yoga school kailas

ふるきを尊重してあたらしきを発見する

 二つ前の日記で【テルマ】という言葉が出ましたが、これは何かといいますと、埋蔵経といいまして、チベット仏教では、特にニンマ派では、カマとテルマという二つの経典の流れがあるのです。
 カマとは、インドから伝わる正当の仏教聖典のことですが、テルマとは何でしょうか。
 チベット仏教の開祖ともいえる、インドから来た密教行者パドマサンバヴァが、その当事にはそぐわないけれど、時期が来れば必要になる教えを、チベットの様々なところに埋蔵したというのです。
 そしてその教えが必要な時代が来たときに、そういった埋蔵経を発掘する能力を持った聖者(テルトン)が、様々な形でその埋蔵経を発見し、チベット仏教の教えに新たな息吹を吹き込むのです。
 それは、実際にその経典の実物が岩の中などから発見されることもあれば、テルトンが夢の中で、あるいは瞑想のインスピレーションの中で【発見】することもあるといいます。
 それは本当なのだろうか、発見したなどというのはすべて作り話で、テルトンが勝手に教えを作っているのではないか、と疑う人もいるかもしれないが、たとえばナムカイ・ノルブ師の「虹と水晶」などには、彼自身が実際に見た、テルトンであった彼の叔父がテルマを発見する様子が、非常にリアルに書かれており、これを見る限りはトリックだとか作り話とは思えません。また、夢や瞑想で未知の教えが現われるというのも、私の経験でも、間違いなくあります。
 もちろん、それらが本当にパドマサンバヴァが残したものなのかどうかとか、真理の教えなのかどうかということは証明しえないので、その中身そのもの、あるいは他の要素ではかるしかないのかも知れませんが。

 ところで、私はこのカマとテルマという考えのみならず、仏教特有の、「古きものを大事にしつつ、常に新しきものが現われる」という流れは、すばらしいものだと思います。
 
 お釈迦様の教えはすばらしく、それが仏教すべての根本だとは思いますが、あくまでもそれは「2500年前のインド」という条件下でお釈迦様が説いた教えです。極端に言えば、今現在のこの日本で、お釈迦様が現われたとして、同じ教えを説くとは思えません。なぜなら言葉であらわされる真理などは、すべて方便に過ぎないからです。

 だから正統的な昔の教えだけにこだわっていると、人間は馬鹿ですから、すぐに形式化やドグマに陥ってしまい、新鮮な真理の輝きは消え、方便としての言葉が固まり、固まった言葉としての真理にとらわれてしまう危険性があります。
 だからといって、正当な根本の教えを無視して好き勝手なことを言い出すと、何が正しく何が正しくないかの根本がわからなくなり、混沌に陥ります。

 だから私は、インドの大乗仏教や密教、そしてその後のチベット仏教の流れは、非常にすばらしいものだと肯定するのです。
 よく誤解されるところですが、インドの大乗仏教は原始仏教を否定したわけではありません。当時のナーランダーなどの僧院で大乗仏教の研究と実践をしていた僧たちは、僧としての戒律や基本的な修行は、原始仏教から受け継がれてきたものを行なっていたのです。そしてその土台の上に、その時代に必要な新たな教えとして、大乗仏教、そして密教といったものを展開していったのです。
 もちろん、その「時代に合った新鮮な教え」が正しいものであったのかどうかというのは、別問題です。それにはいろいろな意見があるでしょう。私は、個人的な意見としては、正しいものも正しくないものもあったのではないかと思います。つまり、インドの大乗経典や論書といわれるものの中にも、すばらしい真理もあれば、間違った教えもあっただろうと、個人的には感じています。それはチベットのものも同様でしょうが。

 インドの大乗仏教は、般若経典群、そしてナーガールジュナに始まる空の教えを基点として発展して行き、後に密教へと移行し、最後はカーラチャクラ・タントラの登場で完成を向かえたといいます。完成といえば聞こえがいいですが、そのころにイスラム教の襲撃その他の理由で、インドから仏教は姿を消すのです。
 そしてそれを受け継いだチベット仏教は、前述のテルマの伝統のみならず、様々な聖者が新たな教えの解釈を展開したり、新たな修行を生み出していくことで、伝統的な教えに加えて常に時代に合った新鮮な真理の水を降り注いできたのです。 
 チベット仏教のシステムは、基礎において徹底的な顕教の教育がなされるといいます。つまり原始仏教、そして大乗仏教の教えの徹底的な学習と実践が行なわれるのです。そしてその上に密教の教えや、時代に応じたテルマなどの新しい教えが乗っかってくるわけです。

 今の日本で修行しようとする我々は、大変ですね。何を尊重するかはその人の自由ですが、私は、原始仏教も、大乗仏教も、チベット密教も、全部尊重し、良いものはすべて取り入れたいと思います。 
 もちろん、話の流れとはずれますが、私は、ヨーガ・スートラ、バガヴァッド・ギーターなどで表わされる、そして後の様々な聖者が説いた、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、そしてハタ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ等の伝統も尊重し、取り入れています。
 そしてその上で、それら伝統的教えを土台に自分の経験や思索を加味して、現代に合った見解や修行もまた展開していかなければならないだろうと思いますね。

 それだけいろいろやらないと救われない悲惨な時代になってきたということでしょう(笑)。でもいろいろできて、楽しいともいえます(笑)。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする