入れようと決意しなさい。

 才能もまた無常である。俗世間においては、どんなに権威があり雄弁であっても、どんなに学識や才能があっても、どんなに強く巧みであっても、そのような才能は衰える時が来る。過去に積んだ功徳が尽きれば、考えることはすべて争いを引き起こし、何をやってもうまくいかず、あらゆる人から批判され、みじめに皆に見下される。

 世間の評価も無常である。ある人が今の時点で良く見えようと悪く見えようと、それは一時の印象にすぎず、永遠に続くわけではない。
 あなたは、ほんの少しだけ世俗に幻滅したことで、解脱しようと何となく決意しただけの、うわべだけはまじめな修行者かもしれない。しかし、そんなあなたを素晴らしい聖者だと思って崇拝する人がいるかもしれない。その時点で自分を厳しく見つめなければ、慢心が生じ、魔の力に完全にからめとられてしまうことになる。それゆえ、自己中心的な考えをすべて捨てて、無我の智慧を持たなければならない。素晴らしい求道者の境地で見れば、この世の現象は、それが良いものでも悪いものでも、永続することはないとわかる。常に死と無常を瞑想しなさい。自分の欠点を分析し、最も低い場所にいなさい。輪廻を厭う気持ちと、解放を求める心を養いなさい。穏やかで規律正しく、誠実であるように訓練しなさい、森羅万象はすべて無常であること、輪廻は苦しみであることを考え、この世に苦しみと深い悲しみを感じる心を養いなさい。

 ジェツン・ミラレーパは次のように説いている。

 孤独な洞窟に一人あると
 わたしの悲しみは和らぐことはなく
 グルと仏陀への切望も
 衰えることはない。

 常にこのようであらなければ、不意に浮かんだ思いによって思考は変わり続け、どこに行ってしまうかわからない。
 かつて、親類と不和になったことでダルマの道に進み、ゲロン・タンパという名で知られるようになった修行者がいた。エネルギーと心を制御することを習得し、空を飛ぶこともできた。
 ある日、鳩の大群が供物を食べているのを見たとき、「こんな多くの軍隊で敵を滅ぼしてみたいものだ」という考えがふと心に浮かんだ。そしてついには修行をやめて故郷に帰り、本当に軍隊の司令官になってしまった。
 今この瞬間はあなたは、あなたの師と法友のおかげで、表面的にはダルマのことを思っているかもしれない。しかしそのような感情は気を抜くとわずかな間しか持続しないということを心にとめ、自分をできるだけダルマによって解放し、生きている限りダルマを修行すると決意しなさい。
 ここで挙げた多くの例をよく考えれば、存在しているものの中で、最も高い天界から、最も低い地獄に至るまで、永続し安定しているものは何もないということに疑いを持つことはなくなる。すべては変化し、増大し、減少するのである。

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