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クンサン・ラマの教え 第一部 第一章「自由と縁を得ることの難しさ」(6)

正しい心構え

 教えを聞くときの心構えは、四つのたとえ、六つのパーラミター、その他の心構えで説明される。

四つのたとえ

 「樹の集合経」には次のように説かれている。

 尊い者よ、
 自分を病人、
 ダルマを薬、
 グルを熟練した医者、
 そして修行に努力することを、健康を回復させる作業であると考えなさい。

 わたしたちは病んでいる。始まりのない遥か昔から、輪廻という苦しみの大海で、三毒と三毒によって生み出された三つの苦しみという病気にさいなまれている。
 深刻な病にかかったら、良い医者のもとへと行くだろう。医者の助言に従って、処方された薬はすべて飲み、病を治癒できるのであればどんなことでもする。同様に、名医のような師に従い、ダルマという薬を飲むことによって、カルマや負の感情を癒すことができる。
 師に弟子入りしても、師が教えたことを実行しないとしたら、それは医者に従わないのと同じであり、病気を治す可能性がないのと同じである。ダルマという薬を飲まないこと、つまり修行しないことは、無数の薬と処方箋を寝床のわきに置いて、まったく触らないのと同じである。決して病気が治ることはない。
 最近は、お気楽に、「師よ、慈悲を持って見守ってください」などと言って、たとえ多くのひどい行ないをしていたとしても、その報いを受けることはないと思っている人が多い。師が慈悲によって、小石を投げるように自分たちを天界へ送ってくれると思っている。しかし、師が慈悲を持ってわたしたちを守ってくれるということの意味は、師がわたしたちを慈しんで弟子として受け入れてくれるということ、意義深い指導をしてくれるということ、何をすべきで何をすべきでないかということに目を開かせてくださること、勝者が教えた悟りへの道を示してくださるということである。これ以上に素晴らしい慈悲があるだろうか? このような師の慈悲をありがたく受け止め、実際に悟りへの道を進めるかどうかは、わたしたち次第である。
 今わたしたちは、自由と、恵まれた人間としての生を授かっている。今こそ、何をすべきで何をすべきではないかを知るときである。わたしたちは選択の自由を持っている。今この瞬間の決断は、遠い未来の自分の行く末を、善きものにも悪しきものにもすることができる分岐点である。重要なのは、輪廻かニルヴァーナかをきっぱりと選択して、師の教えを実践することである。
 村の祭りを取り仕切る祭司は、死の床にあっても、まるで手綱で馬を操るように、あの世へ行ったり来たりできると信じ込まそうとするかもしれない。しかし、死の瞬間には、すでに道を究めていなければ、過去の行ないという厳しい風が追いかけてくる。そして恐ろしい漆黒の闇が目の前に迫りなすすべもなく、長く危険なバルドの道へ落ちていってしまう。無数のヤマの手下が追いかけてきて、「殺せ! 殺せ! やってしまえ! やってしまえ!」と叫ぶ。果たして、そのような瞬間とはどのようなものだろうか? 逃げるところも隠れるところもなく、助けも希望もなく、絶望してしまい、どうしたらよいか全くわからない。このような瞬間は果たして、自由にあの世へ行ったり来たりできる分岐点だろうか? 
 ウッディヤーナの偉大なる師(グル・リンポチェ)は、こうお説きになった。
 

 あなたの名前を書いた紙にアビシェーカを与えても、それは遅すぎる!
 意識はすでにバルドをさまよい、放心した犬のようになっている。
 より高い世界のことなど、考えることすらできない。

 分岐点とは、手綱で馬を乗りこなすように、自分自身で、三善趣に行くか、三悪趣に落ちるかを決めることのできる唯一のときである。それは、まさに今、あなたがまだ生きている今このときである。
 人間は、他の生き物よりも、善き行ないを積める可能性が大きい。しかし同時に、悪しき行ないも積むことができる。今この人生におけるこの瞬間の選択が、転生を決定的なものとするのだ。
 一度低い世界に落ちたら、なかなか抜けられない。名医のような師と、死を打ち倒す万能薬であるダルマに出会っている今こそが、四つのたとえを実行するときであり、今まで聞いた教えを実践して悟りへの道を歩むべきときである。

 「善き特性の宝蔵」には、避けるべき誤った見解について説かれている。それは、すでに示した「四つのたとえ」の正反対である。

 浅はかで悪い男が、
 まるで師がジャコウジカであるかのように近づき、
 ダルマという麝香を絞り取り、
 とてもうれしそうにサマヤをあざ笑う。

 そのような人間は、師をジャコウジカ、ダルマを麝香、自分のことを猟師、厳しい修行を弓やか罠でシカを殺す方法と考えている。受けた教えを修行することなく、師に対する感謝もない。ダルマを利用して悪い行ないを積み上げることで、重い荷物を背負い、三悪趣へと落ちていってしまう。

六つのパーラミター

 「すべてのダルマの修行に関する教えの理解タントラ」には、以下のように説かれている。

 花やクッションのような素晴らしい供物をささげ、
 教えの場を清く整えて、行ないも清く保ちなさい。
 どんな生き物も傷つけてはいけません。
 グルに真心をささげ、
 気を散らすことなくその教えを聞き、
 わからないことがあれば質問をしてそれを晴らしなさい。
 これらが、ダルマを聞く際の「六つのパーラミター」である。

 教えを聞く者として、このような「六つのパーラミター」を実践しなさい。
 師の座を準備して、クッションなどを置き、マンダラや花などをささげなさい。これは布施の修行である。
 埃を水で丁寧にぬぐい、教えの場を掃除し、行ないも正しくありなさい。これが戒の修行である。
 どんな小さな虫などの生き物も傷つけてはいけない。暑さ寒さなどの困難にも耐えなさい。これが忍辱の修行である。
 師や教えに関するどんな誤った見解も持たず、深い信とともに、喜びを持って教えを聴きなさい。これが精進の修行である。
 気を散らすことなく師の教えを聴きなさい。これが禅定の修行である。
 質問をして、わからない点を晴らしなさい。これが智慧の修行である。

その他の心構え

 冒涜的なふるまいは一切慎みなさい。ヴィナヤには次のように説かれている。

 敬意のない相手、
 健康であるにも関わらずかぶりものをとらない者、
 杖、武器、傘を手放さない者、
 頭に布を巻きつけている者に、
 教えを説いてはいけない。

 そして、ジャータカには次のように説かれている。

 最も低い座に座り、
 規律によって威厳ある忍耐を養いなさい。
 あふれんばかりの喜びで目を輝かせ、
 師の言葉を甘露のように飲み、
 完全に集中しなさい。
 これが、教えを聞く心構えである。 

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