「解説・マルパの生涯」(2)
【本文】
マルパは両親の財産の自分の取り分を強引に手に入れ、そのお金でインドへと旅立ちました。
このころは、インド仏教のチベットへの輸入が盛んに行なわれていた時期で、マルパ以外にも多くのチベット人が、教えを求めてインドに旅していました。
しかしマルパは、他の学者たちとは少し違った道をとりました。学僧ではなく、ナーローという密教行者の弟子になったのです。ナーローはもとはインド最大の僧院であるナーランダー僧院の僧院長として大変有名でしたが、その地位を捨て、僧院を去り、密教行者ティローの弟子になった、いわば異端者でした。
はい。まずそのインドに行く決意をしたマルパは、ただまあまだ、なんていうかな、若かったので、お金がないと。まあつまり旅費もないし、それからまあその当時は、師について教えを受けるときには、まあお金というよりも黄金だね。黄金を、まあ感謝の印としてお布施するという習慣があったので、まあ教えを受けにインドに行くには、旅費プラスその報酬としてね、膨大なお金がいったわけですね。で、マルパはまだお金がなかったんで、両親に言ってね、自分の財産の取り分を強引に手に入れたと。まあつまり、お母さんお父さんが死んだら遺産を分けてもらうわけだけど、今くれと。ね(笑)。今、自分が分けてもらうはずの遺産を、今くれと。親の財産を、「おれの分よこせ」って感じで奪っていったわけだけど。
マルパの人生を見てると――まあ例えばナーローパ、マルパ、ミラレーパ、ガンポパ――このカギュー派の祖師たちは、全員性格が違います。ね(笑)。で、あるいはまあもちろんほかのね、ロンチェンパとか、あるいはまあゲルク派のツォンカパね。あるいはまあパドマサンバヴァもそうだけど、みんな性格違うんだね(笑)。この辺が面白いところなんだね。
つまり、なんていうかな、仏教、あるいはヨーガというその修行、まあ言ってみれば宗教でもあるわけだけど、それをしっかり実践するとみんな同じようなものになっていくっていうよりは(笑)、特に密教はそうなんだけど、エネルギーが強くなるので、非常に特徴が出るっていうかな。
で、マルパっていうのは、これはマルパの全体のその生涯を見れば分かるけど、非常にね、現実的な人なんです。これがマルパのすごく特徴なんだね。現実的なんです。現実的――つまり夢を追いかけたり、ほんわかとこう――まああるいはその、神におまかせしてればなんとかなるというタイプではなくてね。もちろんそれはそれで素晴らしいんだけど、そうじゃなくてマルパの場合は、すべて現実的に力ずくで現象を動かすようなタイプなんだね。うん。だから、例えばドクミがなかなか教えてくれないっていう現実に直面したら、もうすぐさま心を切り替えてね、よし、わたしがインドに行こうと。でも金がない、ってなったら、じゃあ金を――ね、十年ぐらい、しっかり頑張って貯めようかって発想にならないんだね。親の遺産があると。ね(笑)。で、でも普通は、「でもそんななあ……死ぬ前に遺産くれなんて常識的じゃないよな。ちょっとそれはさすがに親戚にもちょっとあまりいい評判立たないだろうし……」って考えるんだろうけど、「いや、もらう」と。「おれの権利があるのだ」と言って、こう無理矢理もらうわけだね。すごく現実的で強引っていうか。それがまあいい悪いは別にしてね、マルパのスタイルというか性格だったんだね。
で、そのようにして金を手に入れて、まあインドに旅立ちましたと。で、ちょっとここではこう、大ざっぱにしか書いてないんだけど、もうちょっと詳しく言うと、最初ね、チベットからまあインドに渡るときに、いったんマルパはネパールに二、三年留まっているんです。それはなんでかっていうと、まあその当時の考えとして、チベットっていうのはすごい標高が高い寒い国なわけだけど、インドはまあご存じのとおりすごい暑い国なわけだけど。まあその当時のね、チベット人っていうのは、まあはっきり言うと田舎者です。田舎者であまり外の世界を知らないと。で、インドっていうのは、まあある意味文化的に――まあ、現在われわれがインドっていうとさ、すごくその、なんていうかな、ヒッピーとかがいっぱいいるような、ちょっと自由な雰囲気をイメージするかもしれないけど、当時のチベットから見たインドっていうのは大文明国なんだね。すごい文化が進んだ国っていうイメージがあった。で、田舎者のチベット人達は、まあちょっとインドに対するおそれがあって、で、しかもその非常に暑いと。で、われわれが、チベット人であるわれわれがいきなりインドに行くと、熱病にかかって死んでしまうようなそのおそれが、恐怖があったんだね。だから中間地点のネパールにいったん行って、そのネパールでちょっとこう体をね、慣らして、インドに行くっていう、まあ風習っていうかな、パターンがあったみたいなんだね。
で、マルパも同じようにそのネパールでちょっとこう体を休めるとき、途中でね、まあこれ、あとにも出てくるけど、ニュっていう名前の同行者がいたんですね。で、このニュもマルパと同じ目的で、つまりインドに行って仏教を学んで、それをね、持ち帰ろうという目的でインドに行こうとしていた。つまりここにも書いてあるように、その当時はそういうムーブメントっていうか、そういう流れがすごくあったんですね。つまり仏教を志す者たちが自らインドに行って、で、当時はナーランダーとかすごいその学問仏教が盛んだったんで、インドでね。そういうところに行って、正統的な仏教をしっかりと学んで、で、それをまあチベットに持ち帰って、研究してね、その正統的な仏教をしっかりとチベットに広めようと。まあもしくはもっと、ちょっと俗的な希望があった人は、その最先端なね、インド仏教を持って帰って、まあ偉くなろうって思ってた人もいるかもしれない。まあとにかくいろんな人達が、インドに仏教を求めに行ってた時代だったんだね。
で、そのニュって言われる同行者と一緒にネパールにしばらくいたんだけど。で、そこで――まあここに書いてない話をちょっと言うと、チテルパとパインダパっていう二人の修行者と、このマルパとニュが出会うんだね。チテルパとパインダパという二人と出会って、で、そのパインダパっていうまあ行者がね、ある教えを説いていたと。で、そこにマルパとニュがやってきたんですね。で、そのパインダパと、それからチテルパがそれを見て、チテルパがね、「おい、あの二人は誰だろう?」と。ね。マルパとニュがやってきたわけだけど、「あの二人は一体誰だろう?」と。ね。で、そこではちょっと高度な秘密の教えを説いてたんで、「チベット人らしいけども、彼らはまだその資格があるか分かんないから、彼らにこの話を聞かれてもいいだろうか?」ってチテルパが言ったら、パインダパが、「チベット人なんてものは牛みたいなもんで(笑)、おれたちのネパール語が分かるわけがない」と。「だから大丈夫だよ」って言ってたんだね(笑)。で、まあそれはちょっと冗談っぽく言っただけだったかもしれないけど、これを聞いて、プライドの高いニュは、すごい怒ってしまったんだね。つまり自分たちを軽蔑、馬鹿にされ――まあ、つまり二人はもうネパール語を分かってたから、意味が分かってね、馬鹿にされたっていう感じで怒ってしまったんだね。でもマルパはそこで怒らなかった。
まあこれも縁なんだけど、実はこのチテルパとパインダパっていう二人は、ナーローパの弟子だったんです。で、マルパがね、翌日またそのチテルパとパインダパのところに行こうとしたら、ニュは行かなかったんだね。うん。つまりその、「あんな人を馬鹿にするようなやつのところにはおれは行かん」って言って、ニュは行かなかった。で、マルパだけがチテルパとパインダパに会いに行った。
その二人がね、マルパに、ナーローパに会うことを勧めるんだね。「あなたはインドに教えを受けに行こうとしているらしいですが、本当にね、――ただ表面的な学問ではなくて、本当に究極の真理の真髄を得たかったら、ナーローを訪ねなさい」と。ね。「ナーローはわたしの師匠です」と言って、ナーローのことを勧めるんだね。で、そこでマルパはニュのところに帰って、ニュにもそれを勧めるんだね。「ナーローのところに行こう」と。まあつまりマルパはナーローと縁があったから、すごく惹かれたんでしょうね。でもニュは、それをもちろん断った。まあそれは、チテルパとパインダパが嫌いだったということもあるけども、ニュはやっぱり正統的に仏教を学びたかったから、ナーロー――まあナーローのことは有名だったわけだけど、ナーローは、この間ね、「ナーローの生涯」で学んだように、一時はインド一の大学者と呼ばれる程のすごい誉れを手にしたんだけど、それをすべて捨てて、まあ密教行者ティローの下に弟子入りしてね、放浪の密教行者になったわけですね。で、それをニュはすごく軽蔑していて、彼はね、正統的な仏教で本当に高い地位に行ったにも関わらず、それをすべて捨てて、なんか乞食行者の弟子になって、なんかわけの分かんない修行をしていると。ね(笑)。だからあんなやつの所におれは行きたくないと。行きたいなら勝手に行けって言って、で、まあここで二人はね、別れて、ニュはね、正統的なっていうかな、学問的なお寺の仏教を学びに行って、で、マルパはその密教行者であるナーローを探しに行ったんだね。
この辺の話っていうのはね、そうですね、昔、中沢新一さんの話でちょっと似たような話を読んだことがある。似たような話っていうのは、まあ中沢新一さんっていうのは皆さん知っていると思うけども、まあもともとね、宗教学者としてネパールに行ってね、で、まあ彼の師匠であるニンマ派のケツン・サンポ・リンポチェ――まあもう亡くなってしまいましたけども、このケツン・サンポと言われるニンマ派の師匠の下を訪ねて、弟子入りするんだね。まあそれももちろん、彼がそのすごくその、縁が、ケツン・サンポとあったからでしょうけども。
まあ中沢新一さんのいろんな書いたものを読むと、まあ最初はもちろんほとんどチベット仏教ってよく分かってなくて、で、まあ、まさに縁みたいな感じでそのケツン・サンポの下に行くわけだけど。で、このケツン・サンポっていうのが、さっきも出ましたニンマ派のね、つまり密教の師匠だったんだね。で、そのニンマ派の下で、ゾクチェンって言われる、まあ秘儀的な密教の教えを学んでたわけだけども。
で、そのころの中沢さんの回顧としてね、そのころまあネパールとかインドとかでニンマ派の修行をしていると、まあ日本人の研究者とたまに出会うらしいんだね。つまり日本人も、そのころだから、日本から中沢さん以外にも学者の人たちがネパールとかインドとかにやってきて、チベット仏教っていうのを研究してた時期だったんだね。で、そのころ同じその日本人の研究者と出会って、まあよく会話になると。そうすると、「君は何を学んでいるんだね?」ってこう言われると。そうすると中沢さんが、「はい。ニンマ派のグルの下で、ゾクチェンを学んでいます」って答えると、たいていが鼻で笑われるらしいんだね(笑)。「ああ、ヨーギーか」と。ね(笑)。なんか今のわれわれからすると、「ヨーギーか」って言われたら「いいじゃん」っていう感じがするんだけど(笑)、ヨーギーっていうのはちょっとこう馬鹿にするような言葉として使われたらしんだね。
つまりその当時の――その当時のですよ――その当時のチベット学っていうかな、チベット仏教学の研究では、まあさっき言ったゲルク派とかね、そういったその、まあなんていうかな、学問仏教的なものがすごく重要視されていて、まあつまりニンマ派とかカギュー派っていうのはなんか、山を裸で放浪したりね、なんか何やっているかよく分からないと(笑)。ね(笑)。ちょっとこう、あまりその学問を重視しないところがあるから、ちょっとこう、野蛮なね、感じに見られたらしいんだね。
ちょっと話を戻すけど、このマルパとニュの、この話もね、すごくそれにちょっと似た感じがありますね。つまりナーローって今でこそすごく評価されているけど、当時の、正統的にインド仏教を学ぶんだって意気込んで、インドに行こうとしていたチベットのエリートから見たら、ちょっと異端だったんだね。うん。「え、あんなのについて学んでもしょうがないじゃない?」と(笑)。ね。いや、そうじゃなくてナーランダーの偉大なね、お坊さん方、ナーランダーですごくその地位を与えられている、ね、大阿闍梨的なね、人達に学ばないでどうするんだって、多分、気持ちがあったんでしょうね。
でも、何度も言うけども、マルパはおそらくナーローとすごい縁があったので、その正統的なエリートコースを辿らず、まっすぐにナーローの下に向かったわけですね。
はい。じゃ、次行きましょう。
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