「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(3)
◎自分の安楽にとらわれない大慈悲心
はい。で、二番目が、「また別の法もある。それは、自分の安楽にとらわれない大慈悲心である」――はい。これも簡単な言葉ですけどね。「安楽にとらわれない」――ここでいう安楽っていうのは、もちろん現世的な安楽もそうだけど、修行の安楽ってありますよね。つまり、ある程度修行を進めると、当然自分の心は安らかになり、そして、まあ修行によってはね、体も安らかになり、そして、なんていうかな、カルマも浄化されてくるから幸せになってくると。しかしもちろん菩薩っていうのは、自分のために修行してるんじゃないんだと。ね。自分がある程度心が安定していたとしても、何度も言うように、自分と縁のある多くの衆生が苦しんでるとしたら、それはもう菩薩にとっては苦しみ以外の何ものでもないと。それを考えることですね。これがまあ二番目のことですね。
それからこの「安楽にとらわれない」っていうのは、これはとてもやっぱりその、重要なことだと思うね。ここで安楽とか安らぎっていうのは、まあいろんな意味があると考えてください。うん。いろんな意味があるけど、まあ一言で言うと、「安楽にとらわれない」と。つまり、菩薩が安楽を求めたら終わりです。ちょっと厳しい言い方ですけどね。菩薩が安楽を求めたら終わりである。
わたしはよく、昔そういうことを考えたことがある。まあわたしも、もともとどっちかっていうと、安楽っていうかな……が好きな方だから。安楽って、いろんな意味の安楽ね。人生における安らぎとか、あるいは一時的ないろんな心の安定っていうかな。うん。でもそんなものを菩薩が求めだしたら、それはもう菩薩ではないと。ね。自分の心と戦い、あるいは衆生のために、自分だけではなく、周りのカルマを破壊するために戦うと。そこで多くの苦悩や、多くの心の、まあ、なんていうかな、乱れが生じるだろうと。それで当たり前なんだと。修行者っていうのはね。決して中途半端な安楽なんて――完全な安楽はいいですよ、もちろん。完全な仏陀の境地の安楽っていうのは最終的に求めなきゃいけないんだけど、中途半端な、ちょっと心が安定したとかね、ちょっとカルマが良くなって、いい状態になった――そんなのにとらわれてちゃ駄目なんだね。もっともっと、ね、進みたいと。もっともっと衆生に恩恵を与えたいと。そのために――まあだから、修行ってそういう意味では、自分の安楽を作っては壊し、作っては壊しの繰り返しだね。作っては壊すことによって、もちろん次の、さらに大きな安楽を得るわけだよね。そしたらそれも――壊すってわざと壊すわけじゃないんだけど、その安楽にとらわれないってことだね。とらわれずに自分の修行を進める。あるいは、衆生のために生きることをすると。そうするとそれによって壊れるかもしれない。でもその次に現われるのは、またより大きな安楽です。
これはまあこの中でまだちょっとピンと来ない人もいるかもしれないけども、まあそういうもんだと思ってください。