「解説『母なる神』」第六回(1)
2012年6月17日
解説『母なる神』第六回
【本文】
活力なき受動性は、真の明け渡しといつも混同されてしまうが、活力なき受動性からは、力強い真なるものが生まれてくることは、決してない。あらゆる曖昧な影響やあらゆる神的ならざる影響の手の内に易々と下るのは、活力なき受動性によるものである。
「神の聖なる力」が働いてくださったり、「覚醒した真理の天使」や「曖昧と欺瞞を相手に戦う内なる戦士」や「神の忠実なしもべ」などが手をさしのべてくださるためには、喜んでその助けの手の中に入る「力強い従順」が、こちらの側に求められるのである。
まさしくこれが正しい態度なのだから、かかる態度をとってこれを堅持する者のみが、失意や困難に出合ってもめげることのない信仰を保って、至高の勝利と大いなる変成へと至る試練を、敢然と乗り越えることになるのだ。
はい。これで【一】のパートは終わりですね。この『母なる神』っていう作品は――そうですね、この最初の今の【一】のパート、ここで全体的なメインとなる、言いたいことをバーっと、まず中心的なことを言って、【二】以降でもうちょっと詳しく各論に入ってる感じですね。
はい、今のところは、まず「活力なき受動性は、真の明け渡しといつも混同されてしまうが、活力なき受動性からは、力強い真なるものが生まれてくることは、決してない」云々と書かれていますが、これはいつも言ってる――なんていうかな、例えばわたしの場合、最初ね、中学生ぐらいからヨーガ修行を始めたわけですけども、まあそのときわたしは独学で、『ヨーガスートラ』とか、『ハタヨーガ・プラディーピカー』とか、ああいう経典とかを見つけてきて、自分で行法を始めたわけですね。まああるいはヨーガ哲学なり仏教哲学なりを学びだした。で、前から言ってるけど、その頃わたしは、信仰というのは嫌いだった。あるいは宗教っていう言葉も嫌いだったし、そのフィーリングも嫌いだった。つまりわたしにとってのヨーガ行っていうのは、あくまでも自分の力で自分の道を切り開き、悟りをつかむっていうかな、そういうイメージがあって。じゃなくて宗教っていうのは、なんか――まあ普通に日本で生きてて宗教って聞くと、やっぱりちょっと弱い人が依存するっていうかな、心の弱い人が何かに依存して生きていく、肩寄せ合って生きていくみたいな、なんかそんなイメージがあったから、宗教とか嫌いだったんだね。あるいは信仰っていう言葉も嫌いだった。わたしは別にそんなのはいらないと。
しかしいつも言っているように、ハタヨーガ、クンダリニーヨーガ、あるいはジュニャーナヨーガ、あるいはもちろんバクティヨーガも含めて、カルマヨーガも含めて、あるいは仏教、密教いろいろやっていって、わたしがわたしなりにいろんな体験を積み重ねて、果てに至った結論が、「バクティヨーガ、つまり信仰は最高である」と。ね(笑)。そこに至ったわけだね。
つまりこれは何を言ってんのかというと、わたしの気が変わったわけじゃないんです。つまり、わたしは最初の段階で、信仰というものを勘違いしてたんです。でもそれは、ほとんどの日本人が勘違いしてる。まあ日本人だけじゃないかもしれない。世界のほとんどの人が、信仰を勘違いしている。
実はこの対話っていうか、これは何回かわたしはしたことがある。したことがあるっていうのは、まあそうですね、いまのカイラスに来てる人っていうのは――ちょっとこういうこと言うとあれだけど(笑)、なんていうかな……レベルが高い人が多いと思う、実際にはね。うん。ただまあいつも言っているように、最初わたしが、鶴見区の生麦でヨーガ教室始めたときは、近所のおばさんがいっぱい来てたわけだね(笑)。まあそれからちょっとずつ、若干、本格的にヨーガがやりたいなっていう人も集まり始めたと。で、その頃にわたしは――その頃から少しづつバクティの話もしてたんです。でもそうすると、やっぱりみんなちょっと拒絶反応がある。うん。ヨーガは好きだけど神を信じるとかはちょっと分からない。信仰は嫌いだ――ってこうなるわけですね。昔のわたしみたいに。で、わたしよくそういうときにいろいろ言ってたのは、多分それはわたしが言ってる信仰と、あなたが感じてる信仰が違うんだと。信仰が駄目なんじゃなくて、その定義っていうかな、その理解が全然違う。だから多分、あなたが感じてるような、つまり多くの人が信仰という言葉で定義してるもの――これはもちろんね、はっきりいって否定されるべきなんです。まさにそれはここに書いてある「活力なき受動性」ってやつです。つまり、ただ依存すると。あるいは弱いから、なんていうかな、悪い意味でのおまかせをする。この人たちは決して本当の意味でのおまかせをしてない。これは、ラーマクリシュナの説法とかによくそういうのがありますけども――大体こういう人たちが、ちょっと苦しい目に遭うと、あるいはちょっと願いが叶わないと、怒り出す。あるいは神に文句を言うかもしれない。これは、ただエゴでいっぱいで、そのエゴを叶えてもらいたいがために神を利用しているに過ぎない。信仰っていうものに、その弱いところ、自分の心の弱さをそこに当てはめて、まあ利用してるっていうかな。
じゃなくて、ここで多くのバクティ的な教えを学んだりしたら、もう分かると思うけども、本当の意味での信仰、あるいはバクティ、あるいはおまかせとか明け渡しっていう道に入るには、すごい強さが必要です。ね(笑)。相当の心の強さと――あるいはね、この間も言ったけど、実際に心が強く鍛えられなきゃいけないんだけど、ただ本当のこと言うと、その人の心の誠実さとか神への愛というものが完璧だったならば、本当は強ささえいりません。その愛っていうかな、本当の神への強い思いだけで、実は心の弱ささえも乗り越える場合があるけどね。でも実際はわれわれは、すべてが中途半端だから(笑)。すべてが中途半端だから、神への信仰に足りうる、あるいは本当の意味で明け渡しに足りうる自分自身っていうのを、徹底的に鍛え上げて作り上げなきゃいけないんですね。それは何度も言うけども、活力なき受動性ではない。つまり、弱い者がただ、弱いから何とかしてくださいっていう世界ではないんだね。ここの言葉でいうと「真の明け渡し」もしくは「力強い従順」という言葉が書かれてるね。
面白いね、この「力強い従順」ってね。「従順」って、完全にこう投げ出してるような、弱い人が従順になるって感じだけど、そうじゃなくて「力強い従順」。逆に言うと、何度も言うけども、力強くないと神の前で従順になれないんです。それはそうだな、まあよく出るそのナーローパの話とかもそうでしょ? ナーローパとティローパの師弟関係っていうのは、ティローパがやることっていうのはもうめちゃくちゃなわけですけども、ナーローパは全部従うわけだね。あのナーローパを見てると、もちろん弱々しい、心の弱い人の宗教とは思えないでしょ? 弱かったらあんなことできないですよね。例えばグルが「飛び降りろ!」――あ、飛び降りろとも言わないんだね。「わたしに真の弟子がいたら飛び降りただろうなあ」って(笑)、言われると、ナーローパは――まあナーローパの勉強会のときも言ったけどね――ここでナーローパが素晴らしいのは、躊躇しないんです。あと聞き返しもしないんです。わたしだったら多分ね――わたしだったらっていうのも変だけども――わたしも多分飛び降りるかもしれない。でもね、何度か聞き返すかもしれない。
(一同笑)
「いま飛び降りろって言いました?」
(一同笑)
「いや、わたしできますよ」と。「飛び降りればいいんですよね。はいはい、できますよ」と。よしよしってかんじで(笑)、飛び降りるかもしれない。ナーローパはそれさえないんだね。なんとなく「ああ、飛び降りただろうなあ」っていうのを聞いただけで、バッて飛び降りる。これはすごい、まさに「力強い従順」ね。これは一つのいい例ですけどね。
同じような話って、ナーローパもそうですけども、偉大な聖者っていうかな、過去のバクティ系の人達にはいろんな話があるね。で、そのようなものっていうのは、もう一回言うけども――心の中にまず、神に対する一点の曇りもない信っていうのがあるんだね。この一点の曇りもない信っていうのも、弱い人は持てません、心の弱い人はね。だって――皆さんはどうか分からないけども、修行を始め、神や師やあるいは教えっていうものに対して信を持ちつつも、いろんなカルマにぶち当たってるとか、心のけがれにぶち当たったりして苦しくなると、疑いが出ることがありますよね。この疑いって、皆さん分かると思うけど、自分の弱さを隠す、もしくは自分の弱さの逃げ道として疑いがあるんだね。だからこれはヨーガ哲学でいうと、疑いの心、これはスワーディシュターナ・チャクラっていうんです。このスワーディシュターナってまさに動物のチャクラで、逃げのチャクラなんです。逃げ、あるいは「苦しいこといやだ!」あるいは怠惰でありたいっていうかな。苦しいのに立ち向かうのは面倒くさいとか(笑)、そういう気持ちがあると、つまり圧力が加わるわけですね。自分のエゴに圧力がかかったときに、この圧力をほっとけば自分の心が壊れるはずなんだけど、それを苦しくて嫌だから方向性を変えて、神とか教えを壊すように持っていくんだね(笑)。うわーって自分が壊れちゃうから、この苦しみから逃れる手段はただ一つ――神の否定。ね(笑)。だから疑いが出るんだね。だから心が弱いと浄信、つまり清らかな信って持てないんです。
だからこれもさっき言った、わたしの最初の錯覚があったわけだけど、心の弱い人が神を信じるんだっていうのは大間違いで、心の弱い人は本当の意味で信じられません、神を。あの「神のしもべに」の歌にもあるように、なんていうかな、百ゼロの帰依じゃなきゃいけないからね。百ゼロの帰依っていうのは――まあこれも何度も出してる、ラーマクリシュナがよく例えとして出す男の話がありますよね。ちょっと新しい人もいるので、もう一回その話を言うと――あるところに、あるものすごく神に対して清らかな信を持った男がいてね。で、ちょっとこれはおとぎばなし的な話なんですけども、その神のところに悪魔がやってきて、で、この悪魔が「おれにはできないものはない」みたいな感じでこう偉ぶってたんですね。そこで神が、「じゃあお前やってみろ」と。「あのわたしに対してすごい清らかな信を持ってる男がいるから、あいつの信を打ち負かしてみろ」と。こう悪魔に言ったわけですね。で、悪魔は「そんなことはお安い御用だ」って言ってその男のところに行って、その男の人生を滅茶苦茶にしはじめたわけですね。いろんな人生の不幸を味わわせ、果てには――その男には愛する家族、奥さんとか子供とかいたわけですけども――奥さんも殺し、子供も殺し、その人の地位も失わせ、みんなから蔑まされるような立場にさせ、その本人自体も病気になって、不幸のどん底に落とすわけですね。うん。で、その状態で、悪魔がもう徹底的にその不幸を与えたあとに、「さあお前、もう神なんか信じないだろ?」って聞いたわけだけど、その男がそこで言ったのは、「神よ」と。「すべてはただあなたがお与えになり、あなたがお奪いになりました」と。「すべてはただあなたです」と。つまり全く信仰が揺るがなかった。これくらいの百ゼロの――つまり一般の宗教とか、一般の、例えばお参りに行く人とかが持つような、「はい神さま、幸せください。苦悩はいりません。それ叶えないと信じませんよ、お賽銭あげたんだから」みたいな(笑)、そんな世界じゃないんですね。うん。つまり苦悩ももしあなたがくださるなら、それはわたしにとって大いなる喜びだと。もちろん幸せをくださるならそれはそれで喜びであると。わたしはただ、あなたにおまかせしてるんです、っていうことを――もう一回言うけどね、一点の染みもなくできるとしたら、それはもう相当強い心であって、または相当清らかなっていうかな。その完全に神を信じてる心ですね。
だからこれがないと――何度も言うけども、ここの言葉で言うと「活力なき受動性」それから「力強い従順」っていう二つの言葉が使われてるけども、「活力なき受動性」の方にやっぱり流れてしまうんだね。じゃなくて、もう一回言うよ――力強い従順を持たなきゃいけない。
だから、じゃあどうすればいいのかってことになるけども、これは結局ね、結局すべてはいつも言っていることに帰結するわけだけど、つまり、皆さんが今修行いろいろしてて、教えを学んでて、それに必要な要素っていっぱいあるよね。あるいはそのためにする修行っていっぱいあるでしょ。で、大体全部同じなんです、帰結するところは。例えばしっかり徳も必要だし、それから悪業を浄化しなきゃいけないし――っていうのは、悪業があると心が否定的になります。悪業があると心が弱くなります。だから悪業は浄化しなきゃいけない。で、徳を積まなきゃいけない。これは逆に言うと、徳が積まれてると心が安定してきます。あと強くなります。それから実際に教学等によって、自分の心のデータを入れ替えなきゃいけないし、そしてそれを根付かせて身口意を、そのように変えていく念正智が必要ですね。あるいはさっき言った、悪業浄化のテクニックとして懺悔も必要であるし、あるいはもちろん日々、心を神でいっぱいにするような、バクティ的な実践も必要だし、で、それを補助するための――われわれは今、カリユガだからね、かなり肉体に精神が依存してしまっているんで、それを補助するための、ムドラー等のエネルギーの行法も必要であるし――さまざまなことを皆さんがまじめに修行して、まじめに自分を鍛えていくことによって――まああるいはこないだも言ったけど、やっぱり非常に重要なものとして、忍辱ってあるよね、忍辱。つまり日々苦しいことに耐えると。小さなことでもいいから苦しいことに耐えると。そういうことをしっかり繰り返すことによって、今言った「活力なき受動性」ではなくて「力強い従順」にそれが昇華される準備が整っていく。
「活力なき」って言葉でここで使われているけど、逆に言うとね、修行者というのは――これはそうだな、どの修行でもそうですね、どの修行でもやっぱりね、活力が必要なんです。ここでいう活力っていうのは、肉体的にどうかは別です。そうですね、あるタイプの人は肉体的にも活力がある。皆さんが肉体的行を徹底的にやってたら――まあ例えば気功であるとかプラーナーヤーマであるとかアーサナであるとかを、まあそうですね、自分の修行の割合としてたくさんやってたら、肉体的にもかなりエネルギッシュになります。エネルギッシュになって健康になって、すごい活力が出てくるね。ただ修行のタイプによっては、肉体はそうじゃない場合もある。特にわれわれのそのエネルギーとか徳が、アストラル、つまり霊的世界やあるいはもっと奥の心の中心的な世界の方に使われると、逆にね、ちょっと肉体はエネルギーダウンするときもあるね。ちょっと疲れやすくなったりとか。あるいは逆にラーマクリシュナの弟子たちみたいに肉体の方には全然徳が向かってなくて、病気になったりとか、そのパターンもあるけどね。でもどのパターンでも、心は、あるいは内的エネルギーは、活力に満ちるはずなんです。例えばそれはジュニャーナヨーガの場合もね――例えばジュニャーナヨーガっていうのは、まあ言ってみればものすごい知性によって、つまり知的にその真理というものを解析し、ブラフマンにたどり着かなきゃいけないから――この場合はまあ肉体でいったら大脳ですけど――この自分の中の、正確に誠実にものを考えるということにものすごいエネルギーが使われているわけだね。すごい活力によって、徹底的な思索を行なわなきゃない。あるいはもちろんクンダリニーヨーガなんていうのはまさにエネルギーのヨーガだから、相当な強いエネルギーがなきゃいけない。で、バクティも今言ったように、エネルギーがない人が、あるいは活力がない人が、徳がない人が力なく神に自分をゆだねるっていう道じゃないんだね。そのものすごい活力、内側の活力によって――まあいろんなタイプがあるけども、「さあ、わたしは神のしもべです」と。「なんでもご命令ください」と。だって活力なきゃ神の命令達成できないでしょ? 「神の道具です」とかいって、エネルギー不足と(笑)。電池切れてるよと(笑)。でも言葉で、口でばっかり「わたし神の道具です………」。――あれ? あれ? 入らないよエネルギーが。「ギューン!」――いま電動ドリルのイメージだけど(笑)。
(一同笑)
電動ドリルとか、やー!ってやろうとするんだけど。でも口でばっかりね、「神の道具です………」「使って下さい………」――なんかぼそぼそ言ってると(笑)。「(電源が)入らないよ!」と(笑)。「もっと充電して出直してこい」と(笑)、神から言われてしまう。
だからそれだけ、徳を積まなきゃいけないし、エネルギッシュにならなきゃいけない。
もちろんね、この中で、「いや、ちょっとわたしはまだ徳がなくて、エネルギーが心に足りない」と、あるいは「活力がない」という人もいるかもしれない。それはもちろん過去の悪業であったり、あるいは過去の――この場合、徳がない場合と、それから徳があるんだけど悪業によってそれがちょっと蓋が閉められている場合がある。まあもしくはさまざまな心の屈折によって蓋が閉められている場合もある。まあいずれにしろ、それはカルマの産物に過ぎないので、もちろんそれは今から頑張ればいい。もし自分がなかなか心の強さがないと。あるいは心の活力がないって考える人は、今からしっかり徳を積み、あるいは神に心を合わせ、あるいは過去の悪業を浄化し、あるいは心の屈折を正し――ということを繰り返すことで、ただそれを取り戻せばいいだけだね。それによって――いいですか?――イメージとしては心が非常にクリアで、かつ神聖なエネルギーが満ちた状態が必要なんだね。
近代の、バクティヨーガ、あるいはカルマヨーガの代表的な人としては、ヴィヴェーカーナンダがいますよね。ヴィヴェーカーナンダとかは、伝記とか言葉を見てると、まさにあの方は力強い人ですよね。うん。「活力なき」というのとは程遠い人だね。ものすごいもう溢れんばかりのエネルギーで、神の、あるいは師ラーマクリシュナの使命を果たしたと。ああいう感じでなきゃいけないんだね。何もしないでぼーっとしてて、「神よ、神よ」――これは駄目です。活力をぐーっと満たし、で、心は神でいっぱいだと。もうなんていうかな、「神以外のことは一瞬も考えることができない」と。あるいは「自分の人生すべてを、神の愛として受け入れる覚悟ができた」と。このような状態で――まあそれぞれのいろんな使命があるでしょうけども、自分の使命はこれかな? というものに対して全力でぶち当たっていくと。そういう強さが必要なわけだね。
はい。で、そのように――ちょっと今いろいろ言いましたけども、この二極の、信仰とか、あるいは宗教とか、あるいは神への信っていう、同じ言葉で実際には二極の立場があるわけですね。で、何度も言うけども、もちろん今皆さんの中で、心が弱い人、あるいはまだそんなに強い信を持てない人もいるでしょう。それはかまいません。なんでかっていうと、今から変えていけばいいから。
で、一番悪いのは、その前者の活力なき受動性に入ってしまっていて、それで開き直る。もしくはそれが分かってない場合ね。うん。つまり自分は単純に心が弱くて、そのようなただの依存の状態に入っているだけなんだけども、それが分かってないとどうにもならないから。だから自分の中で自分をちゃんと観察して、まだそういうその弱さがあると思ったら、ちゃんと立て直していけばいい。
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