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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第八回(5)

◎ミラレーパとある僧の例

 はい。で、この最後のところは――「またある菩薩は云々」ってやつね。これはちょっと特殊なパターンなわけですが、そうですね、もうちょっと時間もなくなってきたので簡単に言いますけども――これはちょうどミラレーパの話の――ミラレーパとその当時有名なお坊さんとの話、エピソードをちょっと思い起こさせるね。
 つまりこういう経典が作られた時代っていうのは、当然大乗仏教とかが発達してきて、いろんなタイプの修行者が出てきてる時代だったんだね。ミラレーパとそのお坊さんのエピソードっていうのは、まあ非常にみんなから尊敬されてるお寺の住職みたいなお坊さんがいるんですね。この人は学問的には非常に優れていて、で、お寺の住職だからみんなから聖者扱いされて――なんとかリンポチェとか呼ばれたのかもしれないけど、みんなからすごくお布施を受けたりとか、尊敬を受けてるわけですね。で、逆にミラレーパっていうのは、どこのお寺にも属していない。で、山から山を放浪して、で、真っ裸でいる。で、なんていうかな、人々に有名な経典とかを説くわけでもない。ただもう、心から浮いてくる「ドーハー」っていう悟りの歌を歌うだけであると。
 で、これは完全にミラレーパは大聖者なわけですけども――つまり、なんていうかな、まさにここに書かれてるように徹底的に――まあミラレーパの誓いって素晴らしいよね。ミラレーパの誓いっていうのは、「もし一瞬でもわたしの心が真理から外れ、世俗に向かうようならば、わたしの命を絶ってください」っていうふうに神々にお願いしたんだね。で、そうして修行生活に入るんですね。その悲壮な覚悟で修行生活に入ると。で、まあちょっとさっきの大山倍達と似てるんだけど、山の中で洞窟で暮らしててね、やっぱり食料がなくなるから、食料がなくなったら人里に下りていってね、托鉢をするわけですけども。しかしやっぱり自分の心が弱いから、人里に行くとやっぱり人恋しくなってしまうっていうことに気付いた。そこでミラレーパは「完全なる悟りを得るまでは、わたしは決して山を下りない」って誓ったんだね。で、山を下りないって誓っちゃったから、もう食料がなくなっても下りられない。で、どうしたかっていうと、まあ有名なね、イラクサっていう、洞窟に生えてた食用じゃない草、本当は食べちゃいけない草。ね(笑)。それを集めて、それを煮込んで食べてたんだね。で、あの『ミラレーパの十万歌』の最初のエピソードにもありますけども、まあミラレーパにとっては、はっきりいうと、彼にとっての財産はそれだけだったんです。財産っていうのは、イラクサを煮る鍋があったわけだけど、それだけが彼の財産だったんだね。彼のたった一つの財産だったんですね。で、イラ草だけを食べてた。
 で、あるとき、ミラレーパが薪を集めに洞窟から出てきたらね、すごい風が吹いたっていうんだね。それで風が吹いて、で、着ていた――まあボロきれなわけですけども、ボロきれが風に飛ばされそうになったと。で、その風に飛ばされないように押さえると、手に持っていた薪が飛ばされそうになると。薪をなんとか飛ばされないようにすると、服が飛ばされそうになると。で、こんなことやってるうちに、ミラレーパはハッとするんだね。「わたしは一切を放棄してここに来ているのに、まだこんなものに執着してる」と。ね(笑)。つまり、ぼろきれと薪ね。一切――つまり、多くの人が執着してるような財産とかおいしい食べ物とか、そんなものは捨てたんだけども、でも残ったこの粗末なボロきれと薪、「こんなものにわたしは執着してる」と。「なんなんだわたしは」と。
 つまり人間の心って、やっぱりそういうところがあるんだね。ある限定的な条件に追いつめられると、今度はその中で良し悪しを探すわけですね。これはだから永遠にきりがないんです。で、ここでもう完全に、放棄しなきゃいけないと。で、それに気付いて、ミラレーパはそこでハッとして、すべてを放棄したっていう話がある。
 で、そのようにして、もう徹底的に真剣に悟りを追い求め、菩薩の道を追い求めて、大聖者になっていったわけですね。でも見かけは、もう本当にみすぼらしい裸の行者であって、どこのお寺の系統にも属していないと。で、あの、なんていうかな、正統的な教えを説いたりするわけでもないと。しかし、もし本当に心が澄んで、謙虚で、ある程度智性がある人が見たら、もうこんな、ミラレーパほどの大聖者が今の現代にいるだろうかって尊敬すると思うんだね。でもこのお坊さんは、もともとは素質があったのかもしれないけども、与えられた地位や名誉にもう完全にもう頭がおかしくなってる。「わたしはこの偉大な大きな寺の一番のトップである」と。「みんな多くの信者方が寄ってきて、教えを聞かせてくださいっていつもやってくる」と。「多くの布施を受けてる」と。で、「代々伝わる、正統的な教えを人々に説くことができる」と。「わたしこそが現代における偉大な聖者なんだ」って、こう慢心に陥ったわけですね。で、こうなると、自分とは違う、全然正統的ではないが苦行に励んでる人たちを、馬鹿にするようになる。あるいはけがらわしく見るようになってしまうんだね。そしてこの僧はミラレーパの素晴らしさがわからず、ミラレーパのことを憎むようになり、最後はなんと毒殺しようとまでするわけだけど。
 こういうパターンの世界っていうのは、いつの時代もあったんだと思う。まあシャーンティデーヴァとかもね、本当は大聖者だったわけだけども、すごく頭の固いっていうか、その当時の学者的な僧院のね、僧たちには全く理解されずに、怠け者扱いされてたわけですけども。で、最後に空中に浮かんで『入菩提行論』を説いて、みんなの心を変えたわけだけども。そういうものっていうのはいつの時代にもあると思うんだね。うん。その、本物がなかなか理解されないっていうか。
 だからそのタイプの魔に対する、ここは戒めだね。つまり一見自分は正統的な道を歩いてるように見えると。しかし、実際は自分こそがそのような罠にはまってる者であって、それによって、非常に苦行を行なってる者、あるいは自分を捨てて、自分を犠牲にして菩薩の道を歩んでる者のことが、正しく見れないっていうかな、それがまるで悪いもののように見えてしまう。こうなったらもう最悪ですけどね。
 それもでも、なんていうかね、さっきのミラレーパの話に出たお坊さんもそうだけど――さっきも言ったように、その人だって最初から悪人だったわけじゃないと思う。だってその有名なお寺の住職にのぼり詰めるような人だから。多分若いころは真剣に道を求めてたと思うんだね。うん。あの、別に住職が悪いってわけじゃないよ。もちろん住職になって、お寺のトップになって、その地位を利用して多くの人を救うことができたら最高ですよね。しかしそれが神から与えられたものであり、本当はわたしのものではないが、神がわたしを道具として使うためにこの地位とお金と、あるいは多くの信者を与えてくれたんだってその人が謙虚に考えるんなら問題ないんだけど、何度も言うように、やっぱりそこに魔事が働いちゃうんだね。ちょっとずつとらわれていって、「おれはすごいんだ」と。で、その、なんていうかな、自分の価値観――例えば「みんなを救う」ではなくて「いかに信者を増やすか」とか、「いかにおれが尊敬されるか」とか、そっちの方にちょっと価値観がシフトしてしまうんだね。で、こういうふうに段々分かんなくなってしまう。こういうものに対する、これは戒めですね。

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