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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第14回(2)

◎如来の干渉

【本文】

 タターガタグナジュニャーナーチンティヤヴィシャヤーヴァターラニルデーシャ(如来功徳智不思議境界経)には、こう説かれている。

「如来は衆生の輪廻の生死世界に出現し、出家し、あるときは難行苦行し、菩提樹の下に赴き、菩提樹の下に座し、あるときは魔を降伏し、あるときは最正覚を現証し、あるときは梵天に勧請され、あるときは法輪を転じ、あるときは小乗を説き、あるときは大乗を説くのを聞いた。

 ある者は如来の身長が一尋(ひろ)(2メートル弱)もあるのを見、ある者は一クローシャ(約2.5キロメートル)もある如来を見、ある者は千ヨージャナ以上の大きさの如来を見た。
 ある者は如来が黄金色に輝くのを見、ある者は如意宝珠のごとき如来を見た。
 ある者は如来がニルヴァーナに入るのを、ある者はニルヴァーナから出るのを見た。
 ある者は如来が火葬されるのを、ある者は如来の遺骨を見た。
 ある者は縮小した如来の身体を見た。
 ある者は悟りを得て一〇年後の如来を見た。
 ある者は如来がニルヴァーナに入って十年経過するのを見た。
 如来は思考することなく、分別することなく、衆生を自由自在に教化しようと思うのである。」

 はい。ここも同じようなところですが、まあただ「言葉で説明できません」って言うだけだと勉強会が成り立たないので、ここはちょっとだけ言うとね――ここで、ある者は如来をこう見た、ある者は如来をこう見たって書かれてるけども、これはいつも言うように、如来あるいは、まあヒンドゥー教的に言えば、神の化身アヴァターラ。あるいはその中間状態である菩薩っていう状態。こういった存在っていうのは――いいですか?――いつも言ってるように、われわれはカルマっていう法則によって限定された相対世界を生きてるんですね。まあ言ってみればカルマっていう一つの法則、ガチガチの法則で固まった一つの世界に生きてる。で、今言った如来とかっていう存在っていうのは、いつも言うように、そこから出た存在なんだね。出たっていうのは、そのカルマの世界あるいは相対世界から解脱した存在だからね。だから本来は、この相対世界とは関係のない存在なんだね。で、この関係のない存在が、われわれへの慈悲によって干渉してくるわけですね。
 ここで大きな、なんというかな、矛盾が生じる。つまりその、本来触れることのないものが触れてるわけです。相対世界と、相対界を脱した絶対なるものが、触れてるわけですね。つまり、次元の違うものが触れてるわけだね。
 次元っていうのはさ、まあよくスピリチュアル的な世界とかで、あいまいな感じでね、何次元とかいう使われ方をするけども、例えば数学的に言っても、縦と横の二次元があり、それに高さが加わって三次元っていう例えば定義があったとしても、この二次元世界と三次元世界って明らかに違いますよね。で、この平面の世界と立体の世界っていうのは、そもそも違う世界だから、本来は交わるものではない。これはまあ単なる二次元三次元の世界の話だけど、これと同じような、あるいはこれよりさらにもっとその隔たりが大きいような感じで、われわれが考えてるもの――つまり、皆さんが考えてるのは多分ね、ちょっとわれわれよりも智慧が高くなって、もうとても心がきれいになったのが如来って考えてるかもしれないけど、全然違うんです。だから全く、この世界のカテゴリー自体が違う存在になってる存在があるわけですね。で、この全く、もう想像すらできないほどの、法則性から言って違う存在と存在が交じり合うっていうことは、なんて言ったらいいかね、われわれの――もう一回言うよ――その概念的に備えてる法則性じゃないものが入ってきてるから。でもそれをわれわれが認識するときっていうのは、われわれの概念の中でしか認識できない。だから、リアルに本当に来てるものと違うものとして、われわれは認識してるって考えたらいい。
 言ってみれば、だからいつもの例えで言うと、麻薬患者とか、ちょっとドラッグとかやり過ぎて幻影とか見ておかしくなってる人に対して、誰かが教えを説いてるようなものですね。それはつまり、その前に立ってる人がなんか素晴らしい教えを説いたとしても、そのドラッグでちょっと幻影に入ってる人にとっては、違うふうに聞こえる。あるいは違うふうに見えたりするわけだね。その自分の中の世界観っていうか、その自分の中の法則性で外のものを理解するしかないっていうかな。こういうところがあるんですね。

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