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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第八回(4)

◎理想から一ミリもずれない覚悟

 はい。じゃあ次は、「崇高なパーラミターという目標を見失い、容姿や財産や従者などの世俗的な価値にプライドを抱くならば、そこにも魔事は働く。」と。
 これもまあ同じようなことですね。「崇高なパーラミター」っていうのは、これは大乗仏教における六波羅蜜の話ですけども――この六波羅蜜じゃなくてもいいんだけども、われわれの、これも理想ですね。われわれが歩むべき道の理想がある。で、それを見失い、容姿や財産や従者などの世俗的な価値にプライドを抱くならばっていうのは、これはさっきから言ってるように、その徳によって、あるいはカルマによって、修行してると、いろんなものが身に付いてきたりすることがあるわけですね。
 例えば容姿って書いてあるけども、これもわたし、いろんな人見てきて思うけども、まあやっぱり女性も男性も、修行するとかっこよくなる。かっこよくなるっていうのは、実際に形状がかっこよくなる人もいるし、形状は変わらないんだけども、ちょっと魅力的になったりする。そうなると男女関わらずもてるようになるし、あるいは人間的な人気も出るようになる。例えばね。
 あるいは財産が増えたりとか、あるいは、そうですね、まあ修行上でもそうですけどね、修行上において、ちょっと人から褒められるようになったりとか、いろいろその、なんていうかな――つまり、現世を捨てて「神だ!」とか言ってても、実際には現世的なメリットもたくさん出てくるんですね、修行においてはね。
 これはいつも言うように、ご褒美であると同時に罠なんです。ご褒美であって罠であると。それを全部「ご褒美いらない」っていうのもいいんだけど、別にご褒美はご褒美でもらっておいてもいいわけだけども、そこに決してとらわれてはいけない。
 しかし、ここに書いてあるように、とらわれがちなんだね。最初は「ああ、こういういい要素が身に付いてきた」と。「でもわたしはそれにとらわれませんよ」って感じなんだけども、だんだんだんだんそれにとらわれて、で、逆にそれを失いたくないと思ったりね。あるいはそれをもっと増大させたいと思ったりとか、そういった方向に価値観がいつの間にかスライドしてしまう。いつの間にか現世的価値観の方に軸がおかれてしまうと。これはまさに魔事なわけだね。
 これもだから何度も言うように――まあ、これも最初に言った話で全部解決するんですけどね。最初に言った話っていうのは、「理想を忘れるな」と。ね。理想を忘れない。で、一日何百回でも考えてください、理想をね。例えば「わたしはこうだ!」と思ったら――「わたしは神のしもべなんだ!」と。ね。「神のしもべに」の歌にもあるように、「ラーマが言ってる」と。ね。「わたしの心の中でラーマが、神のしもべになれと、決して忘れるなと言ってる」と。「だからわたしはその道しかないんだ」と。ね。あるいはもっと具体的な何か理想がある人は、常にそれを考える。「わたしはここからずれないぞ」と。「一ミリもずれないぞ」と。「ちょっとぐらいいいか」じゃなくて、「完全なる理想を追求し続けるんだ」と。
 さっきも言ったように、カルマによってバーって失敗しちゃう、これはしょうがない。そしたらまたすぐ戻せばいい。戻して、「決してこれからずれないぞ」と。
 いいですか? もう一回言いますよ。「一ミリもずれないぞ」と。ね(笑)。「完成体を目指すぞ」と。
 で、つまり何を言いたいのかというと、「一ミリもずれないぞ」って思ってても、カルマによってちょっとずれたりします。っていうことはね、「まあできるだけ頑張るか」なんて思ってたら、超ずれます。そんなもんなんです。「まあできるだけ僕は頑張りますよ」と。「この理想をできる範囲で頑張ります」――こんなこと言ってる人は、いつの間にか魔にやられています。じゃなくて、常に二十四時間、瞬間瞬間――だから前から言ってるけど、修行者っていうのは、緊張しててかまいません。よく精神世界の人ってそういうの嫌いだから、「いや、力を抜いて」とかね、「リラックスして」とかよく言うんだけども、それはもう完全に、なんていうかな、それこそ魔事です。緊張してかまわない。もうガチガチに緊張してください。まさに、例えば『入菩提行論』とかでシャーンティデーヴァも言うように、油のみなぎった……つまり、入れ物にね、油がタプタプになってて、ちょっとでもバランスが崩れれば油が落ちてしまうと。で、それを監視員がいて、「ちょっとでも油を落としたら殺すぞ」と。ね(笑)。この状況で、すごい集中して歩いてるように、こういう男のように日々生きろと。
 「ちょっとでもわたしは理想からずれてないかな?」――もう緊張してかまいません。ガチガチに緊張して――もちろんそれが慣れてきたら緊張ではなくて、自然なかたちで念正智ができるようなったらいいわけだけど。でもそこまでまだいってない場合は、緊張してかまわない。ガチガチに緊張して、自分をチェックして、一瞬も自分を理想からずらさせないっていうか。それくらいの心持ちが必要なんだね。で、それでもずれるから。
 だからもう一回言うけども、最初からちょっと自分に甘く、「これぐらいできればいいかな」なんて思ってちゃ、全然駄目です。結果がね。だから、自分が、「完全にその理想と一ミリもずれない状態で、日々い続けるぞ!」 と。この心構えがスタートとしては大事だね。
 はい。まあこのへんはね、ずうっと同じようなことが続くわけだけどね。この間インターネットにもちょっと書いたけど、私の、こないだ――見た人もいっぱいいるだけろうけど、ふと思い出した話でね。わたし、前から言ってるけど、中学生のころに小説のね、『宮本武蔵』を読んで、すごい感銘を受けて、そこからヨーガの世界に入っていったわけだけど。まあ実際には、その、何かにも書いたかもしれないけど、宮本武蔵ともう一つ、空手の大山倍達って人がいて。でね、この人が宮本武蔵が好きだったわけだけども。で、この本のつながりでヨーガをやることになったんだけど。で、この大山倍達の――大山倍達ってまあちょっと時代が違うので、皆さん知らないと思うけども。わたし小学校のころに――まあわたしの時代でも再放送だったんだけど、テレビでね、「空手バカ一代」っていう漫画があってね(笑)、みんな知ってるかな? 「空手バカ一代」っていう漫画がやってて、それが再放送――まあ昔の漫画でね、再放送だったんだけど、うちの小学校で超流行って。で、わたしも好きだったんだね、その「空手バカ一代」がね(笑)。それ漫画もあるんだけど、それはその大山倍達さんっていう空手家の、まあ実話をもとに、いろんなフィクションが混ざった漫画なわけだけど。で、わたしそれが好きだったので、その漫画とか、大山さんの伝記とかよく読んでたんだけど。で、その中で、この大山っていう人は、まあ修行時代にね、まあ合計三年くらいっていったかな? 三年ぐらい山籠もりしてるんだね。もう相当な修行者みたいな人で。山籠もりして、たった一人で――山籠もりって今みたいにすごい豪華なキャンプをするんじゃなくて、本当に自分で建てたような掘立小屋で、山の中で何もないところで三年間ぐらい修行してたっていうんですね。そのときに自分との闘いで、「決して山を下りない」って決めたわけだけど、やっぱり人恋しくなると。あるいはまあ若い男性だから、性欲とかもいっぱい出てくると。で、その自分に勝つために、眉毛を半分剃ったっていうんだね(笑)。半分剃りましたと。で、片方の眉毛だけになった。つまりこんな姿になったら、希望なくなるじゃないですか(笑)。つまり、人恋しいっていったって、人里下りたらちょっと変人扱いされるし。女の子だって寄ってこないだろうし(笑)。まったく自分が人里に下りて、楽しむとかいう希望をゼロにしたんですね、この眉毛を半分落とすことによって。で、それで空手修行に励んだわけだけど。でも数週間も経つと、また眉毛が生えそろってくるわけです。で、そこで大山さんは、また再び切り落とすと。で、まあそれを繰り返すわけだけども、そのときの心情っていうかな――まあ自分に言い聞かせたと思うんだけども、そのときの自分の心情を言った言葉として、「まともな姿をしてるから、まともな感情が湧いてくるんだ」と言って、ガッて剃ったんだね(笑)。これがわたし、子供心にすごく好きで。何がかって言うと、わたしが多分そのころから修行者的な意識があったんだろうね。つまり、「まともな姿をしてるから、まともな感情が湧いてくる」って言って眉毛を半分剃るっていう発想ね。「これいいな」と思って(笑)。
 これはね、今日の話にもちょっと通じるところがあるんだね。つまり何かっていうと――そうだな、よくさ、例えば仏教とか、ヒンドゥー教もそうだけど、頭を剃りますよね、修行者って。特に――まあ女性もそうか。男性も女性も頭を剃るわけだけど。あるいはタイとか一部の仏教国では眉毛も実際両眉剃るわけですけども。例えばそうやって、まあいろんな意味があるけども、髪の毛は煩悩が入ってるという考え方もあるので、そういうのもあるだろうし、あるいはそういう、なんていうかな、自分の容姿にとらわれないっていう意味もあるだろうし。まああるいは単純にお釈迦様が剃ってたからっていうのもあるかもしれないけども、例えば頭を剃り、あるいは昔の出家修者みたいに、ボロ布だけをまとってる修行者がいたとしてね。で、この間も言ったけど、シャーンティデーヴァが言うように、盗人も奪い去らない衣を着ける。ね(笑)。泥棒が来ても持って行かないような汚い、臭い物だけを羽織って、頭は丸坊主で、で、本当に質素に生きてる人がいたとしてね。でもこの人がですよ、例えばなんらかの事情で髪を伸ばし始めたとする。あるいはなんらかの事情で、汚い服じゃなくて、いい服を着るようになったとするよ。まあ事情っていろいろあるだろうけど、例えばその人が日本に来日して教えを説かなきゃいけなくなってね。「日本ではやっぱりボロ布じゃ駄目だから」って言って、日本のお寺の人がきれいな袈裟を用意してくれたと。ね。あるいは、まあ日本なんで風習にも従わないでね、ちょっと頭もセットしたと。仮にね。仮にだけどね。あるいはいろんな世話をしてもらって、いろいろ撮影のためとか、いろいろめかしこみ始めたと。このスタートは、まあ必要性があってっていうことだったかもしれない。しかしそこでその人は、「ああ、もうちょっとかっこ良くなりたいな」とか、あるいは例えば褒められたりしたら、「ああ、もうちょっと褒められたいな」とか、あるいは、「いや、もうちょっとおれは結構いけるぜ!」とかね(笑)、思いはじめたら、どんどんそこに巻き込まれていくわけですね。つまりまともな世界――はっきり言ってそれはまともな世界ですよ。うん。「ああ、まともな服着てますね」と。「ああ、まともに髪セットしてるじゃないですか」と。ね。あるいはまともに――まあ現代では、まあちょっとわたしは今あんまりまともじゃないけど(笑)、こんなボーボーとか、ボーボーに髭伸ばしたり、髪伸ばしたりしてるとちょっとまともではない。でもそうじゃなくて、現代では例えば修行者にしろ、あるいは宗教家にしろ、まともな――まともなっていうか、こざっぱりしたっていうか、ある程度の常識に則ったスタイルや、あるいは対応が求められる。それは何度も言うけども、必要性があってのことならばそれは全くかまわないわけですけども、そこからその人のもともと持ってる欲望っていうか、もともと持ってる執着みたいなものがだんだんだんだん増えていくわけですね。
 つまりこれがさっき言った、まともな格好してるからまともな感情が出てくるんです。ね。最初から、なんていうかな――もう一回言うけども、しょうがない場合はしょうがないんですけども、一切そういうのにとらわれない、あるいは一切そういうものを放棄した心の働きっていうかな。
 だからこのへんはね、すごく微妙な問題なんです。微妙な問題っていうのは、まあここでも真剣に修行しようとしてる人たちは分かるかもしれない。つまり、一切を放棄しなきゃいけないっていうその大前提があって、でもこの世の一応今生の常識みたいのがあるよね。うん。今生の常識一切放棄してしまったら、ちょっと難しいですよね、生きてくのが。生きてくのは難しいし――生きてくのは難しいっていうのはさ、特に会社行ってる人とかそうだけども、完全に放棄してしまったら――例えばじゃあ髭剃んなくていいのかとか、あるいは服着替えなくていいのかとか、あるいは風呂入らなくていいのかとか、まあいろいろあるだろうけどね。あるいは人目を全く気にしない格好でいいのかってなってしまったら、ちょっとやっぱり会社で注意されちゃうよね。あるいは、例えばこういうヨーガ教室やる場合もそうだけども、まあ前も何回か言ってるけど、わたしが例えばさ、全然風呂入んないでね、あるいはいつも臭い服着てて、例えば髪も髭もボーボーで、まあラーマクリシュナみたいに「暑い!」とか言って上半身裸になったりとか(笑)、そんなんだったら誰も来ないよね。まあ誰も来ないっていうのはないかもしれないけど、例えば無料体験とか来てもね、その状態で例えば「一切放棄」とか言ってやってたら、まあ逆に相手のためにならない。だからその紙一重のところ。だからこの世においてはある程度、その、なんていうかな、この世に合せなきゃいけないところがあるんだけど、しかし合わせると言いながら、本当は必要でない部分までわれわれはそこに迎合してしまってる場合が多い。これがすごく紙一重の部分なんだね。
 だから常に、何度も言うけども、ちょっとそうだな、放棄の方がちょっと強いぐらいでやっぱりちょうどいいと思う。「この世においてわたしは一切放棄するぞ」と。「何にもとらわれないぞ」っていうのがちょっと強いぐらいで、でもやっぱりこの世においてみんなの心を害さないために、あるいは最低限のこの世で生き方ができるように、ある程度合わせないといけないなっていう部分はある。だからそれを皆さん、心の中で保ち続けるといいね。
 で、これが例えば保てなくなり、だんだんだんだん小さなところから巻き込まれていくのが、何度も言ってる、ここで書かれてる「魔事」なんですね。だから何度も繰り返してるのでもう分かると思うけども、ここに書かれてるような容姿、財産、あるいはいろんな世俗的なメリット、こういうのはもちろんあって悪いものではない。あるいは正しく使えばそれは素晴らしく、自分や周りのためにもなるでしょうと。しかしわれわれのもともとあるけがれ、欲望によって、念正智をしてないと、そこをそれを武器にして魔に突かれて、どんどんその魔の世界に引きずり込まれていくっていうことですね。で、神から心が外れてしまいますよと。それを気を付けなさいっていうことですね。
 だから何度も言うけども、今日歌った歌にもあったように、「わたしはあなたさえいれば」――ね、つまり神さえいれば何もいらないと。ね。この心はやっぱり大事かもしれない。これをベースに日々生きてください。「わたしは何もいらないんです」と。あるいは、まあ、最後の言葉はハヌマーンの言葉をもじったわけだけど――「わたしはただラーマだけを思ってる」と。「神だけを思ってる」と。「だから今日の日付がなんなのかも、星座の位置も全く何も知らないんです」と。まあもちろん本当に知ないと駄目ですよ(笑)。「今日何日ですか?」とか言われて――まあ実際、今日のスケジュールとかもしやることがあるとしたらね、ある程度もちろんそれは知らなきゃ駄目だけど。でもベースとしてそれくらいの気持ち。わたしの頭からは神以外もうすっ飛んでるんです、と。全く興味ないんです、と。いつも頭がその聖なる神のことでいっぱいであって、だからその聖なる神にいかに近付くかっていうことだけでいっぱいなんです」と。「だからほかのものは抜け落ちてるんです」という心の働きを――繰り返しますが、ベースにおいてください。その上でこの世を生きると。そうすれば、まあ大きく魔に引きずられて大失敗するってことは少なくなると思うね。

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