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クンサン・ラマの教え 第一部 第二章「無常」(2)

(2)命の無常

 最も高い天界の頂から、あらゆる地獄の底に至るまで、死から逃れられる者はいない。『安らぎの手紙』は、次のように説いている。

 地上でも天界でも、
 死ぬことのない命を見たことがあるだろうか?
 そのようなことが起こったことを聞いたことがあるだろうか?
 そんなことが起こりえると思えるだろうか?

 生まれた命はすべて死ぬことが運命づけられている。どの世界でも、たとえ神々の世界でも、生まれて死なない命を誰も見たことはないし、聞いたこともない。事実、人間は死ぬのか死なないのかということを疑問に思うことすらない。それほどに死は確実である。生まれたそのときから、次第に死に近づいていく。死は容赦なく近づき、一瞬も止まらない。まるで日没の山の影のようである。
 いつどこで死ぬか、はっきりと知ることができるだろうか? 明日かもしれないし、今夜かもしれない。今の呼吸と次の呼吸の間の瞬間に死んでしまわないと断言できるだろうか?
 『熟慮された格言集』には、次のように説かれている。

 明日も自分が生きていると、誰が知ろうか?
 今日すべきことは今日おこなえ。
 無慈悲な死神は、友達のように待ってはくれない。

 そしてナーガールジュナはこのように説いている。

 命は、千の病気という雪に揺らめき、
 流れる水の泡よりも壊れやすい。
 息を吐いて、次の息を吸えるかどうか、
 眠りにつき、明朝にまた目覚めることができるかどうか、
 全くわからない。

 一回の呼吸と次の呼吸の間に、死が忍び寄ってこないという保証はどこにもない。穏やかに眠りにつき、健康なまま目を覚ますというのはまさに奇跡的なことなのに、当たり前のように思っている。
 いつか死ぬということは知っているが、それでも今生きているということに対する姿勢はあまり変わることがない。未来の生活について希望を持ったり心配したりして長い時間を費やし、まるで永遠に生きるかのようである。
 わたしたちは安楽、幸福、地位などを得ようと苦労するが、突然、死に直面する。死は、縛り首用の黒い縄を握り、下唇を激しくかんで、牙をむく。
 そのとき、できることは何もない。軍隊の兵士も、支配者の法令も、金持ちの富も、学者の明晰さも、美人の魅力も、運動選手の敏捷性も、どれも役に立たない。貫くことのできない金属の鎧で胸を覆い、何十万もの強い男たちに鋭い槍や弓で武装させて守らせても、髪の毛一本を守ることも、隠れることもできない。死神がわたしたちの首に黒い締め縄を一度かけてしまえば、わたしたちの顔は青ざめ、目は涙で濡れ、頭と手足はだらりと垂れ、否応なしに次の転生へとまっすぐに引きずり込まれる。
 死はどんな戦士でも打ち倒すことはできないし、どんな権力者の命令でも立ち去らせることはできない。またどんなに金持ちでも、お金で立ち去らせることはできない。死に対しては逃げるところはなく、隠れる場所もなく、避難するところもなく、守り導く存在もない。いったん寿命が尽きれば、たとえ薬師如来でもそれを止めることはできない。
 このように真摯に考え、今のこの瞬間がどれだけ重要か、よく瞑想し、怠惰や先送りに決して陥ることなく、真のダルマを修行しなさい。真のダルマの修行者だけが、死の時に自分を救うことができる。

(3)聖者の無常

 かつて、ヴィパッシー、シキー、釈迦牟尼などの多くの仏陀方が地上に出現した。それぞれ無数のシュラーヴァカとアルハットを伴っていた。みな、三乗の教えによって無数の衆生を救おうとした。しかし今では、仏陀方が説かれた純粋なダルマの教えは次第に消えかかっている。
 雪の国チベットにおいては、ウッディヤーナの第二の仏陀(グル・リンポチェ)がダルマの車輪を回し、ニンマ(古派)の師たちがあらわれた。そして新訳派のマルパとミラレーパ、タクポ(ガンポパ)、その他無数の成就者があらわれた。彼らの多くは高いレベルの成就に達し、四つの元素を制御することができた。火に焼かれず、水に流されず、絶壁から落ちることもなかった。つまり四つの元素がもたらすあらゆる害から自由であった。
 例えばその昔、ジェツン・ミラレーパがネパールの洞窟で静かに瞑想していたとき、猟師の一団が通りかかった。彼らはミラレーパが座っているのを見て、人間なのか幽霊なのかを問うた。ミラレーパは前を動かずに前を見つめたままで何も答えなかった。猟師たちは毒矢を放ったが、ミラレーパの肌を貫くことはできなかった。川に投げ入れたり、崖から落としたりしたが、気が付くと前と同じ場所に座っていた。最後に、薪を周りに積み上げて火をつけたが、火はミラレーパを焼くことはなかった。
 しかし、このようなミラレーパのような解脱者でも最後は皆死に、すべては無常であるということを示す。そして今日残っているのは物語だけである。
 わたしたちは、自らの悪しき性質によって悪しき条件を作り出す。それは悪しき風のようなものであり、それによってさらに悪しきおこないをなす。そして四大元素で構成されるこの汚らわしい仕組みにとらわれてしまう。四大元素の罠にかかることによって、意識ある存在として成り立ってしまう。そしてこの案山子のような、幻のような身体が、いつどこで崩壊していくのか、絶対に知ることはできない。
 したがって、今この瞬間から、自分たちの思い、言葉、おこないを、常に善きものとするように心がけることが重要である。このことを心にとめて、無常について瞑想しなさい。

(4)権力者の無常

 高貴で栄えある神々は非常に長い間生きることができるが、死を免れることはできない。
 ここ人間の世界では、かつて世界皇帝がいて、権力と物質的な富の頂点を極めた。聖なる国インドでは、マハーサンマタから始まり多くの皇帝たちが全土を支配した。その後、三人のパーラ朝の王、三十七のチャンドラ朝の王、その他の多くの裕福で力を持った王が、東西のインドを支配した。
 雪の国チベットは、かつてはインド、中国、ゲサル、タジキスタンなどの多くの地域に力を及ぼした。新年のお祭りでは、これらすべての国の大使が、ラサで一日過ごさなければならなかった。チベットの権力はかつてはこれほど強力であったが、永続することはなく、今日では歴史的評価以外は何も残っていない。
 わたしたちは、このような過去の栄光と比べて非常に小さい、家、財産、召使い、地位、その他に価値を見出し、とらわれている。深く瞑想して、これらのものが永遠に続き、絶対に変わることがないのかどうか、自分自身に問いなさい。

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