yoga school kailas

「誇りを修習する」

◎誇りを修習する

 話が戻るけど、ここで言ってる「誇りを修習する」とかいうのは、それをよりシステマティックに行なおうとしてる。つまり、瞑想において普段から新たなイメージをインプットする。

 つまりこれはさっきも言ったけど、完全にあらゆるレッテルが外れたら悟りなんです。それはまず不可能なんです、まずはね。最終的にはそうなるんだけど、さっきも言ったけど、今持ってるものを全部外したら、逆にもっとひどいのが出る場合だってあるんです。

「先生の言った通りにレッテル全部外したら、より世界を憎しみの目で見るようになっちゃいました」と。

「みんなが憎くてしょうがない」とかになってしまう場合がある。

 つまりそれは、その人が隠してた、世界に対する憎しみみたいなものが、その表面的なものが取れた段階でばーっと出てきちゃって、より駄目な人になっちゃう場合がある。これじゃあしょうがないわけだね。だから単に外すんではなくて、善いものの見方、善いインプットを入れるんですね。

 その最たるものが、この世界を浄土として見るっていう見方なんです。

 つまり、「この世界は何なんですか?」「それはただの地球の日本のこういう世界ですね」――それは、ただ小さい頃から教えられてきたものの見方に過ぎない。

◎六道輪廻の同窓会

 今日新しい人もいるから前にも話した例を挙げるとね、これはよく仏教の有名なたとえ話で、六道輪廻の――有名なっていうかわたしがちょっとアレンジしてるけども――六道輪廻の同窓会っていうのがある(笑)。これはどういう話かっていうと、つまり六人いましたと。じゃあこの六人にしますかね。わたしとRさんとT君とGさんとKさんとMさん、六人いましたと。六人は仲良く友達でしたと。六人全員死にましたと。みんな違う世界に生まれ変わりました。

 わたしは地獄に堕ちました。

 Rさんは動物界に、犬とか猫とかになりましたと――この場合は魚にしましょう、Rさんは魚に生まれ変わりました。

 で、T君は餓鬼の世界――餓鬼っていうのはこれは妄想に苦しむ霊の世界だけど――餓鬼になりましたと。

 で、Gさんは人間になりました。

 で、Kさんは阿修羅の世界に生まれ変わりました。

 Mさんは天界の女神になりましたと。一番いいカルマね(笑)。

 はい、こうして六人が他の世界に行っちゃいましたと。これは例えなんで、有り得ない話なんだけど、暫くしたあとに同窓会やろうと(笑)。ね。同窓会とか言って、この六人が集まりましたと。中間の人間界に集まりましたと。

 わたしはいつも「あーっ!」て地獄で苦しんでるんだけど、その日だけは人間界にやってきて、みんなも人間界に来ましたと。

 みんなで、どうしようかと。夏だったんで、プールにでも行きましょうかと。あるいは川でもいいけれども、プールに行きましょうって言って、プールにみんなで行ったと。

 さあ、みんなプールに入りました。何が起きたかと。

 わたしはプールに入った瞬間、プールが炎の海となり「うわーっ!」て体を焼かれる。ね。みんなにとっては違うんだよ。この六人が一緒に「はい!」ってプールに入ったんだけど、わたしだけ火の海なんだよ。みんなにとっては違うんですよ。

 Rさんは魚だから「わーっ! わたしの住処だーっ!」と思ってこう泳いでると。

 で、餓鬼に生まれたT君は――餓鬼っていろんな餓鬼があるんだけど、例えば血の海、血の汚い汚物の中に住まなきゃいけなくて、その汚物を食べて生きるような餓鬼っているんだね。T君は、ばーって水に入ったら、それが汚物の海に見える。その汚物によって苦しまなきゃいけない。「うわーっ! 何だこの汚いのはーっ!」と。

 Gさんは人間だから普通に「ああ、プールだな」って泳いでる。

 まあKさんとMさんは阿修羅と天なんで、まあそうだな、この場合は一緒にしましょう。――阿修羅の場合、闘争心が入るから、若干歓喜が弱まるんだけど――一応KさんとMさんは同じ天の住人ということで、プールの水に入った瞬間、そのプールの水がいわゆるアムリタ――甘露と呼ばれる至福の液体があるんだけど――それに変わるんです。そこに入った瞬間、「あーっ、気持ちいい!」と。「とろけるような気持ち良さだ!」と。

 客観的に誰か第三者がそれを見たら、みんなただプールに入ってるだけなんだけど(笑)、わたしとT君は「わーっ!」て苦しんでる。RさんとGさんは普通に泳いでると。で、KさんとMさんは歓喜に浸ってる。「うおー!」となってると。

 つまり、分かりますよね? 客観的な世界っていうのは、ないんです、実際は。じゃあ、本当は何なのと。本当の本当のこと言うとそこには何があるのっていうと、それが、仏教でいうところの「空」なんです。

 一切は空ですよ。一切は空なんだが、われわれの妄想によって世界がそのように見えてる。で、妄想によってっていうのはつまり、ただ見えてるだけではなくて、実際にそれは影響を受けてしまうんです。

 例えばわたしは、ただ火のように見えるだけではなくて、本当に体が焼けただれる。このような現象が起きますよと。

◎すべてはものの見方一つ

 つまり世界っていうのは、心が作った幻ですと。それは、全部そうなんだね。この人だけ幻を見てて他の人は正しく見てるじゃなくて、全員幻を見てるんです。で、われわれは小さいころから、共通概念をずっと教わってきたから、今、共通の幻を見てるんです。 

 だからもし山の中で育って、全く人とも会わないで生きてきた人がいるとしたら、ちょっと世界の見え方が違うはずです。まあ同じ人間界に生まれてるから、カルマは似てるから似てるように見えるかもしれないけど、多分同じようには見えない。

 でもわれわれは小さいころから、「こうだよ、こうだよ、こうだよ」。あるいはテレビを見るよね。テレビを見ることによって「あ、そうなのか」と。最悪なのは――最悪って言っちゃ変だけど――小学校に入ったらもう終わりです(笑)。つまり、完全に平均化されます、ものの見方が。それまでは――こういう子っていると思うんだよね――例えば妖精と遊んでたとかね。小さい頃はいつも神が近くにいたんですよ――でも小学校入ると、「そんなわけねえだろ!」という感じになってくる。「おれさあ、ちっちゃいころロマンチストで、いつも神がいるなんて思ってたんだよね」っていう話をしだす。それはロマンチストだったんじゃなくて、その神と遊んでたのがその人にとっての現実だったんです。ちっちゃいころはね。でも小学校に上がると平均化されるから、この地球の平均な見方にみんな慣らされてしまう。で、それが真実だと思い込んでしまう。でもそれも幻なんだね。

 で、それを――また話を戻すけども――意識的に、新たな、最も善い幻を作り出そうじゃないかと。これが生起段階の次第の瞑想の狙いなんだね。 もともとこの世の見方は間違ってるんだから。ちょっと繰り返すけども、もともと間違ってます。でもそれをすべてリアルにするのは、まだ無理ですと。だったら、いい間違いに変えましょうと。

 つまり言い方を変えると、今われわれは悪夢を見てるんです。で、この夢から覚めるのは難しいんです。だったら、まずちょっといい夢に変えましょうかと。この世の見方をもうちょっといい神聖なる見方に変えましょうと。それによって、われわれの意識にいい影響を与えていきましょうと。

 よって、この世界を――この世界の見方っていろいろあるでしょう。不満で一杯の人は、この世が暗いどよーんとしたイメージに見えるかもしれない。あるいは普通の人は、普通の人間的な世界に見えるかもしれない。そうじゃなくて、この世は神の浄土だと。あるいは仏陀の浄土だという見方をするんだね。あるいは、道を歩いている人はみんな仏陀だと。わたし自身も仏陀の化身であると。あるいは、心に浮かんでくる思いというのはすべて悟りの現われである、というようなイメージを常に持つと。あるいは、聞こえてくる音はすべてマントラであると。

 これは前にも何かに書いたか勉強会で言ったかしたけど、特に音なんかすごく分かりやすい。これは前にも言ったけど、わたしが前、一番最初にこのヨーガ教室始めた時の場所って、生麦っていう場所にあって、そこは国道の目の前で、すごく車がうるさいんですね。瞑想とかしてても――まあよく、「いまどき?」って感じもするけど、パラパラパラパラパラって(笑)、暴走族とかがよく走って行ったりするんだね。

 「はい、じゃあ心を静めて」とか言ってるときに、パラパラパラパラとかいうのが――で、そういうときって普通はね、イラっとするかもしれない。でもその「何でイラっとするんだろう?」っていうと、われわれの中に固定的にイメージがあるからなんです。つまり、暴走族に対する悪いイメージ。あるいは工事をしていたとしたら、「工事の音っていうのは、不快であって悪いもんだ」っていうイメージがあるからなんだね。

 でもそれをすべてマントラだと考えたらどうだろうか。あるいは前にも言ったけどさ、暴走族のリーダーがお釈迦様だったらどうする(笑)? 仮にだよ、「釈迦牟尼連合」とかいうのがあって(笑)、毎晩走ってると。そうすると、そこでパラパラパラって聞こえた瞬間に、「あっ!お釈迦様だ!」って思うわけです(笑)。そうするとそのパラパラパラっていうのがすごい神聖なイメージとして聞こえてくるんだね。心は何かちょっと晴れやかになる。「ああ、お釈迦様いらっしゃった」と。パラパラパラって来てると。「何て神聖な素晴らしい音なんだ!」と(笑)。

 だってさ、よくわれわれがイメージするね――みんなどういうイメージしてるか分かんないけど、例えばお釈迦様が現われましたと。何か体に着けてる装飾品の鈴の音が鳴ってますと。シャリン、シャリン、シャリン……っていうのがあったとするよ。そうするとそれを、「ああ、本当に何か軽やかないい音だな」。シャリン、シャリン、シャリン……。でもよく考えてみて下さい。本当にこのシャリン、シャリン、シャリンっていい音なんですか? お釈迦様がたてた音だからいいって思ってるだけなんだね。暴走族が走る時にシャリン、シャリン、シャリンって音してたら、やっぱりわれわれはうるさいなって思うかもしれない(笑)。ね。でも、われわれが例えばそれをお釈迦様の音だって思うことによって、わたし達の中に眠っている神聖さみたいなものが呼び起こされるんだね。

 ――っていうことは分かりますね。結局は、ものの見方一つなんです。われわれが嫌な上司と会うときに、「うわっ、嫌な、昨日もあんなことあった!」とか思うと、自分の中の悪しき思いがぐーっと湧き起こってきて、心は嫌な気持ちになります。じゃなくて、その上司を仏陀の化身だって見たら、今言ったように、心の中の晴れやかな素晴らしい思いがぱーっと湧き起こってきて、とてもいい感じになります。

 だからこの見方っていろいろあるわけだけど、みんなを仏陀とみるのか、あるいはみんなを――例えばいつも言うように、バクティ・ヨーガとかではクリシュナ様という存在がいらっしゃって、クリシュナっていうのは全世界に偏在してると。よって、すべての中にクリシュナがいるっていうような見方をする。これも今と同じだね。そういう見方で見ると、何を見ても、もう心はクリシュナで一杯になる。

 これに関する話でこういう話がある。あるクリシュナのバクティ・ヨーガの信者が、ある木を見て歓喜になった。それはなぜかというと、その木でクリシュナの笛か何かが作られているんだね。それはただそういう関係があるだけであって、その木自体はクリシュナでも何でもないんだけど、その木を見ただけで連想によってクリシュナを思い起こして、体中が歓喜になると。例えばね。

 あるいは、クリシュナが小さい頃過ごしたヴリンダーヴァンっていう場所がある。で、ある男がね、歩いてて一人の人と出会ったと。で、話してたらその人がヴリンダーヴァン出身だって分かったと。その瞬間歓喜になる。その人はただのおっさんなんだけど(笑)、その人がヴリンダーヴァン出身だっていうことだけで、クリシュナへの思いが甦ってきて歓喜になると。

 これは分かるよね。つまり、このおっさんにスーパーパワーがあったわけじゃない(笑)。このおっさんが何かわーって光を発して歓喜になったわけじゃない。こっち側の問題なんです。こっち側が世界をどう見るかだけなんです。こっち側はこのおっさんをさっきまでは、「なんか変な、ちょっとあんまりぱりっとしない変なおじさんだなあ」って思ってただけだったんだけど、ヴリンダーヴァン出身って聞いた瞬間に、「わー!」って歓喜が拡がる。つまり、こっち側の問題なんです。ね。何度も言ってるけど。

 よって、こっち側のものの見方を神聖なもの神聖なものに変えていかなきゃいけない。

 だからそういう意味では、この生起次第の、世界を仏陀の浄土って見るやり方も、そのうちの一つに過ぎない。だからそれだけではなくて、われわれはいろんな教えを学んで、「この世界をどう見るのか」っていうことを日々学んで、それをリアルに当てはめていかなきゃいけないんですね。

 で、それを日々まず瞑想においてそれをやって、それが確固としたものになってくると、常にわたしは仏陀であり世界は浄土であるというのが確立されると、もう普通に見るものすべてが、さっき言ったように、自分を浄化する手段になってしまうんだね。 

 それは分かるよね。例えば想像してみて下さい。みんなの前にお釈迦様が現われたら、やっぱり心は浄化されるじゃないですか。「ああ、お釈迦様!」っていう感じで神聖な気持ちになる。で、それを意識的にみんなを仏陀だと思ってたら、何を見ても「ああ!」っと祝福される。みんなは仏陀だし世界は仏陀の浄土だと。もうどんなものも、ネガティブなものは一切なくなるわけだね。そのようなことを繰り返し繰り返し行ないなさいということですね。

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