yoga school kailas

もしもボックス、その他つれづれ

 ある人が、修行を進める上で、その観念やカルマを破壊するために、ある状況が必要だったとします

 たとえば、極端な例を挙げるならば、ある人の修行が進めむためには、実はその人のお父さんが自分の本当のお父さんではない、ということにショックを受けなければならない、という条件があったとします。

 でもそのお父さんは本当のお父さんだったとします。
 
 ここで神が、慈愛によって、現象を変えてしまうことがあります。
 
 つまり、現時点ではそのお父さんは本当のお父さんなのですが、
 神の操作により、「本当のお父さんではなかった」というふうに、事実が書き換えられてしまうのです。

 これはドラえもんのもしもボックスとか、その他の漫画やSFでそういうシチュエーションはよく出てきますね。
 もともとなかったことになってしまうとか、もともとそうだったことになる、ということです。
 それは自分だけではなく、世界全体を巻き込んでそうなってしまうのです。

 修行を進めると、実はそのような『神の操作』に少し気づくことがあります。
 「あれ、今・・・(笑)」という感じです笑。
 それはこちら側が気づくと言うよりも、神が、「おまえならもうわかるだろう」という感じで、少し種明かしをしてくれる感じです笑。

 話を戻しますが、

 つまりそういう意味でも現実は幻であり、
 過去も未来も幻なのです。

 仏教ではよく「無始の過去」といい、輪廻に始まりはないといいますが、実際に輪廻には始まりも終わりもありません。強いて言えば、「輪廻からの目覚め(解脱)」という終わりがあるだけです。輪廻自体には始まりも終わりもありません。
 しかしその始まりのない輪廻の過去を振り返ると、いろいろなことがあったことになっているわけですが、それも今言ったような神の操作が加わった場合、あったことがなかったことになったり、なかったことがあったことになったりもします。

 ですから、前世というのは確実にあるのですが、それを知ってもそんなに大した意味はありません。一つ二つの前世を知るよりも、輪廻という壮大な仕組みを知ることの方が大事です。

 まあつまりいつも言うように、
 我々にとっては、今目の前に与えられた課題に全力で取り組むことのみが重要であり、
 過去も未来も、神によって我々に与えられたまやかしなのです。今目の前の課題に付加された条件設定に過ぎないのです。

 そのような柔軟な姿勢で現象を見、あまりに合理的なガチガチの見方にとらわれないようにしなければなりません。

 といっても、非合理的になれというわけではありません。あえて言えば、「超合理的」とか「真の合理的」になれということですね。
 つまり真の「理」に合一せよと。
 
 そのためには自分で勝手に作り上げた、あるいは社会が共同幻想的に作り上げた、観念的な合理性は打ち破られなければなりません。

 とはいえ、小さな現象に関しては、一般的な意味で合理的でなければなりません。しかし問題が本質に近づくに従って、小さな合理性を捨て、超合理性を身につけていかなければなりません。

 ところで、そういう意味では、今流行っているほとんどのスピリチュアリズムや霊的なものの多くは、単なる非合理性に陥っているといえるでしょう。
 私はよく言うのですが、そういうものにはまるくらいなら、普通に現実的に努力した方がいいです。社会で成功したいなら、ヒーリングなど受けず、現実的に努力してください笑。神を悟りたいなら、自己と向き合い、正しい縁のある師につき、ヨーガや仏教の修行に励むことです。

 最近の(というか前からですが)多くの精神世界とよばれるものは、チューギャム・トゥルンパが「スピリチュアル・マテリアリズム」と呼んだように、単に通常とは別の観念世界に逃げ込んでいるだけであって、自己を解放し、真の理に向かう道ではありません。

 シヴァーナンダが言ったように、真の精神世界や修行の道とは、茨の道であり、決してバラ色の道ではありません。流血覚悟で飛び込まなければなりません笑。

 
 さて、話が散乱してしまいましたが笑、最後に57577でまとめてみましょう。

 まやかしの
 合理に足を
 とらわれず
 真の理をただ
 追い求むべし
 スピリチュアルの
 罠に気をつけ(笑)

 

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