「離れない」
◎離れない
【本文】
十三.身体において師や三宝を供養することから離れず、言葉において教えから離れず、心において慈悲や菩提心から離れないでください。
これは、身・口・意というわけだけど、われわれの行動っていうのは、簡単にいうと、体と言葉と心に分類される。身体においては、「師や三宝を供養することから離れず」、これはさっきのアーナンダマイー・マーの教えともつながるけども、われわれの体っていうのは、すべて師や三宝――三宝っていうのは、仏陀と仏陀の教えと仏陀の弟子たちね――それから現実の自分の師、もちろんバクティの場合はこれに偉大なる至高者とかもいれてもいいわけだけど。つまり、自分の人生の自分の行ないを全部、師や三宝や至高者への供養なんだって考えながら行なう。
これはアーナンダマイー・マーの教えでもあるけど、そう考えてたらね、もう悪いことできなくなります、逆に言うとね。最初のうちは、悪いことと供養の気持ちが、ちょっとぐらいはダブっててもいいです、最初は。でも、だんだんできなくなります。
例えばパチンコにはまってたとしてね、「よし、パチンコ行こうか――ああ、でも、すべて供養だよな……でもどうしてもやめられない。すいません! パチンコ供養します!」って言いながら(笑)、パチンコやってると。最初はね。でもそんなことを一日二日一週間もやってたら、行けなくなります。「やっぱりパチンコは供養できないな……」っていう気持ちになってきて、「すいません! わたしはその時間を修行に費やします!」っていう気持ちになってくる。
でも最初はいいんだよ。最初は、神のことを忘れてパチンコやるよりは、このパチンコを供養しますっていうやり方で、全くかまわない。でもやってるうちに、どうでもよくなります。例えばだけどね。
そういう形で、すべての行ないを供養に結びつける。もちろん供養そのものは、それはそれで最高にすばらしいよ。例えば自分の師や仏陀への奉仕を行なうとか、あるいは実際に供物を持ってきてささげるとか、それは供養そのものだけど。じゃなくて、二十四時間自分のあらゆる行ないを、師や仏陀への供養として考える。これが大事だと。
◎教えから離れず
次に言葉においては、「言葉において教えから離れず」。これもいろんな考え方があるけど、具体的に言うと、「教え以外は話すな」っていうことです。
これもナーグ・マハーシャヤとかラーマクリシュナの話にそういう話がよくある。ナーグ・マハーシャヤっていうのは、人々が神以外の話をしてると邪魔をするんだね(笑)。例えば「あの食べ物おいしかった」とか、「隣町の誰さんはちょっと怒りっぽい」とか、そういう話をしてると、行って、「さあ、クリシュナは」――まあ、そういう言い方か分かんないけど(笑)――「クリシュナはすばらしくて」とか、神の話にすぐ変える。
あるいはラーマクリシュナとかも、ちょっとでも現世的な話が行なわれてたりすると――これはラーマクリシュナの若いころの話なんだけど――そういうとこに行くと、もう泣くんだね。「おお、神よ! なぜこんな現世の話をわたしに聞かせるんですか!」と。
つまり、神、仏陀、真理、あるいは自分の心をいかに正しく変えていくかとか、あるいは慈悲であるとか、そういうことしか話さない。
まあこれは前も言ったけど、ここの教室の人たちっていうのはちょっと食べ物の話とか(笑)、あるいは――怒りとか憎しみとかの話はあんまりないんだけど、食べ物とかくだらない冗談が多いので、それは気をつけなきゃいけないね。
われわれもよく念正智するんだけどね。例えば、Tさんとかと話してて、くだらない話になってくると、「あ! クリシュナ!」と(笑)。「こんな話しててもしょうがない! シヴァ!」とかこう言ったりするんだけど(笑)、そういうのは必要だね(笑)。できるだけ言葉では、正しいことしか話さない。教えしか話さない。
神のすばらしさとかはもちろんいいんだよ。「ああ、本当に神というのはすばらしい。仏陀というのはすばらしい」。あるいは「教えっていうのは本当にすばらしいね」――こういう話はすばらしい。
あるいはもちろんさ、いろんな付き合いでいろんな話をしなきゃいけないかもしれない。だから現代においてはなかなか大変なこともあるけども、できるだけ人々に利益のあるような話に持っていった方がいいね。
ラーマクリシュナの弟子で『ラーマクリシュナの福音』を書いたMっていう人は、とても人から好感を持たれる聖者だったので、いろんな人がたずねて来るんだって。で、いろんな人が来ていろんな話を――例えばくだらない話だったりするんだけど、Mってやっぱり『ラーマクリシュナの福音』を書いただけあって、おそらく言葉の才能があったと思うんだけど――どんな話をしても、最後にはラーマクリシュナの話になっちゃうんだって(笑)。Mに話に行くと。「いやあ、Mさん、下の八百屋がちょっと最近不景気でつぶれそうなんだってねえ」っていう話をしたとしても、その話の流れで、「ラーマクリシュナはすばらしい」っていう話になるんだって(笑)。
それはだから一つのわれわれも学ぶべきところだね。それはもうケースバイケースなんだけど、相手が例えば人の愚痴を言ってきたとしても、「いや、でもこういう考え方もあるんじゃない?」って言ってあげるとかね。いろいろあるよね、それはね。これもそれぞれのケースバイケースで考えたらいいと思います。
そして、「心においては慈悲や菩提心から離れない」。これはまあこのままですね。もちろん、プラス、バクティにおいては、自分の師やあるいは至高者、仏陀、これをここから離さないっていうのもとても大事だね。