「解説・ナーローの生涯」③(5)
◎グルとの真の出会い
はい。で、この大慈悲の教えにおいて、自己中心癖の頭蓋骨を無我と空性の小槌で砕かないのであれば、どうしてグルを見出せようか、と。
はい、いろんな出来事があって、こう教えがあって、で、その教えの最後に大体この「どうしてグルを見出せようか」っていうような決まったフレーズがあるわけですね。で、この「どうしてグルを見出せようか」っていうのの一つの意味なんですけども、もちろんこれは表面的には、実際にナーローがね、ティローに会えるかどうかっていうことを意味しているといってもいいんだけども、もうちょっと深い意味でいうと――いいですか、ちょっと考えてみましょう。じゃあですよ、じゃあみなさんはグルに出会ったのか――という問題がある。これは何を言っているのかというと、例えばですよ、この中でわたしのことを「師だ」と、「修行の師である」と、「グルである」と考えている人がいるかもしれない。それは「ええ、わたしはグルに出会いました」と言うかもしれない。あるいはそうじゃなくて、例えばチベット仏教とかのどこかに入ってね、で、チベット仏教とかはいろんな儀式とかやるから、そういう儀式を受けて、あるチベットのラマの弟子になったと。ね。よって、わたしはこのグルに出会いました、と言うかもしれない。あるいはヨーガ系のマスターについて弟子入りを受け入れられて、「いや、わたしはあるグルにもう弟子入りしたから、わたしはグルを見つけたんです。本当にわたしは、今生こんなに素晴らしいグルに出会えてよかった」って言う人もいるかもしれない。グルっていう存在が誰であれ、自分でね、「ああ、わたしは本当にグルに出会った」と言える人っていうのは、まあいるかもしれない。でも、本当なのかっていう問題なんだね。グルに出会うっていうのは、そういうことなんだろうかと。ね。
もちろん現実的に自分の縁とある、グルといわれる存在と出会ってね、この肉体上出会って、弟子入りを認められたと。それは表面的にはグルに出会ったといえるんだけど、本当にあなたはグルというものは何なのかを知っているのかっていう問題があるんだね。この辺もちょっと微妙な問題になってくるんだけど、つまりそういう意味でいうと、結論から言うと、みんな――みんなっていうかほとんどの修行者は、まだグルに出会っていないんです。
これはだから二重の意味があるわけだね。表面的には出会ってるんだけど、本当の意味では出会っていない。なぜ出会っていないといえるかっていうと――これがここで、今のエピソードでナーローが引っかかった部分でもあるんだけどね。
ひっかかった部分っていうのは、そうですね、これはいろんなパターンがあると思うけども、例えばですよ、ある人はチベットのラマに弟子入りしましたと。一体それは何に対して弟子入りしたんだろうか。あるいは何に対して帰依をしているだろうか。ね。それはチベット仏教っていうひとつのブランド、あるいはそのブランドの中でのラマというひとつの証明書のようなもの――に対して帰依しているのかもしれない。もし、変な言い方すればですよ、そのラマが証明書を失ったら、じゃあ帰依しないのかと。ちょっと極端に言えばですよ、チベットからあるラマが来日して、「わたしはどこどこの生まれ変わりと認定された、なんとかリンポチェである」とか言って、バーッて教えを説いて、で、その教えを聞いて「ああ、素晴らしい!」って感動して、「わたしはこの人の弟子に違いない!」って弟子入りしたと。そうしたらなんかインチキだったと(笑)。これは仮の話だけどね。実はその人は別に誰からもリンポチェと認められていなくて、勝手にやってきたチベット人だったとするよ。でもまあ一応仏教はかじってて、勝手にやってきたと。でもその段階でその弟子がもし――これは仮の話だからね、仮の話として――「あ、なんだ騙されていた」と、ね。「わたしはこんな人にもうついていけない」となったとするよ。はい、ちょっと待ってくださいねと。じゃあここで問題です。あなたはじゃあ何に帰依したいたんですかと。ね。あなたはだって、教えを聞いたときに感動して、私は彼の弟子だって思ったんじゃないんですかと。それともあなたはリンポチェというそのレッテルに帰依していたんですかと。
あるいはこういう人もいるかもしれない――いや、わたしはそうではないけども、教えには感動したけども、でもそんな自分を騙すような人には帰依しないぞと。じゃああなたは、自分を騙さない人っていうひとつの条件に対して帰依してたんですか、という、普通われわれが日常において曖昧にしていることが、だんだん曖昧にできないような世界に入っていくんです。修行してるとね。
特にグルと弟子の関係っていうのは、だんだんそういう曖昧にできない世界に入ってくる。あなた何に帰依したんですか。例えばグルが優しいときは「グルよ! あなたの御足を!」とか言ってたのに、きびしくされると「もう、いいです」となるとしたら、じゃあ何に帰依しているんですかと。ね。自分の愛情欲求を認めてくれるっていうことに帰依しているんですかと。ね。
そうじゃないんだと。で、さっきから言ってるように、われわれを導く目に見えないなんともいえない大いなる導きがある。その大いなる導きを、実際にわれわれにアプローチしてくれる存在として、偉大なグルがいるんだね。で、それは、その偉大なグルっていうのは、その偉大なグルが本物であればね――偽者だったら駄目だけども――本物であれば、それはさっきも言ったように、宇宙の法というかな、われわれを導いてくれる至高なる存在の現われであるというかな――っていうよりもそれそのものなんだと。
あの、ラーマクリシュナの福音を書いたMね、マヘーンドラナート・グプタという人が、一体グルとは何ですかと聞かれて、こういうこと言っているわけですね。「それは、壁にひとつの丸い穴が開いております」と。「われわれはその壁を通してのみ、あっち側の景色を見ることができる」と。「それがグルだ」って言い方をしているんだね。
これはとても智慧のある言葉だと思うんだね。つまりさっきから言っているように、この世界は、マーヤー、幻であると。で、さっきの言い方をすると、まあちょうど鏡張りの部屋のようなもので、全部幻なんだけど、一個だけ穴が開いています。で、その穴もね――だからちょっとこういうことです――あの、壁があって、壁にいろんな模様があるわけですね。で、それはもちろん丸い黒い模様もあるし、あるいはなんかきれいな絵が描かれてたりもすると。で、模様じゃなくて穴が一個開いてると。ね。でも穴の向こうに景色が見えるから、それも模様に見える。でも、実はそれは模様じゃないんだね。穴なんです。で、その穴を通してのみ、われわれはあっち側の真実を見れる。で、その偽物はいっぱいあるんです。偽物はいっぱいあるっていうのは、つまり例えばこれがニルヴァーナですって絵が描いてあったりね、あるいはこれがハイヤーセルフですとかなんか変な絵が描いてあって(笑)、「ああハイヤーセルフか」と(笑)。これがアセンションですとか、こういろいろ描いてあるわけだね(笑)。で、われわれはそういうのにいっぱい騙されるわけだけども、われわれが真のグルっていうものに焦点を合わせたときに、その丸い穴からあっち側が見える。そのあっち側っていうのは実は――そのあっち側こそが真実の世界なんだけど、われわれはその真実の世界っていうものを知らないから、あるときはグロテスクに見える。で、あるときは平凡に見える。あるいはあるときは、ちょっとこう自分の観念を超えたものに見える。でもそういうなんか変な模様に見えるんだね。しかし実はそれは模様じゃなくて、穴なんです。それがグルなんだね。
だからすごくこの辺は本当に知性が必要っていうか、微妙な話なんだね。だからもしみなさんにとって本当にグルというものがいて、そのグルというものが、みなさんと約束された、みなさんを導く師だとしたら、それはそういうものなんです。
これはね、みなさんにそういう考え方を強制しているわけじゃないけど、一応考え方としていいますよ。考え方としては、この密教とかの世界においては、グルというのは、弟子にとってはですよ、完璧なんです。完璧っていうのは、グルを人間として見てはいけない。つまり人間であって、つまり自分たちよりもちょっと修行が進んだ、まあいろんなことを達成しているけどもまだいろんな悪い面もある、そういう存在なんだなっていう見方をすると、失敗するんです。じゃなくて、現象として見るんだね。っていうよりも、グル以外も現象なんだけどね。グル以外も、われわれにとっては心の現われであると。で、唯一――ちょっとこれは誤解を恐れずに言いますよ――誤解を恐れずに言うと、すべてはわたしの心の現われのマーヤーに過ぎないんだが、唯一そうじゃない穴があると。ね。真理の世界への、なんか抜け穴みたいなのがあると。それが、グルなんだと。
でもそれもさっきから言っているように、われわれの観念からすると、あっち側の世界って分からないから、グルを通して見えるあっち側の世界っていうもの、あるいはあっち側の世界へわれわれを導いてくれる現象みたいなものが、この世レベルの本当に他の平凡なものと一緒のようにだんだん見えてくるんだね。これによってちょっと失敗してしまう。
これはだからチベットとかでもよくそういうことあるわけだけどね。そのグルがやっていることを、非常に自分の観念的な日常的な目で見てしまって、すごく疑念がわくとか、あるいはすごく尊敬をもてなくなってしまったり。そうじゃないんだっていう考え方が必要なんだね。
もちろんこれは、分かると思うけど、そのような誠実なしっかりとした師弟関係に入るかどうかは、その弟子の気持ち次第です。もちろん入らなくてもいい。入らなくてもいいっていうのは、一般的な基本的なね、仏教とかヨーガの考え方で、自分の納得できることだけを納得して、で、納得できることだけを論理的に考えながら実践していく道。これはこれでいいです。これは基本的な大乗仏教の道だね。
で、もう一回言うけども、密教とかつまりストレートに真理を悟るような道に入ると、そのようなわれわれが依存している言葉とか概念とかの世界を超えて、ストレートに真理を理解しなきゃいけない段階に入ってくる。その唯一の穴であり導き手になるのが、グルなんだね。
だからそういう観点で、「どうしてグルを見出せようか」っていう言葉を受け入れなきゃいけない。つまり、われわれが本当の意味で――例えばですよ、例えばみなさんに――それはわたしかもしれないし他の人かもしれないけども――師匠と呼べる存在がいたとして、その師匠を本当にグルとして見ることができるかどうかっていうのは、みなさんの中の、グルの中にけがれを投影してしまうようなけがれみたいなものを、どんどん自分の中から排除されなきゃいけないんだね。排除されて、純粋にストレートにそのグルという穴から見えるあっち側の世界を見れるような心の状態を作らないと、本当の意味でグルに出会えないというか。
よくクリシュナ物語とかでもそういう話っていっぱい出てくる。つまりクリシュナがいろんなね、マーヤーを使ってみんなを騙しているんです、ある意味。騙しているっていうのは、騙しながら導いてる。つまりクリシュナは本当に何も知らないね、少年のようなふりして、わーっとやりながら、実際はみんなを導いてるんです。で、みんなは「本当に村のかわいい子」みたいな感じで接してるだけなんだね。でもたまになんかちょっと気づいちゃう人がいて。これは半分クリシュナが意図的にやってるんだけど、例えば、これも前に勉強会で何回かやったけど――クリシュナの育ての母のヤショーダーが――こないだビデオでも見たけども――クリシュナがね、泥を食べちゃったっていうんで、「じゃあ見せてみなさい」って口の中開けたらみたら全宇宙があって(笑)、「あれ!? うちの息子の口の中に全宇宙がある」と(笑)。ええーって感じで、「あ、うちの息子は実はただの人間ではなく、至高者であった」と。で、まあおそらくもともとヤショーダーっていうのは智慧があったと思うんだけど、自分の存在も、「あっ、自分は今ナンダという男の妻で、クリシュナという少年の母で、これこれの牛を管理し、これこれの家事を行なっているっていうアイデンティティがあったけど、そのアイデンティティはすべて偽物であって、自分は真我であった!」ってことに気づいちゃったんです。一瞬ね。で、そこでクリシュナは「まずい」と思って、わーってマーヤーをかけて(笑)、また「ああ、わたしヤショーダー」ってこう戻したっていう話があって(笑)。 だからクリシュナとしては、そのマーヤーの中で導いてくみたいなところがあったんだね。でも修行者の道を歩いている人っていうのそうじゃなくて、逆に自分でそのマーヤーをこう取り払ってね、つまり自分を導いてくれるグルとかの存在っていうものを認識するようにしなきゃいけない。
これもクリシュナ物語とかでよくね、クリシュナが自分の正体をこうバーッと見せる場面があるわけだけど、でもまだ徳の無い、あるいはけがれてる人っていうのは、それを見てもよく分からないんだね。でも智慧のある人や、あるいはものすごく心が清らかな人っていうのは、「ああ、まさにあなたは至高者だったんですね」と気づくわけですね。
それもだからここで言っているのと同じで、自分に――例えばけがれがあり、あるいはまだ清らかな信であるとか帰依の心っていうのが未熟な場合っていうのは、普通の人と同じように、自分のけがれの投影としてグルを見てしまうと。その場合でも偉大なる導きっていうのは行なわれるんだけども、でもそれがとてもいびつな感じでね、スムーズに行なわれないんだね。それに対して例えばこちら側が拒否反応を起こしてしまったり、あるいはそれを神の愛として受け入れられずに、ちょっとこう抵抗してしまう場合がある。そうなると、せっかく偉大な道にめぐりあい、偉大な師にめぐり合ったとしても、師を通じての神の導きみたいなものがスムーズにいかない場合がある。
よって――ちょっとね、難しい話になってるけども、も一回まとめるけどね――われわれは、われわれの中のこういったひとつひとつのけがれっていうものをつぶしていって、それによってストレートに世界を見れるようになっていって、で、それによってグルというものと「本当の意味で」出会わなきゃいけないと。ね。
ちょっとだから例えとして言うよ。例えとして言うと、まあみなさんにとって例えば師匠といえる人がいるとしてね、その師匠を、例えばあるいろんな意味で見てるでしょう。いろんな意味で見てるんだけども、みなさんの目がきれいになったとき――例えばじゃあちょっと具体的に言いますよ、例えばM君がいたとして。M君が例えばわたしを師だと考えているとしてね。で、わたしを師だと考えたっていうのは、いろんな理由があるかもしれない。あるいはいろんな見方があるかもしれない。例えば教えに感動したとか、あるいは直感的なものとか、あるいはこうこうこういう修行のプロセスを歩んでいるから、わたしもそれを学びたいと思ったとか、いろいろあるでしょう。つまりいろんな条件付けが、まずあるわけですね。で、それはあるいは逆にさっき言ったように、いいところしか見てないからっていうのもあるかもしれない。例えば「いや、先生はこういうことしない」って思っているかもしれない。例えばちょっと変な話だけどさ、わたしが例えばいきなり殺虫剤でゴキブリとか殺してるのを見たら(笑)、「ええ! 先生、そんな人だったんですか!」と言うかもしれない(笑)。あるいはわたしが例えばそうだな、例えば誰かに怒鳴り散らしているところを見たらね、例えばKさんとかがわたしにわーってなんかひどいことを言ったとして、わたしが「うーん」って聞いてたら、「あ、さすが先生」って思うかもしれないけど、「ふざけんな! お前!」とかやったとしたら(笑)、「えー! ちょっとこんな人についていっていいのかな……」って思うかもしれない(笑)。でもまあそういうのがないからついていってるっていうのも、あるのかもしれない。で、それはすべて条件付けなんだね。うん。で、それはすべてただのM君の世界であって。
でもそうじゃなくて、M君が自分の中のいろんなけがれを取り除いていったときに――まあちょっとわたしを例えにするとやっぱりあれだから一般論として言うけども――ある師匠がいて、その師匠に対してある固定的見方をしていて、でも自分のけがれが取り除かれたときに、ある時――なんていうかな、ちょっとあるパターンで言いますよ――あるときその師匠が、クリシュナに見えます。例えばだけどね。あるいは、お釈迦様に見えます。あるいはそうだな、シヴァ神に見えるかもしれない。そういう瞬間が来るんです。これは、ストレートに言うとね。
つまりもう一回言いますよ。例えばある師匠がいてね、その師匠はそうだな、普通のおじさんに見えるかもしれない。例えば頭はげてるかもしれない。ね。頭はげてて、ちょっと体臭もするかもしれない(笑)。で、ちょっとこう怠け者で――怠け者じゃ駄目か(笑)。怠け者じゃさすがに駄目だね。怠け者じゃなくて、そうだな、ちょっと忘れっぽいとか。で、たまに、なんかちょっとこうくだらないこととか言ったりすると。あるいはなんかこう、そうだな、ちょっとたまに怒ったりすることもあると。そういう欠点も見えると。まあ普通の人間っぽいけども、でもまあ修行のことはいっぱい知ってる――というふうに見えてるんだね、最初はね。でも、あるとき、自分のけがれや屈折が取り除かれたときに、その、はげでデブで――あ、デブっていうのもおかしいか(笑)。まあなんでもいいんだけど――はげでデブで臭くて、怒りっぽいところもあるその師匠が、イメージとか例えではなくて、本当にクリシュナそのものに見えるときがある。あるいはシヴァ神そのものに見えるときがある。それこそが、弟子がグルを発見したときなんだね。
つまりこの例えにおいては、もうグルとは出会っているんです、肉体的には。でも本当の意味では出会っていないんです。本当の意味でグルを見出すっていうのは、そういうことなんだね。あるとき自分の――何度も言うけども――けがれが取り除かれたときに、自分の師がクリシュナそのものに見える。なんの欠点もない百パーセント純粋な、クリシュナに見えるんです。そのときこそ、その人が本当にグルと出会いましたねと。
で、そのときは、グルのやる仕掛けや行ないを百パーセント受け入れる段階になっています。だからもう非常にスムーズに師弟の導きっていうのがいくんだね。
それはだからナーローパが、この小さな試練を受け入れたあとはそうなってるよね。ナーローはまさにグルこそが自分を導くその光そのものであると見て、もう――これは何度もね、この話も出してるから分かると思うけど――ナーローがティローパに受け入れられたあとっていうのは、受け入れられたあともいろんな試練を受けるんだけど、もう全くね、躊躇がないんだね。躊躇がないっていうのは、例えばティローとナーローが一緒にね、高いところに登って、で、ティローパが「いやあ、わたしにもし弟子がいたらこっから飛び降りただろうな」ってボソッと言うんだね。で、ナーローは、パッて飛び降りる。これ、躊躇がないっていうのはつまり、普通ね、「えっ!? ちょっと待って。今、おれのこと?」(笑)。つまりさ、「おれのこと?」っていうのは、おれのことじゃなかったらいいなって思うわけだね(笑)。「おれのことかな、でもなんかもう黙っちゃってるし、やっぱおれかな……やっぱやんなきゃいけなんだろうな……」と。「いや、おれはやるよ」と。「やるやるやる、わかりました、やりますやります――エイッ!」と。これでもすごいことだよね。すごいことだけど、でもまだ躊躇があると。でもナーローには躊躇がないんだね。
これは『あるヨギの自叙伝』で似たような話があるね。『あるヨギの自叙伝』で、ババジを探した男の話って読んだ人覚えているかもしれないけど、この人もすごい人なんだけど、何がすごいかっていうと、ヒマラヤ中を探してババジ見つけたっていう(笑)、その時点ですごいんだけど(笑)。縁があるっていうかな。まあババジっていうのは伝説によるとね、数人の高弟とともに、ヒマラヤ中を旅していると。でもその旅の仕方が、時には歩いたりするらしいんだけど、テレポーテーションしたりするから、ヒマラヤに行ったってババジを発見することなんて普通は無理。でもある男はものすごい情熱でヒマラヤ中を旅して、ついにババジを見つけたと。
で、そこでその男が、ものすごい懇願してね、「もうわたしはあなた様なしには生きていけません!」と。「どうか弟子入りさせてください」と。「もうあなたがすべてなんです!」――でもババジはいったん拒否するんだね。で、その弟子は「あなたが弟子入りを許してくれないならば、わたしは生きている価値はありません!」と。「弟子入りさせてくれないなら死にます!」って言ったんだね。そうしたらババジは一言、冷たく「じゃあ死になさい」と言ったんです。そうしたらその男は、なんの躊躇もなく、崖から飛び降りたんだね。で、そこでババジは弟子にね、崖の下に行って彼の死体を捜してくださいと。で、もうすごい崖だったから、もう体がばらばらになってひどい状態だったわけだけど、この死体のばらばらになったのを持ってきてね、で、それをババジが――ちょっと神秘的な話なんだけど――癒して蘇らせて、で、そこでババジが言ったのが、「お前のあの肉体のカルマの状態では、受け入れることはできなかった」と。「でもお前は無事テストに合格したね」と。つまりその、体面とかね、表層的なプライドとかじゃないんです。体面とかプライドではできる人はいるかもしれないよ。例えばババジを見つけて、じゃあ死になさいって言われたときに、「え!? マジ? でもな、おれはここまで来たんだから、これやんなきゃ男として」とかね(笑)。「恥ずかしいだろ」――そういうのでやる人いるかもしれないけど、それでは駄目なんだね。そうじゃなくて完全に受け入れてるっていうか。つまりその、この人こそが、あるいはこのグルこそがすべてなんだと。わたしを導く存在っていうかな、現象っていうか、光っていうのはここにしかない、百パーセントそうなんだっていう完全に受け入れ体制ができてるんだね。この状態ではじめて非常にスムーズな師弟の導きがおこなわれる。
しかしもう一回言うけども、これは相当高度な話です。だからナーローでさえも、多くのその過ちや試練を乗り越えてやっとたどり着いた境地だから。だから普通は、難しいんですね。普通は――多くの今、世界中にチベット仏教にしろ、ヨーガにしろ、そういった師弟関係ってあるけども、当然そこまでいってる人っていうのはまあ、少ないか、ほとんどいないでしょう。でもその道を――密教の場合はね――歩かなきゃいけないんだね。
もう一回言うけども、肉体的には師にめぐり合ったかもしれない。しかし本当の意味で、グルにめぐり合わなきゃいけない。それには自分の心の浄化っていうかな。自分の心の中のさまざまな屈折やけがれを取り除く作業が、絶対的に必要なんだね。
はい。ちょっとね、このシリーズは難しい話ですが。はい、ちょっとまた、ひとつのエピソードだけで終わってしまいましたが(笑)。いつ終わるんだっていう(笑)。なかなか大変ですね。
はい、じゃあ今日はこの辺で終わりましょう。
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