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カダム派史(2)「チベットへの招請」

2.チベットへの招請

 チベットのガーリーの法皇イエシェー・ウーと称せられる者の王位継承者が弟のトンネー、その次の王位継承者がラルデ王、その次の王位継承者がウーデであり、彼には二人の弟がいた。年長の方がラツンパ・チャンチュプ・ウーであり、年少の方は出家修行者シバヒ・ウーといい、仏教や仏教外の無量の教えに精通した人物であった。
 法皇イエシェー・ウーは、当時すでに自己の王位を譲ってはいたが、軍の総司令官としてガルロクと戦い、敗れ、牢獄につながれた。ガルロクはイエシェー・ウーに対して、
「おまえがブッダ・ダルマ・サンガの三宝に帰依することを捨てるならば、おまえを牢獄から解放しよう。さもなければ、おまえの体重と等しい重さの黄金を差し出せ。そうすれば牢獄から解放しよう。」
と言った。

 これを知った甥たちは、黄金を集めたが、イエシェー・ウーの頭の重さ分の黄金だけがまだ足りなかった。そこでチャンチュプ・ウーが、牢獄につながれているイエシェー・ウーのもとへ行き、
「まだあなたの頭の重さ分の黄金だけ足りませんが、もうすぐそれも集めて、あなたを解放しましょう」
と告げた。しかしそれを聞いたイエシェー・ウーは、こう答えた。
「私はもう年老いたので、長生きしても誰をも利益することはない。だからその黄金をもってインドからパンディタを招請し、この地に仏法を植えなさい。」

 その言葉を受けて、チャンチュプ・ウーは、インドから多数のパンディタを招請し、チベットにおいて仏法は大いに広がりを見せた。

 しかしチャンチュプ・ウーは、こう考えた。
「このチベットにおいて出家修行者は多いが、仏法の名のもとに邪悪な行為を行っている者が多くいる。
 また、邪悪な行為を行わないまでも、ただ空によってブッダになると唱える者が多い。
 また、小乗の戒律は流布されているが、菩薩行を学ぶ者は少ない。」

「これらの過ちをただす一人のマハーパンディタを求めたい。今までに招請したパンディタ方も、それぞれの部門においては非常に優れていらっしゃったけれども、チベット全体に対する利益は生じなかった。世って今こそ、かのディーパンカラシュリージュニャーナ(アティーシャ)を招請しよう。それによって邪悪な理解を破り、仏教において利益になるだろう。」

 ちょうどこの頃、チベットのグンタン生まれのナクツォ・ツルティム・ギャルワという出家修行者がいた。彼は自らインドに行き、アティーシャをはじめとする数人のパンディタから多くの法を学び、グンタンに帰ってきていた。チャンチュプ・ウーは彼を呼び寄せて、アティーシャの招請を依頼した。
 そこでナクツォは、多くの黄金を持って、多くの従者たちと共に、インドに旅立った。ヴィクラマシーラ寺に到着したナクツォは、アティーシャに多くの黄金を布施して、こう言った。

「その昔、チベットにおいて仏教が広く広まりましたが、ランダルマ王がそれを滅ぼしました。それから非常に長い歳月が経ち、再び出家修行者も増えてまいりました。それらの出家修行者の中に、三蔵に通じた知者はいらっしゃいますが、それらの三蔵を実習体系化するまでには至っておりません。これらをおこなうことができるのはあなた様以外にはいらっしゃらないので、どうかチベットにお越しください。」

 これに対して、アティーシャはこう答えた。

「私のためにチベットの王は多くの黄金を費やし、招請に来た多くの人々はインドの酷暑によって疲弊した。私がかの国チベットに利益を与えられるのならば、なんとしてでも行こう。
 しかしヴィクラマシーラの長老たちが、簡単にそれを許すとは考えにくいので、何か巧みな方策を講じなければならない。ナクツォよ、おまえも私を招請に来たとは他の人には言わずに、ただ教えを求めに来たといい、しばらく実際に教学をせよ。」

 ナクツォはその指示通りに教学をおこなった。そしてアティーシャは、守護神ならびにヴァジュラーサナにおられた成就のヨーギニーに尋問した。すると守護神やダーキニーたちは異口同音にこう言った。
「チベットへ何としても行け。そうすれば仏教にとって利益となるだろう。特に、ある在家信者によって利益が広がるだろう。しかしチベットに行くことで、おまえの寿命は20年縮まるだろう。」

 アティーシャは、「教えが広まり、衆生の利益になるならば、私の寿命が縮まっても問題はない」と考えて、出発の準備を整えた。

 そしてアティーシャは突然、ヴァジュラーサナおよびネパールに巡礼に行くと発表した。アティーシャが出発しようとしたとき、アティーシャがチベットに行くことに気づいた長老シーラーカラは、ナクツォに言った。
「あなたは教えを求めに来たとばかり思っていたが、我らのパンディタを盗みに来たのか。パンディタ自身もまたチベットへ行くことを喜んでおられるようだから、私はあえて阻止しないでおくが、チベットにアティーシャを三年以上はとどめ置き申すな。三年後にはインドに送り返しなさい。」
 こう言われて、ナクツォは承諾した。

 ヴィクラマシーラから旅立ったアティーシャとその一行は、まずヴァジュラーサナに行って多くの供養をなし、次いでネパールに到着した。そのとき吉兆が生じたので、そこに一年間とどまって、スタン精舎という大精舎を建設し、多くの人々を導いた。
 
 アティーシャは西暦982年生まれであり、1040年、59歳の時にヴィクラマシーラから出発し、1041年の年はネパールに滞在し、チベットのガーリーには1042年に到着したのである。
 また、ナクツォは1011年生まれであり、アティーシャがガーリーに到着したときには31歳だった。

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