「誇りを修習すること」
◎誇りを修習すること
【本文】
(2)誇りを修習すること
『自分がイダムであるという自負を生起させ、心一竟に住する。
その力がもし弱まったら、イダムの自負を生起させて、それに心を安置する。
そのようにして、はじめは偽りの自負によって観想するのであるが、あるときからイダムとしての自負が堅くなり、偽りでない自負に移ることができるようになる。そのような自負を、実習のはじめから終わりまで保つべきである。
イダムの顕現と自負の二つの観想は、はじめは交互にはぐくむ。そして最後には、自分の意識において普通の顕現を現わすことなどできない、という自負により、優れた顕現だけが現われるようになり、普通の顕現を意識において浄化することができるようになる。
また、偽りでない自負に移ることができるならば、普通に思ったことを意識において浄化することができるのである。
それから瞑想を終えて、日常生活において現われるすべての顕現に対しても、すべてはイダムとその宮殿であると見て、その本質として現われる堅固なサマーディを生じさせ、すべてのあらわれを浄化していく。』
今度は、さっき言った外側にいろいろイメージしていた段階から、今度は自分自身が仏陀そのものであると、あるいは神そのものであるというイメージに移行するわけですね。それは最初はまず形から始めるんです。
つまり、はい、自分がこういう服を着ていて、顔が三つくらいあってとか、自分が今、腕が四本ありますとか、そういうイメージから最初始めていく。でもそれは最初の段階では、何となくそういうイメージの遊びをしているようなだけなんだけど、徐々に本当に今わたしは仏陀になってるんだっていうような自負ね、自負心。これは誇りとも言いますが、つまりいい意味での誇り。「わたしは仏陀なのである」といういい意味での誇りを、どんどんどんどん強めていく。
それは最初は偽りって言われてるのは、最初は自分でも本当はそう思ってない(笑)。そう思ってないんだけど、まあ、言われたからそう考えるかな――ぐらいな感じなわけだけど、だんだん修習が進んでくると、それがより自分の心の習性として根付いてくると、普段から、「わたしは仏陀なのである」っていうその瞑想の意識をね、保ちやすくなる。
最初は、「はい、イメージして」、「はい、わたしは仏陀なんだ」。「はい、イメージして」、「わたしは仏陀だ」――こういうのを交互にやるわけですが、だんだんだんだんそれが心の中で固められてくると、より――ここで言ってる話っていうのはとても実際は深い話があって、普段われわれはね、これはいつも言ってることだけども、この世をありのままに見ているような気がしてるんだけど、実際はありのままに見てないんです。何をやってるのかというと、瞬間瞬間瞑想してるんです。
どういうことかって言うと、まさにここでやってるような、今さっきいったような、「はい、宮殿があって、自分が仏陀で、周りに菩薩がいる」。これはさ、みなさんこれを聞いたら、「えっ、そんなことは有り得ないのに、イメージの遊びですね」って言うかもしれない。でもわれわれは、普段同じことをやってるんです。本当は世界っていうのは、みなさんが見ているような形ではない。しかし、みなさんが生まれてね、小さい頃から教えられてきました。「世界とはこうなってるよ」――世界とはこうなってるよとは教えられないけど(笑)、普段のいろんな会話とかいろんなことによって、世界の見方っていうのを固定されてきたんです。で、それをわれわれは瞬間瞬間瞑想してるんです。
どういうことかって言うと、この瞬間、「世界はこうなんだ!」っていうレッテルを貼ります。で、次の瞬間また貼ります。これをひたすら絶え間なく行なってるんだね。だからこのレッテルを外さなきゃいけない。
外すとどうなるかっていうと、本当に外せたら悟ります。だから悟りっていうのは一つの言い方をすると、世界のそのレッテルを貼る作業を止めることと言ってもいい。「こうだ!」「こうだ!」――これは自分に対してもそうだけどね。「おれはこうで、世界はこうで」「おれはこうで、世界はこうで」っていうのを一生懸命やってるんだね。やり続けてる。
◎固定を外す
でもこれね、今こういう話をしてるけど、これだけを聞いてみなさんが真似事でやると危険な場合もあります。なぜかというと、「レッテルを外した!」と思ったら、もっと違うレッテルが出てくる場合があるんだね。で、それが悪いものであった場合、みなさんはより低い世界に落ち込みます。
どういうことかっていうと、例えばNさんだったら、「わたしはNである」と。今まで自分が歩んできた人生が全部インプットされてるから、それでもう完全にN像が作り上げられてるわけです。だから人と接するときとか、無意識にやってるようで実は意識的に演じてるんです、Nを(笑)。だからわれわれもN――まあ、Nさんってわたし初めて会ったけど、Nさんとこれから何度も会っていったとしてね、多分印象っていつも同じだと思うんです。「ああ、今日もNさんこんな感じだねえ」。Nさんを思い浮かべると、「あっ、Nさんだ!」と。それは、Nさんが一生懸命演じてるんです、無意識に。あるいはNさん自身も、この世界を一生懸命同じように同じように同じように見続けてるんだね。これが外されたとき、心は非常に自由を取り戻します。
それは外的に見るとね、ちょっと変な人になるかもしれないんだね。変な人になるかもしれないっていうのは、本当にこれ、ただ外されただけだとどうなるかっていうと――そうだな、ちょっと狂った人のように見えるかもしれない。まあだから、密教行者とかで悟った人って狂ったように見える場合があるわけだけど。つまり例えば、自分がどう見られるか全く考えてない。あるいは世界をどう見るかっていうのも固定されていない。
例えばわたしだって、もちろんある程度の固定された見方をして、今勉強会をしているわけです。つまり、「今、勉強会の場である」と。「わたしっていうのは今こういう存在であって、みんなに対してこういう話をしなきゃいけない」っていうのは、固定の中にいるわけだね。もしその固定を外したらどうなるかっていうと、いきなりわたしが――例えばわたしの場合、修行してるから、ぐわーってよく歓喜がこみ上げてくる。そうするとその歓喜で、「やっほっほー!」ってこう踊りだすかもしれない(笑)。いきなりね、「みなさん勉強会です」とか言って、今日初めての人もいるわけだけど、「勉強会ってどんな内容なんだろうな?」って来て、わたしが「やっほっほー!」ってこう踊り出したら(笑)、「なんだ、ここはー!」ってなってしまう。だからわたしは一応、世界を固定するわけだね。それはわたしというよりも、みんなのために固定してるわけだね。
だからよく密教行者はね、そういう社会との要らぬ関わりを断つために、よく森に入ったりしてやるんだね。よく密教の修行で、真っ裸になって森に入って心の中のものを全部出す修行っていうのがあるんだね。真っ裸で森の中の誰も居ないところに入って、つまり誰も居ないからもう何も気にする必要はない。その中で「うわーっ!」って叫んだりとか、踊ったりとかっていう修行がある。これは別にみなさんやる必要ないけど(笑)。いきなり何か大山とかの山中でT君とかが「わあーっ!」って、捕まって、事情聴取で「先生に言われました」とか言って(笑)――それはちょっとやるは必要ないけども、つまりそういう状況を作り出すんだね。
それは別に、いきなりそれを今言ったみたいに形から入る必要ないんだけど、だんだん修行していくとそういう感じで、自分をガチッとはめているものと、世界を自分がガチッと固定しているものが、ちょっと剥がれてくるんですね。
完全には剥がれないよ。完全に剥がれたら、さっき言ったみたいに一見狂人みたいになるから。完全には剥がれないけどちょっと緩まるだけでも、みなさんは非常に楽になります。というか、幸せになります。
まあ、そうだな――楽にはなる。幸せになるかどうかは別問題だね。幸せになるかどうかは、みなさんの内側に幸せの種がどれだけあるかによります。だからそれは日々の修行とか、日々の正しい生き方によって、その種は作らなきゃいけないんだけど。
とにかくその自分をガチガチに固定しているものがだんだん外れてきます。
これはね、やったらいいかもしれない、みなさん。今わたしが言ったことをある程度覚えておいて、完全にじゃなくていいから、ある程度実践してみて下さい。つまり、わたしはわたし自身というものを、あるいは世界というものを、日々固定してると。固定を外す。でも、最低限この世で生きてくだけの固定は残しとくんだけど、でも余計な固定を外す。そうすると、かなり心は自由になります。「自分がどう思われるかな?」とか、あるいは世界に対する固定的な期待であるとか、全部外すんだね。
ちょっとこれは例としてとても挙げにくいけども、みなさんどういう生活しているか分からないけど、例えば家族がいて、朝いつもお母さんがご飯を作ってくれるとしたら、その世界観っていうのは完全に自分の中にインプットされてる。で、自分の安心できる自分の部屋があって、朝になるとお母さんがご飯を出してくれるっていう一つの、これは期待ともいえるし、固定された世界の構造が完全に自分の中にあるわけだね。それを全部外すんです。一切期待しない。
だからこれは言い換えると、今この瞬間に集中するってよく言うけども、それとも通じる。一切期待しないんだよ。三十分後にご飯が出来るなんて一切思わない(笑)。ただこの自由なこの今の瞬間に漂う。でも頭の片隅には、あと三十分でご飯の時間だって残しておいて構わない。だからいつも通り、「あっ、三十分経ったな」と。で、いつも通りガーッと戸を開けると。で、行くとご飯が用意されている。それで大感動するわけです(笑)。「お母さんは何て優しいんだ!」と。「わたしのためにご飯作ってくれたとは!」。
で、逆に言うと、作ってくれなくてもOKなんです。無かったとしても、そこで何かが生じるわけではない。
つまり、世界を固定してるから苦しみが生じるんだね。「ここでご飯が出ないとおかしい!」と思ってるから、出ないとわれわれは苦しんでしまう。それを最初からすべて外してる。そうすると、逆に毎日のようにご飯が出てくると、もう毎回毎回それは感謝で一杯になる、とかね。
あるいは、人と接して緊張する人ってよくいると思うけども、そういう緊張とかもだんだんなくなってきます。だって自分がどう思われるかを固定していない。あるいは、自分の他人に対する見方も固定していない。
じゃあ、固定してなくてどうするんですか? どう見るんですか?――それは、最終的には一切の固定を外して自在に見るんです。
◎固定の溶解と、善い見方のインプット
でもこれは最後の段階なんだね。さっきも言ったけども、外したふりをして変なのが出てきたら、より悪くなります。だから、その前の段階でやっぱり教えはしっかり学んでおかなきゃいけない。つまり周りに対するものの見方であるとか、菩薩としての心の持ち方だとか、学んだ上で、いつもの――つまり十何年間、十年、二十年、三十年と作ってきた自分の誤った固定を外すんだね。
自由な心で――例えば今まではこういうタイプの人は苦手だったっていう人と会うかもしれない。今まではこのタイプの人は苦手だったんだが、それはもう自分が自分で一生懸命その人を苦手にしてるだけなんです。「苦手だ!」「苦手だ!」「苦手だ!」っていうインプットを、その人と会う度にやってるだけなんだね。それは外そうと思えば、実は一瞬で外れるんです、なぜかっていうと、もともとそうじゃないから。もともとただ一生懸命当てはめてるだけだから。だからそれは思い切って外す。外すとその人が別に苦手ではない、苦手でないただの映像として現象として目の前にぱーっと現われて来ます。で、そこで、そのときなすべきことっていうかな、やるべきことをただその人に対してやればいい。
もしかするとそこで、より自由な新しい何か思いが沸いてくるかもしれない。で、そのいい思いに関してはどんどん肯定して構わないよ。例えば大嫌いな苦手な上司がいたとしてね、この上司はいつも威圧的で、人の欠点をいつも厳しく言うタイプの上司だと。で、それが頭にあると、いつもその目でその人を見るわけだね。「この人は威圧的で人の欠点をいつもねちねち言うんだ!」――つまりその映像が目に見えた瞬間に、その自分のレッテルをバンッ、バンッ、バンッと貼り続ける。
逆に、パッとレッテルを外したとするよ。レッテルを外して自由な目でその人を見たときに、その上司がなんか可愛い仕草をするかもしれない。ね。よく分かんないけど、何かちょっと「くねっ」と腰を踊らした、とかあるかもしれない――で、自由な心でいるとそれが見えるわけです。「何だ、この人はなんか面白いな」と(笑)、「いい年して何かちょっと可愛いとこあるな」って思えるかもしれない。でも、「この人嫌いで威圧的だ!」って思ってると、そこに気付けないんです。心が非常に固くなってるからね。
これはまあ一例だけども、だからそういう感じで、日々普段から固まった世界をちょっと溶かしていくと同時に、心の中にね、善いものの見方をインプットしていく――これが修行の一つのなすべきことだね。
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