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「解説・ミラレーパの生涯」第一回(2)

【本文】

 しかしこの復讐成功の後、ミラレーパの中に、悪業を犯してしまった後悔の念と、真理を求める強い思いがわきあがってきました。そして魔術の師匠の紹介で、ミラレーパはまず、ゾクチェンの師匠であるロントン・ラガのもとに弟子入りしました。
 ロントン・ラガは、ゾクチェンの教えを説明する際、「恵まれたカルマを持つ者は、この教えを聞くだけで成就を得る。瞑想の必要さえない」という表現を使いました。これには深い意味があったのですが、まだ教えを理解していなかったミラレーパはこの言葉を文字通り受け取ってしまい、
「恵まれたカルマの私は、瞑想しなくても成就できるのだ!」
とうぬぼれてしまい、瞑想もせずにただ寝て時を過ごしました。
 見かねたロントン・ラガは、ついにミラレーパにこう言いました。
「お前はここに来たとき、自分を大罪人だと言ったが、それは正しかったようだな。私にはお前を成就させることはできない。
 さて、ロタクという地にマルパという偉大な師が住んでいる。その方の下へ行け。お前は彼とカルマ的な縁があるのだ。」
 マルパという名前を聞いた瞬間、ミラレーパの髪の毛は逆立ち、戦慄が走り、目から自然に涙が溢れ出しました。前世からの縁がよみがえったのです。

 はい。復讐成功の後、ミラレーパの中に、悪業を犯してしまった後悔の念と、真理を求める強い思いがわきあがってきたと。まあつまり、ね、さっきも言ったように、もともとミラレーパは前生からね、修行をしてきたろうから、当然、内在していて隠れていたわけだけど、真理というものに対する強い熱意、強いあこがれがあったわけですね。で、悪業を犯してしまったという――まあつまり最初はね、お母さんの願いを叶えるっていうのに一心で、おそらくね、あまり考える暇もなく頑張って修行して、魔術を身につけ、で、復讐を果たしたと思うんだけど、いざ終わってみると、ね、残ったのは当然悪業しかないと。しかもその三十数人を殺すという、大悪業を犯してしまったと。これに対する大いなる後悔の念と、それをきっかけとして、自分の中に眠っていた真理への思いみたいなものがメラメラとわき起こるんだね。
 これはさ、なんていうかな、皆さんも自分にね、当てはめて考えてみたらいいと思うけども、この物語っていうのはね、まあこのミラレーパだけじゃないけども――例えばあの『八十四人の成就者』の話とかでもそうだけどね、例えばこの場面でいうと、このものすごい悪業を犯したという大変な後悔、それから危機感、これによってミラレーパの心は揺さぶられたわけだね。
 もちろんね、ここで何も考えない人もいると思います。何も考えないっていうのは、まあお母さんに言われたからしょうがないっていう人もいるだろうし(笑)、あるいは全く罪悪感もわかない人もいるかもしれない。で、もともとミラレーパは何度も言うように、前生からの修行者としてのカルマがある。しかしおそらくここまでは、まあちょっと逆の言い方をすると――お釈迦様とかはね、もともと王様の息子、王子様として生まれ、しかしそこに喜びを見出さず、修行の道に入るわけだけど、実際、ミラレーパが例えばここでお坊ちゃんとして生まれ、そのまま楽しい裕福な人生を送っていたら、修行に目覚めていたかどうか分からないね。あるいは目覚めるとしてももっと後だったかもしれない。――っていうのは、まあさっきも言ったように、ミラレーパってなんかね、ちょっと楽天的な性格だったらしいんだね。叔父叔母にいじめられてもう悲惨なときにも、ミラレーパはなんか陽気に歌を歌ってて、お母さんに怒られたとかいう(笑)、一説もあったりするから、楽天的だったみたいだから、もしそのお金持ちのお坊ちゃんのままだったら、普通に楽しく、しばらくね、長い間ただ楽しい人生を過ごしていただけだったかもしれない。しかし、そのね、お金や財産をすべて奪われるっていう状況が生じ、それだけではなくて悪業を犯してしまったと。しかもそれはものすごい膨大な悪業を犯してしまったと。これによってやっとミラレーパの心が揺さぶられ、真理っていうものに対してこう目が開きだしたわけですね。
 ということは、ちょっと変な話だけど、ね、この悪業を犯してなかったら――まあ、というよりも、この悪業とそれからさまざまな苦しみは、ミラレーパを目覚めさせる十分な要素となったっていえるわけですね。
 もちろんこれは結果論です。結果論っていうのは、結果的にミラレーパは大聖者になってるからね。大聖者になったその時点から振り返ると、ああ、あの悪業があったから、逆にね、これが覚醒につながったといえるわけですね。
 だから皆さんも自分をまず振り返ってみてください。まず皆さんは当然、まあ今、ね、曲がりなりにも修行の道に入り、あるいは正しく生きるとは何かっていうことを学び、その道を歩み始めてるわけだけども、当然過去には多くの悪業を犯していると思うんだね。まあそれは人それぞれだろうけどね。そんなに犯してない人もいるかもしれないけど、人によってはもう誰にも言えないようなね(笑)、あるいは思い出したくもないような過ちや悪業を犯してきた人もおそらくいるでしょう。しかしそれは、ね、もし皆さんが一生懸命頑張ってね、修行して、成就を得た暁にはね、その全体から見たならば必要だったといえるときが来るかもしれない。それは、それがなかったら皆さん目覚めてなかったかもしれない。あるいはそれがなかったら皆さんの中に、なんていうかな、危機感とか切迫感みたいなのはなかったかもしれないって考えたらいいね、一つはね。
 で、もう一つは、これも結果論になるけども、ミラレーパは――いいですか?――三十数名の、しかも親族っていうね、近い人たちを殺すという、まあかなりの大悪業を犯したわけだけど、しかしもちろんそのカルマの浄化は大変だったわけだけど、しかし偉大なる成就を果たしてるんだね。
 おそらくこの中にこのミラレーパよりすごい悪業を犯した人は多分いないでしょう。いたら問題だけどね(笑)。

(一同笑)

 ちょっとね。「先生、僕もっとすごいです」っていう人がいたら、ちょっと警察を呼ばなきゃいけない感じになるけども(笑)。

(一同笑)

 多分いないでしょう。ということは、これは大いなる励みになるね。
 わたしはよくね、そういう、なんていうかな、愚痴を聞くことがあるんだね。例えば、「いや先生、ほんとわたしはカルマが悪くて、だから修行なんか難しい」っていう人がいると。で、それを聞くとね、まあもちろん言わないけども、こうでこうでこうでと。「え? それだけ? Tさんの半分ですよ」とかね。まあこれは仮の話だけどね(笑)。

(一同笑)

 「Tさんの半分もないよ」とか。例えばね(笑)。もちろんTさんだってミラレーパと比べたらね、ほんとにもう十分の一もないくらいですよね。
 だから、ちょっと話がずれるけども、われわれは小さいころから、言い訳ね、あるいは逃げの習性を植え付けられているんだね。だからすぐ何かを言い訳にし、あるいは逃げの理由にして努力をしないっていう、なんていうかな、習性がある。だからそれは一つの大いなる例としてね、大いなる教師として、先人の教師として、このミラレーパを考えたらいいね。ミラレーパは三十数人殺していると。――まあもちろん殺したことは悪いことだけども、そこまでの悪業を犯しながら、それを頑張って乗り越え、浄化して成就したんだと。ということは、わたしがいかに悪業を犯していようが、そんなものは言い訳にならないと。ね。ミラレーパの半分でもいいから努力できたならば、当然、偉大なる成就が果たせるはずであると。そういうふうにしっかり考えたらいいですね。
 はい。じゃあちょっと話を戻しますが、それでそのミラレーパの、ね、真理への思いがわき上がってきて、この魔術の師匠の紹介により、まずそのニンマ派のね、ゾクチェンね。これもよく出てきますが、例えばここでいうとロンチェンパの『安らぎを見つけるための三部作』とか、あるいは『パドマサンバヴァの秘密の教え』に書いてあるような教えね。あれがゾクチェンだね。で、このゾクチェンの教えっていうのは、まあかなり、なんていうかな、究極の真理をズバッとこう切り込んでいる教えなので、それを表面的に受け取ると、ちょっと勘違いしやすいんですね。だからこれも、皆さんは大丈夫だろうけども、これはね、逆に反面教師として受け取ったらいいですね。つまりここでちょっとミラレーパは失敗をしてしまったんだね。
 あのパドマサンバヴァの教えとかを見てると分かると思うけど、ここに書いてあるようなね、「恵まれたカルマを持つ者は、この教えを聞くだけで成就を得る」とか、「瞑想なんか必要ない」とかね。あとよくゾクチェンでいわれるのは、無努力の教えってあるよね。無努力と。ね、努力などいらないと。努力という病を捨て去りなさいとかね。それはちょっと無智な人が見ると、「あっ、努力いらないのか」と、ね、こうただボーッとして(笑)。

(一同笑)

 「あれ? 修行しないんですか?」「努力はいらないのである」とか言って(笑)。

(一同笑)

 それはただボーッとしているだけ(笑)。うん。無努力の境地っていうのは、まあ非常に高い境地でね、これは深遠な意味がある。だからそのまま受け取っちゃいけないんだね。
 で、ゾクチェンにはそういうような、まあ密教全体がそうなんだけど、そのまま受け取ってはいけない秘密の言葉もたくさんある。で、ここでミラレーパはまさに間違ってしまったわけだね。それをそのまま受け取っちゃって、修行もしないで寝て暮らしたと。そしたらとうとう見かねた、そのゾクチェンの師匠はね、「わたしにはおまえを成就させることはできない」と。しかしこれは別にこの師匠がミラレーパを見限ったわけではなくて、このロントン・ラガも偉大な成就者の一人だったから、ピピピッとね、ミラレーパのカルマを見抜いたわけだね。「おまえは、わたしではなくてマルパ」――まあマルパ・ロツァーワというんですが、マルパ・ロツァーワといわれる偉大なね、グルがいるわけだけど、彼と縁があるって告げるわけだね。彼のもとへ行けと。で、そのマルパという名前を聞いた瞬間、ミラレーパの髪の毛は逆立ち、戦慄が走り、目から自然に涙が溢れ出したと。ね、つまり前世からの縁がよみがえったと。まあつまり前世から、まああるいはもちろん、もしかすると何生も何生も師弟関係だったんでしょうね、ミラレーパとマルパっていうのはね。
 修行においてはもちろんそういう師と弟子の関係っていうのはあるわけだけども、前にも何回か言ったけどね、例えばインドの伝統ではだいたい師と弟子っていうのは一対一のことが多いんだね。一対一っていうか、一人の師に一生ついていくことが多いんですね。で、チベットの場合は二つパターンがある。二つっていうのは、このミラレーパとかもそうなんだけど、ミラレーパみたいに、生涯――まあこのロントン・ラガは別にしてね、マルパに弟子入りしたら、もう一生そのマルパ以外の聖者とかには全く興味がないと、そういうタイプね。で、そうじゃなくて、いろんな師匠についていろんな教えを学ぶタイプもいる。ただまあこの後者の場合も、根本グルっていうかな、根本ラマというか、根本的な師は一人なんだけどね。でもまあそれ以外にもまあちょっとサブ的な師をいっぱい持つっていうパターンもあるんだけど。究極的にはっていうかな、これはナーローパとかもそうだけども、究極的にはやっぱり師と弟子っていうのは一対一の関係になるんだね。あるいは、なんていうかな、一つの系統っていうかな。一つの系統、例えばラーマクリシュナとその弟子みたいな感じで――例えばさ、一人のその師が――まあもちろん変化身とかでいろんなところに行くかもしれないけども、例えば同じね、救済のファミリーの中にいる者たちが、いろんなところに行くわけだから。で、いつも師と同じところに行くわけでもないので、それはまあ師の変化身がやってくるのか、あるいはまあその師の系統の別の人物が今度は師になるか分かんないけども、まあとにかく同じ系統でまあ転生したりするんですね。
 もちろん、そうじゃない場合もある。そうじゃない場合っていうのは、これはまあはっきり言うと、まだ未熟な場合ですね。未熟な場合っていうのは、修行者として生まれ変わってはいるんだけど、なんていうかな、まだ帰依の心が育ってないっていうかな。帰依の心が育ってない場合、つまり自分の頭で修行っていうものをとらえ、そして教えを成就しようと考えてると、当然、師との縁っていうのは弱まるよね。つまり師っていうのはそこにおいては、ただのアドバイザーの一人に過ぎなくなる。自分で修行するんだと。で、師はアドバイスしてくれるけども、まあ別に師にすべてを委ねてるわけではないと。こういう状態の場合は、当然、毎生毎生、まあ真理とは巡り合うけども、師は毎回変わるという場合があるね。
 でもそうじゃなくて修行者が高度な状態になってくると、結局ね――ちょっと話が広がるけども、クリシュナの話とかでもいつも言ってるように、これはね、違う考え方の人もいるかもしれませんが、あくまでもわたしの見解を言うけども――結局、今日のね、歌でもあったように、今日の歌、なんだっけ?――「今まで多くのヨーギーが、多くの修行のその果てに、すべてをあなたに委ねて悟りを得た」と。つまり最初は「おれがおれが」っていう感じで修行をしてるんだけど、修行の果てに、結局、まあクリシュナといってもいいし、あるいはシヴァといってもいいわけだけど、その完全なる存在に身を委ねるバクティ的な世界に最後は入っていくんだね。まあこれがだからバクティヨーガが最後に来るっていう教えなんだけど。
 で、密教やあるいはインドヨーガにおいて、師匠っていうものをとても重要視する教えがあるわけだけど。これもね、ある意味バクティヨーガなんです。つまりそこにおいて、もちろんね、師についていくといって、でもうちの師はあんまり高い状態じゃないけど、でもついてくって、そういうんじゃないよね(笑)。必ずその師を例えば仏陀そのものと見なさいとか、あるいは師を偉大なるシヴァやクリシュナと同じであると見なさいという教えがまず前提として説かれるんだね。で、その上で師にすべてを委ねなさいと。
 つまりこれは完全に、なんていうかな、現実的バクティヨーガなんです。現実的バクティヨーガっていうのは、ヴィヴェーカーナンダも言っているように、バクティヨーガっていうのは素晴らしい教えではあるが、ややもすると似非バクティに陥りやすいんだね。つまり「神よ、神よ」と言いながら、エゴが増大してると。これじゃあしょうがない。よって、自分のエゴを直接的に見逃さず壊してくれる、まあ生身のというか、現実的な存在が必要なんだね。で、それを完全なる存在、クリシュナやあるいは仏陀そのものと見て完全に身を委ねると。これがバクティの究極のあり方ですね。だから必ず最終的には、人はその道に入ると。
 ちょっとこういうことはね、まあなかなかその真意を伝えるのは難しいんだけど、言い方を変えると、結局、人間は最後は信仰に入るということです。信仰ね。信仰っていう言葉は、まあバクティっていう言葉が信仰っていう言葉で訳されることもあるけども、普通は、なんていうかな、あまり高度な意味では用いられない場合が多いんですね。これは仏教においてもそうなんだけど、信仰っていうのはまだ低い段階であって、で、そうじゃなくて、自分の頭でしっかり考えて智慧を高めてっていうのが高い段階なんだっていう、よく言われ方をするわけだけど、それはそこでいう信仰っていうのはほんとに浅い信仰であって、いつも言うようにわれわれの心が目覚め始めたとき、そして純粋化され始めたときに、そんなね、誰かを信じる・信じないっていう、あるいは、なんていうかな、期待をしたりとか、あるいは失望したりとか、そんなレベルを遥かに超えた純粋なる信仰の世界があるんだね。で、最後はわれわれがそこに入っていく。
 で、それはね、難しいことを言ってるんじゃないです、ここで言ってるのは。ここで言ってる信仰というのは、普通にいう信仰と違うけども、近いとも言えるんです。違うけども近いとも言えるっていうのは――そうですね、例えばね、普通のおじさん、おばさんとかがね、あるいはその辺にいるおばあちゃんとかが、例えばですよ、例えばなんか、そうだな、いいことあったとする。いいことっていうか例えば、その息子が、まああるいは孫が事故に遭ったと聞いて、「ああ! 孫が事故に遭ってしまった」と。「ああ! 神様お助けください」とかやってたら、無傷で大丈夫だったって聞いたときに、涙を流しながら、「ああ! 本当に神様のおかげです」と、ね。ねえ、あるいは「阿弥陀様のおかげです」っていうのはあるよね。これはまだもちろん、ここでのおばあちゃんっていうのは、まだもちろんいろんなね、エゴがあったり観念があったりするだろうけども、でもちょっとつかんでいる、こういう人っていうのは。つまりその純粋な信仰の世界っていうのをちょっとつかんでいる。つまりここでいう信仰っていうのは、いろんなものを高めて高めて積み重ねて、例えば空の教えだとか、慈悲とはこうであるとかを積み重ねて、「ああ! これが信仰か」っていうんじゃないんです、実は。逆なんです。つまり、おれはこんなこと知ってるぜ、世界はこうなっているよ、なんていうような偉そうな間違った観念を落として、落として、落としたときに現われる、「あ、そうだった」とね(笑)。「そうだ、わたしはもともと神を感じていた」と。ね。
 まあこの中にも、皆さん忘れているだろうけど、おそらく修行者のカルマのある人は、だいたい小さいころは神を感じています。「あ、そうだった」と。ね。わたしは誰からも教えられることなく、ね、小さいころ神にすべてを委ねていたはずじゃないかと。これをしっかりとよみがえらせるっていうかな、思い出させなきゃいけないんだね。
 で、これが一生のうちで、もちろんそういう修行をしなきゃいけないんだけど、そうじゃなくて大きなタイムスパンで考えた場合は、まあいつも言うようにね、われわれはこの輪廻にどんどん巻き込まれて、どんどんエゴが増大してもう悲惨な状態になって、そこから今度は逆転現象が起きるわけだね。つまり仏陀の力によって真理と巡り合い、どんどん心を浄化するプロセスに入る。その途中段階ではまだエゴは非常に強いから、知識やあるいは論理がその修行の糧になるんだね。だからちょっとこんなこと言うと、おそらく一般の仏教徒とか大いに反論する人が多いと思うけども、われわれは心が不純だから論理が必要なんです。心が純粋だったら論理なんていらないんです。もう分かるんです。「あ、クリシュナですよね」とね(笑)。「あ、はい。仏陀への帰依ね。それしかありませんよね」と。ね。しかし不純なるがゆえに、なぜならばこうでこうでって(笑)、それが必要なんだね。空とはとか(笑)、そういう教えがいっぱい必要になってくる。
 で、まあわれわれは、ね、あるいは皆さんは、その中途段階だと思うんだね。つまりここにいる皆さんっていうのは、おそらくそういったバクティ的なカルマが目覚め始めている。しかしまだ心の中に観念や疑念の種みたいなものもあると。だからその両方、両面から、つまり教えによる論理的な理解と、それから心を純粋化することによる、まあ目覚めっていうかな、両方からしなきゃいけないんだけどね。

 はい。で、ちょっと話を戻すけども、だからその高度な修行者は必ずそのバクティ的な世界に入ります。まああるいは、さっきも言ったようにね、それがそのグル、師匠というものに向けられて、グルヨーガ的な世界に入ったりとかね、するんだね。で、その関係にあるものっていうのは、まさにこのマルパとミラレーパのように、もう言葉を超えた絆で完全に結びつくんだね。まああるいはもちろんラーマクリシュナとその弟子たちもそうだけどね。
 サーラダーっていうね、ラーマクリシュナの奥さんが言ってるけども、ラーマクリシュナの弟子たちっていうのは、ラーマクリシュナの一部であると。皆、ラーマクリシュナからやってきて、ラーマクリシュナに帰っていくんだっていう言い方をしてるんだね。もうつまり、なんていうかな、おまえとおれは固い絆の師弟だとか、そういうのでもないんです。ラーマクリシュナから来て、ラーマクリシュナに帰っていくっていうね。もう一部っていうかな、一体になってるっていうかな。で、ラーマクリシュナの弟子たちも、死ぬときはね、まあだいたいみんなラーマクリシュナの名を呼びながらね、「ああ! もうそろそろあなたのもとへ参ります!」って感じでこういくんだね。だから完全に、なんていうかな、純粋なる、まあ師弟関係っていうよりも、神と自分の完全なるつながりができているんだね、そういう高度な聖者っていうのはね。

 はい。じゃあちょっと話がずれましたが、まあ前世からの縁がよみがえりましたと。じゃあ次、行きましょうかね。はい。

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