「誤った理解をしない」
◎誤った理解をしない
【本文】
十七.忍辱・関心・味わい・哀れみ・親愛・随喜などに関する誤った理解をしないでください。
これもね、ここで挙げられてるのっていうのは一つの例なんだけど、これ以外でもそうなんだけど、一つの教えのワードがあって、それを間違った――つまり同じ言葉で別の正しくない考え方も当然あるわけだね。それは二つぐらいあります。一つは、全く煩悩的な考え。で、もう一つは、教えっぽいんだけどちょっと間違ってるっていうやつ。
例えば例を挙げると、忍辱。これは「耐える」っていうことだけど、さっき言ったような正しい考えで耐えると。つまり衆生のために、あるいは自分の心を変革するために耐える。これはすばらしいね。じゃなくて、エゴを満足するための忍辱は駄目なんです。
例えば、そうだな、「ああ、あそこのラーメン超食いたい!」と。並んでると。「一時間待ちか……よし! 忍辱だ!」って言って(笑)、「さあ、あれを食うためには一時間ぐらいなんともない!」――これは間違った忍辱だよね(笑)。煩悩のための忍耐っていうか。だからそういうのは駄目だと。ね。
これもだから、この六つだけでもないし、あるいはこの六つに関してもそれぞれのパターンでいろいろ考えてみたらいい。
例えばよくいわれるのが、哀れみに関してよくいわれるね。例えば哀れみっていった場合、例えばですよ――泥棒がいて、へたくそな泥棒がいて、で、強盗に入ろうと思うんだけどいつも失敗してしまうと。「ああ、本当におれは駄目だ……」と。その強盗を見て哀れみが出て、「ああ、本当にあなたはかわいそうだ」と。「協力してあげるよ」と(笑)。これは間違った哀れみでしょ(笑)? そこでその人の泥棒を成功させたとしても、悪業を積むだけであって、相手方には迷惑がかかるだけであって、誰のためにもならない。これは間違った哀れみっていうんだね。これも極端な例だけどね。
だからここら辺のさまざまなパートにおいて、まず正しい理解をしなきゃいけない。だからこれも結局教学――教えをしっかり学ぶっていうのが必要になってくるね。で、その上で、正しい理解のもとに実践する。
あと、さっきも言ったように、自分のエゴが詐欺師みたいに教えを利用してエゴを達成させようとすることがあります。だからそれもひっかからないようにしてください。「これは忍辱だから」「哀れみだから」とかいって、間違った――つまり、エゴを実践させようとするときがある。だから、ここで大事なのは誠実さだね。教えに対する誠実さ。あるいは、仏陀や師や至高者に対する誠実さがあれば、ひっかかりません。
「今わたしは、教えに基づいてこういうことをやろうしてるんだけど、でもこれは言い訳じゃないか?」と。「エゴを達成させるための言い訳として、わたしはやろうとしてないかな?」――こういうことをしっかり考えなきゃいけない。