「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第12回(7)
◎死が近い人たちのために
はい。じゃあほかに何か質問ありますか?
(S)ええと、だいたい今日のお話の中である程度答えが出ているんですけど、最近自分がふと現実に、まあ教えを実践しようという中で、ちょっと考えていることがあったので、改めて質問っていうか確認の意味で質問させていただきたいなと思ったんですけども。
ええ。
(S)まあお寺に勤めていて、そしてそのお寺で運営している認知症介護施設の方でもヘルパーさんとして業務しているものですから、日ごろ認知症の人達とも関わっていくと。で、もう先は長くない人達なので、まあ自分としては、自分で学ぶ能力もないしどんどん無智のカルマでもういろんなことが分からなくなってきている、中には暴力を振るう人もいるっていう中で、そういう人達にいかに接することが自分とその人達のためなのかっていうことを考えたときに、やっぱり、まあ単純にトンレンをやったりとか、またその中で教えを何か思い起こしては実践してみたりとか。
で、そういう中でそういう人達が、何か一つの徳を積むような機会をどうやったら自分は設けてあげられることができるんだろうか――例えばもう暴力的になっている人達だとか、一日中暴言を吐いている人達、こういう人達っていうのはもうこのまま死んでバルドに入っていったらどういうふうになっていっちゃうのかなっていうことを考えていったときに、まあ自分なりにこう慈悲の実践をしてみたりっていうことをするんですけども。それをなんというか、回向をするというか祈りと共に、「この人たちがどうか祝福を受けますように」っていうふうな気持ちでもやっているつもりですし、また自分の中でもいろいろ葛藤があってもそれと戦ってみたりっていう、本当に基本的に、結果的にその人達が何か、やっぱりこう大きな祝福を受けるように自分を役立たせてあげられるとすれば、やっぱりそれは自分自身の、同じように実践するのでもやっぱり自分の帰依の強さだとか、神々とのパイプの太さだとかっていうものをどんどんどんどん太くしていく、強くしていくっていうことが、結果としても相手にとっては大きな違いが出てくるのかな、っていうとこでふと考えることがあって、その辺をちょっと聞いてみたいなと思ったんですけど。
そうですね、あの、一つはまさに今仰ったように、そのような人達との関係の中で、SさんだったらSさん自身が、まあ今言ったようなことでいいと思うんだけども、例えばトンレンやるでもいいし、あるいはいかにみんなのためになれるかっていうことを考えてやると。
で、ここで一つ問題があるんだけど、まず第一段階で――第一段階ですよ。第一段階で、トンレンはみんなのためにはなりません。Sさんのためにはなります。あるいはそこでSさんが「さあ、みんなのためにわたしはいかにできるだろうか?」って思って菩薩の実践をすると。これはみんなのためにはなりません。Sさんのためになります。これは第一段階ね。
で、しかしよく考えたら、それで、もしSさんがそのような、まあ暴言を吐くようなその認知症の人達の中にいて、「さあ、みんなをどのようにしたら幸せにできるか」「どのようにしたらバルドで皆さんがよりよいバルドを経験できるようにできるか」ってことを考えながら奮闘しながら、あるいは自分の苦しみは置いといて、みんなのためだけに日々自分の修行を進めていたとしたら、まず第一段階で、何度も言うようにSさんの修行は進みます。っていうことは、みんなの徳になるよね。つまりその環境自体がSさんの修行を進めたとしたら、巡り巡って、結果的に彼らの徳にもなるっていうことです。
これはだからね、いつも言っていることだけど、そのような特殊な環境だけじゃないんですよ。みんな、だって――っていうのは人間は誰でも環境の中にいるから。社会の中にいるから。その社会におけるさまざまないろんな人々からの、まあいろんなその刺激っていうか、の中にいるわけですよね。で、それを自分がすべて神の愛だと考えて、自分の修行を進めることができたとしたら、それに関係した人達に徳が返ることになってしまうんだね。これがだから自分の修行によってみんなを巻き込むやり方ですね。これは一つ言えると思います。
だからその、これはだから根本的にっていうか、ベーシックな話ですけどね。今やっていらっしゃるようなのを増大させていくと。みんなのために、さあいかにわたしはできるかってことを考えながら進めることで自分の修行が進むことによって、みんなにもそれが返ると。これがまあベースだと考えてください。
これはもちろん、ただこれだけをひたすらやるだけでもとてもいいことだと思うね。
これはじゃあこれとしてね、何度も言うよ、これだけでもいいですよ。これだけでもひたすらやるでもいい。これはちょっとこれとして置いといてください。じゃなくて、直接的にその人達のために何ができるかっていう問題に、次は移行します。これはかなりケースバイケースです。ケースバイケースっていうのは、そのやる側――つまりSさん側の修行ステージとか、あるいは考え方とか、あるいはカルマにもよるし、あるいは相手の状況とかカルマにもよるんで、なんとも言えないんですけども。でもこれもベーシックな考え方からいうとね。例えば先が長くない人の場合、暴言を吐くと。で、それでSさんは修行が進むと。何度も言うようにね。で、それによってその徳が返るっていうのはいいんだけども、でも暴言はカルマになるよね。その場合、ある程度その、なんていうかな、いろんな――これもだからケースバイケースだからなんとも言えないけども、いろんな方法を使ってでも暴言を吐かせない、あるいは、悪業をいろんなかたちで積ませない努力も必要かもしれない。可能ならばね。
あの、結局のところ、ものすごく単純に言うと、さっき言った、自分が修行進めれば関わった人も進むっていうのはちょっと置いといて、直接的なことを言うならば、われわれがもしアプローチできるならばですよ、そういう人達に対してなさなきゃいけないことは、徳を積ませること、悪を積ませないこと、そして心を浄化することですよね。まあこれはお釈迦様の教えですけど。「徳を積む、悪を積まない、心を浄化する。これが仏教だ」とお釈迦様は仰っている。で、それをいかに相手に為させるか。だから自分ができる範囲で、相手に悪業を積ませない。できる範囲で徳を積ませる。この徳を積ませるっていうのも、だからこれはケースバイケースっていうかいろいろ考えるしかないね。うん。さっき言ったように自分が修行進めることで関わった人に徳を積ませる、っていうやり方でもいいんですけども、まあそうだな、なんとも言えないけどさ、何かの手伝いをさせるとかね。なんかのその、まあ自分がやっているような何か奉仕の仕事の手伝いをさせられるんだったらそれが一番いいけども。なんらかのかたちで徳を積ませられるんだったら最高だね。
あともう一つ言うならね、ちょっとこれもケースバイケースだけども――もちろん悪業が落ちた方がいいね。悪業が落ちた方がいいっていうのは、表面的にそういう人達を――そういう人達っていうのは、そういった病気の人達だけじゃなくてね、死が近い人。死が近い人の場合、表面的に別に安らがせない方がいいかもしれない。あの、これは前も言ったけど、あるチベットのお坊さんの話でね、そのチベットのお坊さんにある人が質問して、「安らかに、健康でね、まあつまり安らかに寿命が尽きて死ぬのが最高の死に方ですか?」って質問したら、そのチベットのお坊さんが笑ってね、「そんなことはない」と。「最高の死に方は、重病にかかって苦しみながら死ぬことだ」って言ったんだね(笑)。なんでかっていうと、もう死は――死っていうのはつまりその一切のカルマからいったん解き放たれ、そしてバルドに突っ込むと。だからもう死んだら、死んだらもう努力できないんだね。うん。だから死ぬ前にできるだけカルマ落とした方がいい。で、そのお坊さんは笑いながら「わたしだったら、死ぬ前はできるだけ癌とかにかかって苦しみながら死にたい」と。「最後の最後に徹底的にカルマを落として死にたい」って(笑)、笑いながら言ってて。で、その人は本当に癌になってね、本当に癌になって苦しみながら死んだらしいんだけど。でもそういう発想はあるんだね。うん。
つまりこの世っていうのは、ちょっとベーシックな話をすると、「肉体って何ですか?」って言った場合、カルマの受け皿に過ぎない。で、われわれはカルマ悪いわけだから、肉体が病気になるとかあるいは肉体が苦しむっていうのは、そのカルマが浄化される作業なんだから別にいいんだね。この肉体だけじゃなくてその人が、例えば――まあ例えば人生長いんだったらその長い中で、なんていうかな、ある程度の喜びとある程度の苦しみを経験しながら浄化していくって感じでいいわけだけども。もし先が短い場合はね、普通の考えとは逆で、――あの、本当のこと言うとですよ――まあ一応誤解を恐れずに言うけども、先が短いんだったら苦しませた方がいい(笑)。極端に言うとね。カルマを落としてあげた方がいい。ただここで問題は、それによって相手の心がちょっと濁っちゃう場合ね、これはまたちょっと別の問題が生じる。苦しませた方がいいとかいって――例えば例を挙げるよ。おばあちゃんが死にそうだと。「おばあちゃんいい転生するように苦しませるぞ!」とか言っていじめたりしたら(笑)、逆におばあちゃんが、心がいじわるになっちゃってね、「わしは死ぬ間際まで孫にいじめられて!」とか言って(笑)、
(一同笑)
すごい恨みを持ってね、「許さん!」みたいな(笑)。
(一同笑)
「化けて出てやる!」とか言って、それで死んだら最悪ですからね(笑)。それで死んだら最悪なんで、それは考えなきゃいけないけど。でもまあ、今言ってるのは考え方のベースの話。ベースの話として、苦しむことは悪いことじゃない。特にその死が近い場合ね。カルマは落ちた方がいいっていう発想がある。カルマ落ちた方がいいっていう発想、それからできるだけ悪を積ませないっていう発想、それから、まあ可能ならばだけども徳を積ませた方がいいって発想。
それからもう一つ、心の浄化ってとても難しいけども、あの、そうだな、例えばだけど神の御名を聞かせるとかね。あるいは詞章を聞かせるとかね。相手が理解できなくてもですよ。できなくても、まあ短いフレーズでもいいので、例えば真理の言葉を聞かせるとかね。これはこれで一つの努力になりますね。
つまりその、よくチベットとかではそうだけど、死んだあとに『死者の書』とかを読むわけだけど。あれも本当の意味で死者にどれだけ届いているか分からない。でも生きている間は一応耳では聞けるよね。だからまだ生きてて普通に会話ができる、まあ認知症とはいえ、まだある程度その脳にアクセスできる間に、できるだけ教えを入れてあげるっていうかな。相手が分からなくてもね。これは一つの地道な努力かもしれない。
はい。だからちょっともう一回まとめると、今二つのことを言いましたけど、まずベースの話としては、もうひたすら相手のためを思って、「相手のためにわたしは何ができるだろうか」と思っていろいろ世話してあげる。あるいはまあトンレンも含めて、自分の修行を進める。それ自体が、巡り巡って相手に善いカルマとして返りますよと。これはベースの話ね。
で、二番目の話は、そうじゃなくてもうちょっと表面的にいろいろ努力できるんだったらやると。つまり悪をできるだけ積ませないと。――あの、だからさ、この一と二ってちょっとある意味矛盾する場合もあるんだね。例えば相手が悪口言ってきた場合ね。悪口言ってきた場合、そうだな、それによって自分の修行が進む場合ね。その場合、相手に返ります。こういうメリットもあるんだけど、でも言わせないって方法もあるんだね。もし可能ならばですよ。だから言わせないんだったら言わせないことによって悪業を積ませないっていう表面的なやり方もある。でも言わせないことが可能じゃない場合、これは受け入れて自分の修行を進めると。これによって相手に徳が返ると。この発想ですね。
はい、そしてもう一回言うけども――じゃなくて表面的に悪を止めさせられるんだったらできるだけ止めさせる。若干、だから、この場合はひずみが生じてもかまわない。表面的なひずみが生じてもかまわないので、悪を止めさせる。特に先が短い場合ね。で、可能な範囲で善を積ませる。で、別に相手をいじめる必要はないけども、可能な範囲で相手のカルマが落ちるようなことを考える。そして可能ならば、非常に地道な方法としてマントラを聞かせるとか、あるいは教えを聞かせるとか、詞章を聞かせるとかいうことを行なうと。まあつまり、もうできる限りのデータを入れてあげるっていうかな――というのも必要だと思うね。
(S)はい。ありがとうございます。
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