「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(14)
◎慈悲による怒りについて
はい、ほか何かありますか?
(N)いつもお世話になります。慈悲っていうところで今日はちょっと、慈悲っていうか四無量心って出たんですけども、まあよくいる仏教を会っている人のタイプで、「慈愛っていうのは人に対する厳しさだ」と言って、「慈悲の悲は人に対する優しさだ」っていう人達がいて、まあそれはそれでいいと思うんですけど、よくなんかふと思うと見かけるのは、頭ごなしに人を怒りながら教えていこうという、そういうパターンの人をよく見かけるんですけど、これってなんか言っていることは正しいんだけども、自分で見ててちょっとおかしいなって気付き始めてっていうか、そういう人が結構多いなっていうのを見たときに、「これってでも悪業にならないのかな?」っていうのがちょっとした素朴な疑問というか。自分が怒りを持って人を教えるというのは、ケースバイケースとしてあると思うんですけども、「どうなのかな?」っていう……。
あの、まず今なんか仰った、「慈愛は厳しさで、慈悲が優しさ」っていうのは、それは誰が言ってるのか知らないけど(笑)、正統的な教えの逆です、それは。逆に、もしそういうふうに定義づけるんだったら、慈愛は「優しさ」だね。で、慈悲が「厳しさ」です。なぜかと言うと、さっきから言っているように――慈愛っていうのはベーシックな話だから。みんなに対する愛の気持ちなわけですね。で、慈悲は実際に救わなきゃいけないから。だから厳しい方法もとらなきゃいけないときがあると。
で、ここからその質問の主旨に入るわけだけど、確かに、まあ怒りというよりは厳しいスタイルをとらなきゃいけないときもある。とった方がいい場合もある。でもこれはね、前に、ずーっと前に何かの勉強会でもあったけどさ、例えば子供を怒るときとかの話も同じでね。まあちょっと同じことを言うけど、子供を怒るときにね、よくあるパターンとしてはさ、「おまえ! こいつ!」――バーッて言ったあとに、「おまえのこと思って言ったんだよ」とか言うけど(笑)、子供は分かっているよね。「今怒ってたでしょ、本当に」と(笑)。ただカッときてただけでしょうと。つまりそれじゃ駄目なんです。
つまり、逆に言うとこの慈悲っていうのは大変なんです。大変っていうのはどういうことかっていうと、まず慈愛の場面で、本当にみんなが愛しくてたまらない。でも、愛しくてたまらないこの子を――この子っていうかこの相手を成長させるためには、相手に嫌われることも前提の上で厳しい態度をとらなきゃいけないときがあると。本当はとりたくない。本当はとりたくないけども、頑張って自分を鼓舞してとるんだね。だからここには一切怒りなんてないでしょ。怒りのフォームはあるけどね。頑張って頑張って頑張って、ちょっと大魔神みたいにこう「ウウウ」ってこうフォームを作って、「おまえ!」ってやるんだね。ここには何の怒りもない。だから逆に言うと、ちょっと演技しているっていうか。で、そうだったらいいんですけども。そうじゃなくて、感情が入っている場合、当然これは大きな悪業になるね。で、相手のためにもなりません。
じゃあ、どれだけ感情が入ってたら駄目なのか。目安としては百ゼロです。だからこれは一つのアドバイスとして言うけどね。例えば皆さんが、子供がいる人は子供を叱るときも、あるいは周りに対する愛の鞭みたいなことをやろうってときも、もし一パーセントでもエゴからくる感情、怒りや嫌悪が入っていたら、やらない方がいいです。それはただの言い訳になってしまう。だってそれは一パーセントと言いつつ実は五十パーセントぐらいのときが多いからね。だからちょっとでも入っていると思ったら、それはエゴの欺瞞だと。わたしはただのエゴの言い訳のために相手を怒ろうとしているだけだと。そんな資格はわたしにはないんだと。そのような気持ちにグッと戻ったらいい。
だから、この怒りで相手を救う、もしくはちょっと厳しいやり方で相手を救うっていうのは高度な方法になるんですけども、それができる人っていうのは、自分の感情を克服した人だって思ってください。感情が克服されてないのにやった場合は、当然それは大悪業になる。
じゃあ、「感情を克服した段階でやったら悪業にならないのか?」――あの、簡単に言いますけど、なります。でも菩薩は、それでいいって考えるんです。これがさっき言ったマンジュシュリーの話にも関わるけども。
だからちょっと話をまとめるとね、まずわたしは相手に対して怒りが全くないと。しかしここで相手に、怒りのフォームをとった方が相手が進むと。この場合はとるしかないと。で、そこで出てくる表面的なデメリットは、相手に嫌われるかもしれない。それからわたしは――少なくとも例えばですよ、厳しいことを言ったことによって、自分は口のカルマを積まなきゃ――実際これはあるからね。実際に、例えば相手への愛があったとしても喉は詰まります。厳しいことを言ったらね。
あるいは例えば、そうだな――ちょっと話がずれるけどさ、相手を引き上げるために嘘を言うことがあるかもしれない。この場合も喉が詰まります。
あるいは、まあ、こういう場合はあるかどうか分かんないけど、ミラレーパとマルパみたいにね、相手に対して実際に殴ったりとか――相手の修行を進めるためにね――殴ったりとか、あるいは相手の身体にダメージを負わせる場合がある。これも当然やった方はカルマを背負います。で、それでオッケーって考えてるんだね、菩薩っていうのは。で、これも、もう一回言うけども、言い訳になっちゃいけない。自分に本当は何か暴力のカルマがあって、相手を殴りたくて殴っちゃった、これはもちろん駄目だよね。ただの大悪業。相手もこっちも、ただ悪業と苦しみだけで終わってしまう。じゃなくて本当に智慧があって、智慧によって見て、相手に今厳しい態度をとった方がいいと考えると。本当は自分はそれは嫌だと。嫌っていうか心は向かっていないんだけど、でも智慧によってそのようなモードを取ると。で、それによって相手は進むけども、自分はカルマを背負うと。これは全くかまいませんと。わたしの思想として、理想としてはオッケーですと。ここまでいってるんだったらかまわない。
だからちょっとね、話をまとめるけども、一般的にいう愛の鞭、あるいは相手の成長のために厳しくする、っていうのは正しいんだけど、正しいんだけど、ここまでの極めたことを考えているんだったらいいってことだね。でもそうじゃない場合がほとんどだと思う。まあただ、それは人のことは分かんないからね。人のことは別に批判しなくてもいいんですけども、自分に関してはそのような感じでいたらいいと思う。
だからそうなると多分、ほとんどの場合は怒れなくなると思うよね。ほとんどの場合はたぶんエゴが混じったカッとくる怒りの場合が多いだろうから。
で、もう一回言うけどね、智慧によって状況を見なくちゃいけないんだけど、この智慧もまずわれわれ、ないよね。だから話が戻るけども、修行を進めなくちゃいけない。でも修行を進めていって、自分の感情もコントロールできるようになってくると、まあ変な話、そのある段階においては、そういうときは確かに来ます。そういうときっていうのは、今言ったちょっとミニマムな意味でね――まあマルパみたいにとかまでいかなくても、ミニマムな意味で、「ああ、ここはわたしは今、全然感情がないけども、ちょっとこの人、厳しく言ってあげた方がいいな」ってときは当然あるわけだね。本当は言いたくないと。言いたくないけど言わなきゃいけないな。――こういうのは、ミニマムな意味では皆さんもあるかもしれない。これは全く問題ない。これは涙を飲んで厳しくしてあげてください。そこで生じる自分の悪業っていうのは考えなくてかまわない。考えなくてかまわないっていうのは、カルマにはなるけども、それは菩薩としては喜びであるっていうかな。
『入菩提行論』にあるように、「菩薩は衆生のために働いて、喜びを持って紅蓮華地獄に沈む」って書いてあるね。これ変な話で、つまり普通でいったら、仏教、修行って幸せになるためにやっているんじゃないんですか?――でもシャーンティデーヴァが言っているのは、なんか帰結するところがさ、「これとこれこれ、これやって――喜びを持って紅蓮華地獄に沈む」とか言ってる(笑)。「紅蓮華」ってかっこいいこと言ったって地獄ですよ(笑)。つまり紅蓮華っていうのは赤い蓮華のように血が滴り舞い落ちる地獄っていうことだからね。そこに喜びを持って沈むと。つまり何を言っている分かります?――つまりすべては心です。みんなの修行が進むんだったらわたしは地獄に落ちてもいい、ぐらいの気持ちができた人にとっては、地獄さえも天に変わるんだね。その境地を目指しているから。だからそれを考えたら、ちょっと話を戻すけど、全部その理想どおり自分にエゴが入ってないと思えるんだったら、それでかまわない。でもなかなかそうじゃない場合が多いと思うんで、自分のことに関してはかなり念正智してやったらいいと思うね、厳しくしようと思うときはね。いいですか?
(N)ありがとございました。
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