「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第12回(1)
解説 スートラ・サムッチャヤ 第12回
はい。今日は『スートラ・サムッチャヤ』。
もう一回簡潔に説明すると、『スートラ・サムッチャヤ』、これはあの『入菩提行論』で有名なシャーンティデーヴァが――『入菩提行論』はシャーンティデーヴァの書下ろしですが、書下ろしではなくてもともとある経典を集めて、それをこう、組み合わせてね、大乗の菩薩道を説いたのが――まず膨大な形でそれを説いたのが『シクチャー・サムッチャヤ』、それをもうちょっとコンパクトに説いたのがこの『スートラ・サムッチャヤ』と言われています。
『入菩提行論』のね、一節にも、「まず『シクチャー・サムッチャヤ』は必ず見るべきである」と。「そこになすべきことと、なすべからざることが書かれてある」と。「あるいはまずは簡単に『スートラ・サムッチャヤ』を見よ」と書かれている。つまり『シクチャー・サムッチャヤ』はかなり膨大で、なかなかね、学ぶのが大変なので、まずはこの簡潔な『スートラ・サムッチャヤ』を学びなさいと書いてある、その経典ですね。
◎正法を修め取る四つの法
【本文】
プラシャーンティヴィニシュチャヤプラーテハ一リヤにもまたこう説かれる。
「もし四つの法を具足するならば、正法を修め取る。
①自らの安楽にとらわれないこと。
②他者に安楽を与えること。
③大悲の心を持つこと。
④法を求めることにおいて、これでよいと満足しないこと。」
はい。ここはですね、前からのずっと続きで「大乗を修め取る法」っていうテーマでいくつか経典を挙げてね、説かれているわけだね。
ここで修め取ると言われているのは、これは「摂取する」と表現されるんですが、つまり完全に身に付けるっていうことです。つまり例えば――例えばさ、ヨーガの世界ではこの人間の肉体を、食物の鞘、あるいは食物の容器っていうわけだね。これなんで食物の容器っていうかっていうと、まあ簡単に言うと食物でできているからです。当たり前の話ですけどね。つまりその、今日の、例えばお供物もそうですけど、日々ごはんを食べていると。このごはんが消化され、吸収され、われわれの肉体を作っているわけですよね。じゃあこの肉体ってなんなんだっていうと、食物の変形したものです、ある意味ね(笑)。食物が、食べ物がわれわれに吸収され――まあ人間の細胞は三年で入れ替わるとかいろんな説がありますけども、言ってみればこの数年間われわれが食べてきたもので体ができていると。当たり前の話ですけどね。これと同じように、われわれがいくら教えをたくさん学んでも、それが頭の上を上滑りしてはしょうがない。だからわれわれはさ、百科事典みたいになってもしょうがないんだね。百科事典みたいに暗記はしていると。でもそれが身に付いていないっていうのは、これはちょうど多くの百科事典の目録を持っているけども、それを全く理解していない人みたいなもんだね。理解するだけでも駄目なんですよ。知っているとか理解するって、それは頭脳の働きに過ぎないので。じゃなくて、「血肉にする」ってことです、まさに。食べ物が自分の血肉になっているように、教えが自分の血肉になっている。つまり、なんていうかな、法そのものになるっていうかな。
これは前から言っているけど、お釈迦様の遺言で、「君たちは法の相続者になれ」っていう言葉があるんだね。つまりこの「法の相続者」っていうのも、別にお金を相続するみたいに、「はい、じゃあこの経典をあなたに授けます」ってこんな薄っぺらい問題じゃないんだね。つまり、その人本人が、法の化身っていうか、法の体現者――「ああ、もう本当に法そのものですね」と。例えば「Sさんってもう仏教そのものじゃないですか!」って、みんなから「ダルマの化身ですか?」って言われるぐらいに(笑)、もう言うことなすこと、なんていうかな、行動から言葉から立ち振る舞いからね、「ああ、もうダルマそのものだ」って言われるぐらいになって、やっと修め取るとか、あるいは相続したってことになるんだね。だからそれくらい深い意味だと考えてください。だからここで言っている正法とか、あるいは大乗の法を修め取るにはどうすればいいのかっていうのはそういうことだっていうことですね。
で、もう一つここで「具足」っていう言葉が出てくるね。この「具足」も、この修め取るに近い言葉だと考えてください。ここでいう具足っていうのは、そうですね――これもね、まあ言葉の問題になっちゃうけども、まあ身に付けるみたいな意味なんだけど。例えば例を挙げるとね、そうですね――「ここにいる全員は日本語を具足している」とか、そういうことですね。日本語を具足してますよね? つまり日本語自体はもう考えなくても出る。あるいは考えなくても、例えば何かわれわれが思索するときのベースとして当然日本語で思索する。これは具足ってやつです。ただまあ例えばこの中で結構たくさん、ある程度英語ができる人がいるけども、たぶん英語を具足している人は一人もいないかもしれない。つまり本当にもう、なんていうかな、何気なく英語が出てしまう――例えばちょっと考えれば英語で組み立られる人っていうのはたくさんいるけども、もう普通に英語がこう思索のベースになるとかね、あるいは考えないでも普通に英語のフレーズが出てくるとか、英語をベースに何かを組み立てるのが普通になっているとか。これがまあ具足ですね。だからアメリカ人とかイギリス人とかは英語を具足していると。その意味での具足ね。
だからここで言っている具足っていうのも、これから書かれていることを単純に表面上やるっていうよりは、しっかりとそのような生き方を身に付けるっていうことだと考えてください。