「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第六回(1)
解説『スートラ・サムッチャヤ』 第六回
はい。今日は『スートラ・サムッチャヤ』ね。
「また、同じくマンジュシュリーヴィクリーダには、次のような『菩薩の20の魔事』が説かれている」っていうところですね。そこからね。
はい。もう一回ちょっと基本的なことから言うと、この『スートラ・サムッチャヤ』は仏教の経典ですが、皆さんにね、いつも薦めてる『入菩提行論』、あの『入菩提行論』の著者であるシャーンティデーヴァの三部作の一つですね。三部作っていうのは、この一つ目が『入菩提行論』、もう一つが『シクシャー・サムッチャヤ』ね。この『シクシャー・サムッチャヤ』っていうのは――『入菩提行論』っていうのはシャーンティデーヴァの書き下ろしなわけですが、『シクシャー・サムッチャヤ』は、膨大なね、さまざまな仏教経典からいろいろ引っ張ってきて――まあつまり、あえて引用という形で、その菩薩行とはなんたるかをまとめた経典が『シクチャー・サムッチャヤ』です。
で、さらにそこからよりコンパクトに、非常にその、コンパクトな形で経典の引用をしつつ菩薩道をまとめたのがこの『スートラ・サムッチャヤ』っていうことになります。
はい。で、あの、「魔事」っていうところですけども、魔事っていうのは魔境と言ってもいいわけだけど、修行者がね、または菩薩が修行を進めてると、当然魔の働きがいろいろやってくるわけですね。で、それを修行者っていうのは非常に注意して対処しなきゃいけないわけだけども、それについていろいろ書いてあるわけですね。
はい。じゃあ読んでいきましょうかね。
【本文】
また、同じくマンジュシュリーヴィクリーダには、次のような「菩薩の20の魔事」が説かれている。
①解脱を求めるヨーギーが、輪廻を恐れている者に帰依したり、敬意を払ったりすることは、魔事である。
はい。まあじゃあちょっと一つ一ついきますと、「解脱を求めるヨーギーが、輪廻を恐れている者に帰依したり、敬意を払ったりすることは、魔事である」と。
あの、われわれがね、われわれっていうか、人が修行に入る動機には、仏教の教えではね、いくつかありますよって言ってる。
で、そうですね、現代的な意味も含めて言うならば、最も低級のっていうか初歩的なっていうか、最も低い段階の修行の動機は、「現世幸福」だと思います。現世幸福っていうのは、つまり日本の多くの仏教徒とかもそうだけども、「お金持ちになりたい」「いい結婚をしたい」、そのためにお寺や神社に行ってお祈りをすると。これはまあ一つあるわけですね。で、これが第一の修行の理由になります。これはもちろん、全く修行しないとか、全く神仏を信じない人に比べたらもちろんいいことなわけですね。現世的な目的があろうが、神や仏陀に心を向けると。これは第一の段階だね。
で、次の段階として「悪趣を恐れる」っていう段階があります。悪趣を恐れる。悪趣っていうのはつまり地獄・動物・餓鬼だね。つまり仏教にしろ、あるいはヒンドゥー教にしろ、われわれは今のままだとね、今のままのこのカルマが悪い状態だと、死んだら地獄に行きますよ、って説かれてる。で、あるいは「死んだら動物界や餓鬼界などの低い世界に落ちて苦しみますよ」と説いてる。で、もちろん最初はそんなことは信じないと。あるいはそんなことは迷信だと考える。しかし皆さんの心がクリアになってきて、そして智慧が高まってくると、なんとなく信じられるようになってきます。
これは非常に重要な問題でね。重要な問題っていうのは、もちろんその、もともとカルマが良くてね、カルマが良くて小さいころからそういう教えを受けてね、最初から観念的にでもそのような発想がある人はそれでいいんだけども。そうじゃなくて、この、なんていうかな、カルマの法則もそうなんですが、カルマの法則、あるいは死んだらちょっと今のままではまずいかもしれないぞと。まあ実際にどういう世界かは別にして、低い世界に落ちる危険性が非常に高いぞっていうことが、なんとなくうっすらと分かってくるんだね。
これはわたしの経験でも言うけども、なんていうかな、今言った、心の純粋さ、あるいはヨーガ的にいうならばサットヴァといわれるものが強まることによって分かってくる。これはだから論理的なものじゃないんだね。
ただもう一つ言うと、また別の観点からいうと――まあこれも関係あるっていえば関係あるんですが、われわれの人生経験が増えてくるとね、人生経験が増えて、しかもそれを、ごまかしてたりとかしてたら駄目だけども、ありのままに自分の人生を見つめて、で、もちろんそこで教えの実践もあれば最高だけども、教えがまだ実践できてない場合は、自分の人生から逃げずに自分の人生を見つめながら生きていると、やっぱり苦しいって分かってくる。つまりこの人生には苦しみがいっぱい隠れてるなと。
あの、わたしはいつも言うように若いころから修行生活に入ったわけですけども、でも、若いころっていうのはやっぱり、なんていうかな、無鉄砲であまり恐れを知らないと。で、もちろん人生経験もあまりないと。で、まあ、とはいえわたしもいろいろこう――いつも言うように中学校のころに一時期ね、いじめられたこともあるし、それから肉体的にもいろんな――わたしさ、よくさ、人から質問されて、「先生って病気しないんですか?」って言われて、「いや、わたし子供のころからすごい健康でした」って言ったりするんだけど、よーく考えると結構病気してたね(笑)。
(一同笑)
結構病気してて。あんまり気にしてなかったら忘れてたんだけど、結構一時的に――喘息もわたしひどかったしね、一時期ね。喘息もひどかったし、肺が、カルマ――胸のアナーハタが詰まってたのかもしれないけど、肺炎みたいな感じになったこともあるし。前にもいろいろ皆さんにも言ったんで端折るけども、修行の浄化としていろんな肉体的苦痛に悩まされたこともある。そういった肉体的苦痛、あるいはさっきのいじめられるとかの精神的苦痛、あるいはもちろん大人になってからも――まあわたしも一応ね、仕事とかもしてたから、そこにおけるいろんな精神的ショックを受けたりとか、そういうことはよくあるわけですよね。
で、わたしはよくね、そういうのを経験したときに、心に刻み付けようとした。刻み付けるっていうのは、自分の性格上ね、「これ、すぐ忘れるな」っていう感じがしたんだね。今苦しいけど、たぶん忘れるだろうと(笑)。それは別にいいんだけどね。性格としてはそれでいいんだけど、しかしこれはちゃんと覚えておいた方がいいと。つまり人生っていうのは、そもそもこういう苦しみに満ちてると。ね。人間っていうのは、心理学的な最近の研究で言われてるそうだけど、過去のことのうち六割はいいことを覚えているって言われてるんだね。うん。それはみんなが肯定的って意味じゃなくて、たぶんね、わたしの考えだと、六割ぐらいはいいことで頭占めとかないと、やってられないんだと思うね、この人生ね(笑)。この人生まともに生きてたら、特に皆さんみたいに教えとかがなくてね、教えもなく人生の指針もなくまともに生きてたら、苦しくてやってらんないと(笑)。だから六割ぐらいは――つまり逆にいうと、結構苦しいことは忘れるようにできてる。人生、「いやあ、わたし苦しかった」っていう人もいるだろうけど、それでも結構忘れてると思います。もっと苦しかったはず。その苦しみの渦中にいるときっていうのは、もうとんでもないと。
わたしもね、一般的な苦しみとは別に、修行してるとさ、カルマ落とすときのすごい苦しみもあるから、わたしは――これも皆さんには言ったかもしれないけど、わたしは今まで何回も自殺を考えたことがあります、実はね。自殺を考えたっていうのは、人生にこう、なんていうかな、人生をあきらめて自殺しようとしたとかそういう意味じゃなくて、もう苦しすぎて(笑)。苦しすぎて、「もう耐えられない!」って感じで。それはほとんど精神的な苦しみなんだけどね。精神的な苦しみがもう苦しすぎて、本気でね、自殺を考えたことすらある。で、それくらいこう苦しむんだけど、でもそこを脱出したときにはやっぱり忘れてるんだね(笑)。頭では「ああ、苦しんだな」って覚えてるんだけど、そこまでのやっぱりフィーリングってもう忘れてるでしょ? 「もうあのときのすごいあれ」って忘れてるから。で、わたしはだから自分でそれ、「あ、忘れるな」って思ったから、こう刻み付けるようになったね。こう、苦しいときっていうのはね。こんだけ苦しいんだぞと。
で、ちょっと話を戻すと、そういうことをちゃんと人生の中で逃げずに受け止めつつ生きていると、まずこの人生における苦しみっていうのは当然分かってくる。この人生ってちょっととんでもない何かが隠れてるぞと(笑)。ね。われわれはほんわかとごまかしつつ生きてるけど、実は相当な罠が仕組まれてるぞと。で、そのさらに背景として、この人生を超えたね、つまり今言った地獄であるとか、輪廻そのものの隠されたとんでもない苦悩っていうものが、うっすらと直感的に分かってくるんだね。これはもう一つの角度から言ったことですけども。
まあもう一つ挙げるならば、もちろん、なんていうかな、論理的な分析でもかまわない。論理的な分析っていうのは、もちろん「輪廻があるかないか」っていうのはもちろん分析は不可能なんだけど。でもね、正確にこれも智慧をもって分析すれば、必ず「修行」っていう結論にたどり着きます。なぜかというと――まあちょっと簡単に言いますよ。これは皆さんそれぞれで分析したかったらしたらいいと思うけども。簡単に言うと、まず「わたしはこの修行の道、あるいは仏陀とか、あるいはヒンドゥー教的な聖なる教えに対して信を持ってるんだろうか、持ってないんだろうか?」と。まあ、曲がりなりにもなんとなくでも信をもって今、教えを学び修行をしていると。で、そのお釈迦様にしろ、あるいは多くの聖者方にしろ、そのカルマの法則、あるいは輪廻転生、そして今のまま死んだらまずいぞっていうことをひたすら説いていらっしゃると。それ、本当だろうか、嘘だろうか?――と。もちろん今のわたしには全く分からないと。ね。経験がない、まだ瞑想が進んでないのでよく分からないと。
ところで、じゃあ人間は死んだらどうなることが考えられるだろうか?――と。それはいろいろ考えられるよね。死んで本当に「無」ってことも考えられる。あるいは死んで、そうですね、まあある種の宗教で言うように、死んだら全員が天国に行くっていう可能性もある。可能性ですよ。あの、分かんないわけだからね。分かんないことは可能性はなんでもある。死んだら必ず、なんていうかな、死とともに解脱するっていう考えもあるかもしれない。まあいろいろあるでしょうと。で、その中で、死んで――いいですか?――誰でも本当に天国行くんだったら、もしくは死んで「無」になるんだったら、われわれは特に生きる上で努力必要ないよね。善いことをしようっていう必要もないし、悪いことをしてはいけないっていう必要もない。修行しようっていう必要もない。
わたしよくここ疑問なんだけどさ、よく巷の人で「来世はない。しかし善を行なう」っていう人いるよね。これはわたしから見たら、わたしがちょっとけがれてるのかもしれないけど、非常に欺瞞的に見える。来世ないんなら、ね、好きなようにやりゃあいいじゃんと(笑)。つまり人間っていうものが、本当に偶然生まれた有機体っていうかな、偶然生まれた細胞の組み合わせによって脳というものがこのわたしの心を作り出してるっていうんだったならば、じゃあいいじゃんと。好き勝手やって、飽きたら死にゃあいいじゃんと。ね(笑)。思うんだね、わたしはね、実は。でも、そう言いながらみんな、なんとなく心から浮き上がってくる善を行なうと。ちょっとそれは矛盾があると。
でもまあそれは置いといて、仮に死んだら終わりなら、あるいは仮に死んだら全員天国に行くならば、まあそれはそれでかまわないと。修行しようがしまいがね。で、問題は、お釈迦様その他の聖者の言葉が正しかった場合が問題なんだね。つまり本当に今死んだら地獄だった場合、これは最悪でしょ(笑)。これで修行しなかったらもう目も当てられないっていうか。なんだったんだってなるよね。われわれはせっかく真理というものに巡り合ったのに、ちゃらちゃらしてお釈迦様のこと信じないで、死んだら本当に地獄に落ちちゃったと(笑)。なんだったっていうことになるよね。
つまり、ここまで言ったら分かると思うけども、分析的に考えるならば、修行することによって生じるデメリット、ゼロ。メリットは大きいと。輪廻があった場合ね。修行しないことによって生じるデメリットは非常に大きいと。あの、輪廻があった場合ね。で、修行しないことによるメリットっていうかな、それはないっていうか。もし輪廻がなかった場合、その、修行しなかったから疲れないで良かったとかあるかもしれないけど(笑)。
(一同笑)
まあその程度のことだね(笑)。その程度のもんであって、つまりどっちにしろ修行したら――じゃあまたもう一回言うと、修行した場合――修行した場合、何も無しか救われるかどっちかです。修行しなかった場合、何も無しか地獄かどっちかです。だったらした方がいいよね(笑)。つまり分かんないんだったらした方がいいっていう考えだね。
で、これがなぜ成り立つかっていうと、本当に分かんないからです。修行しないとね。瞑想すれば分かるけども、修行してない場合、全く手がかりがない。
あのさ、死後の世界ほど手がかりがないことってないよね。ほかのことってだいたい手がかりあるじゃないですか。「うちの旦那さん浮気してんのかな?」っていった場合、例えばポケットからキャバクラの名刺が見つかった場合ね、可能性はあると(笑)。
(一同笑)
しかし付き合いで行っただけかも、とかね。いろいろこうあるよね。つまりそういう類推はできるわけだけど。死後の世界に関しては、もう一回言うけども、類推不可能。なんでかっていうと、死んでみないと分からないと。ね。死んでみないと分かんないし、死んだらやり直しはきかないと。
もちろんもう一回言うけど、皆さんが修行し、バルドのヨーガ、つまり死後の世界を経験するサマーディとかを経験すれば、それは経験としては分かるね。でも、それは本人が分かるだけであって、それを例えば――例えばわたしが経験して、皆さんにそれを説いたとしても、皆さんにとってはただの言葉だから。ただの情報にすぎないから、本当の意味で確信にはならないよね。だからこの全くその類推不可能な死後の世界、あるいはカルマの法則っていったものに対して、まあ今言ったのは分析によって、だったら――つまりもう一回言うけども、修行したならば、それはノーリスクハイリターンであると。修行しなかったならば、ハイリスクノーリターンであると(笑)。だったらした方がいいよね。――っていう発想なんだね。うん。
で、それは分析なんだけど、実際にはね、こんな分析なんていらないんです、皆さんみたいな人は。なぜかっていうと、もう一回言うけども、心を純粋にし、心を仏陀に合わせ、心を神に合わせ……してると、まず第一としてですよ、第一として、なんとなく分かってきます。「ああ、これ本当だな」と。
で、第二として、第二番目として、純粋な信仰とか、あるいは尊敬の気持ちがあれば、当然信じようとするよね。信じるというよりも、当たり前っていうか。例えばもし皆さんが――皆さんがっていうか仏教徒がここにいたとしたならば――「わたしは仏教徒である」と。当然お釈迦様に対する素晴らしい心からの尊敬の心があると。で、お釈迦様が言ってるんだったらそうだろうと。この、なんていうか単純な感覚っていうかな。だからちょうど子供が、よく何もわかってない三歳ぐらいの子供が、お母さんが言うならそうだろうと。ね(笑)。これくらいの純粋なっていうか単純な感覚ね。これはだから皆さんは可能だと思う。
皆さんは可能だと思うって言ってるのは、つまり――これいつも言ってるけどさ、現代のね、とても悪いところとして、現代人、特に現代の日本人っていうのは、疑いを持つこと、あるいは論理をこね回すことが優れているっていう、こう錯覚をしている。だからわたしはネットとか見ててもそうだけどとても驚くのは、自称仏教徒の人達までが、例えばお釈迦様が説いた輪廻やカルマの法則や、あるいはその他の教義的なことに対して非常にこう疑念を持ってるんだね。「それは本当にあるかどうか分かんないよ」と。「いや、お釈迦様は輪廻とかを方便で説いたんだ」とかね、適当なことみんな言ってらっしゃると。
もう一回言うけども、もっと単純でいいと思うんだよね。「あなたお釈迦様好きですか?」と。「好きです」と。「お釈迦様信仰してますか?」と。「いや、素晴らしい大聖者だと思ってます。」――じゃあ信じりゃいいじゃんと(笑)。「じゃあお釈迦様が言っていらっしゃるんだから、それはそのまま受け取ればいいじゃないですか」と。そういう単純な発想が必要だと思うね。