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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第9回(1)

2011.10.15

解説『スートラ・サムッチャヤ』第9回

◎最も大事なこと

 今日は『スートラ・サムッチャヤ』ですが、まあ今日見た『ラーマーヤナ』に関しては、今日の話っていうのはそんなに解説するような話じゃないですけどね。バラタがラーマに会いに行く過程でのバラタの、純粋なっていうかな、強烈なというか、主ラーマへのしもべとしての愛の想いの表現ですね。
 あまり解説することはないっていうのは、こういう世界っていうのは、分からない人には分からない。ね(笑)。分かる人は解説しなくても分かるっていう世界なので、あまり解説はいらない。
 つまり――これはまあ、またAMRITAチャンネルとかでね、流すと思うので、ぜひ何回も観たらいいと思うね。――バクティヨーガにはいろんなムード、あるいはバーヴァとか言われるわけですけども、そのいろんなタイプのバクティがあるといわれています。で、その一つがこのしもべ、つまりわたしは主のしもべであるっていう態度なんだけど、実際はこれはいくつかのうちの一つではなくて、すべてに共通するっていうかな、すべてのベースとなってるのが、このしもべっていう心構えなんだね。「わたしは主のしもべである」と。
 で、そのしもべっていう意味っていうのは、自分でつかむしかないんですけども、まさに今日のバラタの態度っていうかな、心持ちとかまさにそうだし、あるいは「神のしもべに」の歌とかもそうなわけですけども、あれに流れてるような、投げ出した感があるわけだけど、それは決して義務的なものではなくて、喜びと愛に溢れてるっていうかな。
 で、これは本当に純粋なものであって――純粋なものっていうのは、われわれが――まあおそらくここにいる多くの人はそのバクティの要素があるだろうから、今生作ってしまったいろんな合理性であるとか、まあ非常に雑な論理性であるとか、あるいはもちろんエゴであるとか、あるいはそのエゴの言い訳としての表面的な自分の考えであるとか、そういったものが皆さんからだんだん洗い落とされてきたときに現われる、しもべの意識、しもべの愛みたいのがある。それをぜひ引っ張り出してほしいね。
 引っ張り出して、何度も言うけど、今日の『ラーマーヤナ』の映像を何度も観るのでもいいし、あるいは「神のしもべに」とかね、「あなたの愛に」とかもそうだけど、そういう歌を歌うのでもいいし、そういった経典を何度も読むでもいいけども、それをぜひ引っ張り出してほしいね。それは何度も言うけどね、宝物なんです、皆さんにとって。それのみが皆さんを、皆さんが望んでる神の世界や、あるいは自分の本性の世界に近づけてくれるという宝物を皆さん持ってるわけだから、それを今日皆さんが――まあおそらくこの中で多くの人が今日の話に感動したと思うんだけども、その感動した心というのを忘れずに、なんていうかな、日々の――まあまさに念正智になるわけですけども、日々の自分の一挙手一投足、身口意のあらゆるものに対して、「わたしは神のしもべである」と。「しもべとしてはどのようにして生きなきゃいけないのか」あるいは、「わたしは神のしもべとしての意識をずっと持っているだろうか?」あるいは「その神への愛というのをまだ今もずっと持ち続けていられているだろうか?」と。「なぜかっていうと、それこそがわたしにとって最も大事なことであって、わたしが生まれ、そして存在する意義なんだ」というその念正智を強く忘れないようにしてほしいと思いますね。

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