yoga school kailas

アヴァターラ

1919年2月18日(火) PM4:30

 私はPM4:30にMのところに到着した。
 Mはカタームリタのことについて話しておられた。

「師は、なんと素晴らしいものを生み出したのだろう!
 このようなものは、他のアヴァターラにはない。
 カタームリタは、正確に再現されたフォトグラフのようだ。
 それには場所、時、太陰日、さらにガンガーの潮の満ち引きも描写されている。
 ドッキネッショルを訪ねた後にこれを読んだら、深い瞑想を経験するだろう。

 われわれには、聖なるものとの交わりが必要だ。
 私は、師が行かれた場所や、聖なるものと交われる場所に行きたい。
 しかし私は老いているし、歩くのはたいそう辛い。
 どうすればよいというのかね?
 だからときどき私は、法友である出家修行者を瞑想する。
 サードゥを訪ねた後は、彼らを瞑想すべきだ。
 サードゥの王であるアヴァターラを瞑想することは素晴らしい。
 パラマハンサデーヴァ(ラーマクリシュナ)はアヴァターラであられた。
 人は、アヴァターラを瞑想することなくして神に達することはできない。」

 それからMはスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「バクティヨーガ」から引用した。

「われわれは神の人間的顕現を通してでなくては、神を知覚することはできない。」

 彼は続けた。

「ある者は、神は無形だという。
 どうやって無形の神のことを思えるというのか?
 無形の神を思っている間、人は、大きな王座に足をぶらぶらさせながら座っておられる存在をイメージする。
 われわれは限定されているのだよ。どうやって無限の『あれ』を知覚できようか?
 1オンスのカップの中にどうやって6オンスの水を入れるというのだね?
 神は無限であるにもかかわらず、アヴァターラとしてのフォームを取ると、限定されたものとなる。
 彼は、信者が彼を瞑想できるように、そうなさるのだよ。

 師は、ある信者たちにこう言っておられた。

『他の神々を思う必要はない。ただ私を思いなさい。』

 師がコシポルで病にかかっておられたとき、ある夜の午前一時に、スワミジ(ヴィヴェーカーナンダ)は、師のところに灰を塗りに来られた。
 彼は師にこうおっしゃった。

『歌をお聞きになられますか?』

 彼は美しい声で、師が人間のフォームをとった神ご自身であると主張する賛美を歌った。
 スワミジのような人が師を神の化身であると受け入れるならば、われわれはこれを認める他に選択肢はないだろう。
 師は愛され、教えを与えるに相応しい器であるとお考えになった者に対しては、真の本性を明かされたのだよ。
 彼はスワミジにこうおっしゃった。

『私はアヴァターラだ。
 お前は私を瞑想するだけで十分だよ。』」

(「Mとラーメーシュ・チャンドラ・サルカール」より)

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