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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第八回(3)

◎完全な明け渡し

「智慧を充実するために努力しても、世間に対しても欲望がある。そのようなところにも魔事は働く。」
 はい。ここはちょっと厳しい言葉かもしれないけど、まあ大体こういう経典自体がね、まあ仏教っていうのはもともと出家主義なので、世を捨てた出家修行者に向けて言ってる言葉が多いので、まあ非常に厳しくなるわけだけど。
 「智慧を充実するために努力しても、世間に対しても欲望がある。そのようなところにも魔事は働く。」――つまりこれは言い方を変えるならば、一切世間に対して、つまり、現世的なものには欲望は一切持っちゃいけないっていうことです。
 皆さんはもちろん出家というわけじゃないので、考え方はもちろん自由です。ここに書かれてるように、すべてを完全な智慧や、あるいは解脱や悟りや菩薩の道に振り向けたい――これはこれで素晴らしいね。じゃなくて、「いや、わたしはまだいろんな欲望がある」と。「それは肯定したい」と。「この世でもいろいろ楽しみたい」っていうのは、それはそれでもちろん構わないですよ。じゃなくて、ここで書かれてるのは、理想的な道ですね。つまり、「二足のわらじじゃ駄目なんだ」っていうことです。つまり――まあ今日の歌にもあったように、「一切を捨てなさい」と。ね。
 ただ、一切を捨てろって言っても、今日の歌にもあったように、それは悲壮なものではない。悲壮なものではないっていうのは、今日の歌っていうのは、最近わたしが――まあ特にインドとかで話してた内容に沿う歌なんですけども、われわれの心が本当に神で満たされたならば、あるいは神への愛で満たされたならば、あるいは真理というものへの渇望っていうかな、求道心で満たされたならば、自然に欲望は落ちていくんです。あるいは自然に悪い心の働きっていうかな、あるいは悪い間違った執着みたいなのは落ちていくんです。まさに今日の歌ですけどね。ラーマ――あるいはラーマじゃなくてもいいけども、神、自分の好きな仏陀、あるいは自分の師や聖なる聖者、こういったもので心が満たされ、もう本当にわたしはそれ以外何もいらないと。――なぜかというと、分かると思うけど、それ以上の価値のあるものってないんです。それ以上の価値のあるものってないっていうよりは、それ以外に本当は価値のあるものってないんです。っていうのは、この世のものってすべて終わる。終わるし、かつ、なんていうか、相対的なものだからね。
 いつも言うように、かゆいところをかいてるようなもんです。わたしも最近、経行とかしてて公園とかに行くと、すごい蚊に刺されて、今日も自分で見てびっくりしたんだけど、皮膚病みたいにブワーッて刺されて、まあ、かゆいわけだけど。で、それを例えばですよ、かくとするよね。例えばやんわりかいたとするよね。でもあんまり気持ちよくないと。「でもあんまり強くかくとただれるからな。でもなんか強くかきたいな」と。「エイ! 強くかくか!」と。ウワッてかいたら、「ハー、気持ちいい」と(笑)。つまり、やんわりかいたよりは強くかいた方が気持ちいいと。まあこの程度の話ですよね、この世の欲望っていうのはね。うん。つまり相対的であって、かつ本質的解決には何もならない。逆にかいたところがただれてしまうように、本質的な心の病巣っていうものは、どんどん悪化するわけですね。
 じゃなくて、その誤った心の病の全治っていうかな、完全なその解決――これはわれわれが本当に神の世界に、あるいは真実の世界に目覚めるしかない。そこにしかわれわれの価値っていうかな、喜びは本当はないわけですね。
 だからそこにもしわれわれが百パーセントと言えなくても、ある程度心が集中し、そういうことで心がいっぱいになってるときっていうのは、自然にこの世のものって落ちていくんです。だからそっちの方に心を振り向けられるかですね。
 だからまあ、仏教っていうのはどっちかっていうと、いつも言うように、そのけがれの方に集中するやり方が多いんだね。うん。「わたしはこういうけがれを持っている」と。「これを捨てなきゃいけない、捨てなきゃいけない、捨てなきゃいけない」ってやるわけだけど、これはもちろん大事なんだけど、バクティヨーガとかの世界では逆に、結果の方に目を向けるんだね。「わたしが集中する対象はこの神だけです」と。神への愛っていうものを自分が完全に持つことができれば、それによって自然に――だってそれ以外のことっていうのは全く無価値に見えるから――脱落するじゃないかと。で、ここにいる多くの人っていうのは、多分ね、そのフィーリングは一度は味わったことあるかもしれない。まあ一度じゃないだろうね。何度も味わったことあるかもしれないが、すぐ忘れちゃうんだね。つまり皆さんが、本当に神とか真理とか、絶対なるものに心が目覚めて、「あ、そうだ。これしかない」と。「わたし、これがあればいいじゃないか」と。ね。「なんであんなものにとらわれていたんだろう」っていうような気持ちっていうのは、何度も経験はしてると思うんだね。でもすぐにわれわれの心はそこからずれてしまう。ね。だから何度も言うけども、念正智が必要なんだね。常にそこに戻すと。
 慣れないうちはね、ずれるだけじゃなくて、そのずれることによって、価値も忘れてしまいます。慣れないうちはね。つまり修行とかまだ慣れてないと――つまり、これはまあよく新人とかであるわけだけど、最初のうちは非常に興奮して、「いや、先生、この道は素晴らしいです!」と。「わたしはもう分かりました!」と。「神しかないじゃないですか!」みたいなこと言ってるわけだけど(笑)、で、なんかいろいろあって、その人の心が落ち込むと、「もうわたしいいんです」と。「あれ? でもあなた、神しかないとか言ってなかった?」と。「まあ言ってましたが、今はなんかそんな気持ちになれない」と。つまりその人は記憶としては自分がそうだったって分かってるけど、なんていうかな、心がその喜びの方が価値があるっていうことを完全に忘れちゃってるんだね。でも何年も修行し、その気持ちを何度も上がったり下がったりしながら繰り返して経験してると、完全にはやっぱり忘れないんだね。自分が変になってても、「いや、なんか違うぞ」と。ね。「わたしが本当にいい状態のときっていうのは、こんなくだらない気持ちに悩まされていなかった」と。「素晴らしい清々しい神との一体感を味わっていたはずだ」と。ね。こういうふうに思えるようになるんだね。
 だから何度も言うけども、まあ日々いろんな魔の働きや、エゴによって、カルマによって、心が下に引きずられそうになるのはしょうがない。しかしそれを決して引きずられないようにしっかり対抗策を練ってね、何度も何度もこう、なんていうかな、引き上げる訓練が必要なんだね。訓練っていうか、心が必要なんですね。
 もちろん年中ずーっとその理想に集中できたら最高ですよ。これだってもちろんできないことはないよ。皆さんが本気で、本当に本気でやれば可能です。前も言ったけど、わたしの好きな話で――まあ何度も言ってるんで端折るけども――瞬間的に怒りを捨てた聖者の話があるよね。ラーマクリシュナの友人の聖者がね、まあ、一切は空であると。一切はブラフマンであると。すべては絶対なるブラフマンが遍在してるんだっていう悟りを得ていた聖者がいて、で、その聖者のところにある失礼な男がやってきて、その聖者は、まあヒンドゥー教って火を焚いてそれを拝んだりするから、聖なる火を焚いてたら、その失礼な男がその聖なる火から煙草に火を点けたわけですね。で、そこでその聖者は非常に怒ったわけだね。「なんてことするんだ!」と。ね。「この聖なる火でタバコに火なんて点けるなんて、お前は何を考えてるんだ!」ってこう怒ったわけですね。そしたらそれを見たラーマクリシュナが大変大笑いして、「あれ? あなたなんで笑っているんですか?」って言われたラーマクリシュナは、「いや、あなた、さっき全部ブラフマンだって言ってたじゃないですか」と。ね。「なんでいきなりそんな相対的になってね、煙草点けた男を怒っているんですか?」と。「あなたのブラフマンの悟りはどこにいっちゃったんですか!」ってラーマクリシュナが言ったんだね。そしたらそれを聞いたその聖者は、素晴らしかったわけだけど、ハッとしたんだね。つまり、「このラーマクリシュナが言ったことは正しい」と。「わたしはこんなつまらない怒りで……」――あの、こういうこと実際あるんです。あるっていうのは、この聖者がいてね。この人は本当に聖者なんですよ。聖者なんだけど、まさにこれは魔事なわけですけども、一瞬の怒り、あるいは一瞬の執着かもしれない。一瞬の本当の隙をつかれることによって、瞬間的に悟りが消えてしまうことがあるんだね。もちろん皆さんはまだ、一瞬も悟りを経験していない場合、それはもちろんこの聖者の方が素晴らしいでしょ? 少なくとも、その男が現われるまではその聖者は悟りを持続していたわけです。しかしその男の、まあ別の言い方をすれば魔にちょっと隙を突かれたことによって、悟りが消えてしまった。で、そこでその聖者は熟考したわけです。今の出来事を熟考して、で、結論として、「怒りは悟りを阻害する」と。この結論に気付いたわけだね。この結論に気付いた聖者は、こう考えたんです。「よし! わたしはもう怒らない。」で、本当にそれ以降一生怒らなかったと。
 これは素晴らしい話だね。つまりこれくらいのことは、本当に真剣にこの人生において道を求めていればできるんです。つまり、常に理想を掲げてね、そのように生きようと。で、しかし例えば、その理想を阻害する何かに出遭ってしまったと。で、そこでちょっと心が失敗しそうになったと。で、そこで考えて、「よし! わたしは今日から一切これをやめるぞ」と。ね。「一切このような心の働きを持たないぞ」と。ね。「二十四時間この理想を追求し続けるぞ」と。これは実は可能なんです。じゃあ何によって可能になるかっていうと、まあ単純な話なんだけども、まさに「心構え」です。ね。
 だから皆さんそれぞれの理想があるでしょ? その心構えの強さが問題なんだね。例えば「わたしはこのように生きたい」と。あるいは「このようになろう」と。それをどれだけ真剣に考えてるかです。「結局精神論かよ」って感じなんだけど、そうなんです(笑)。この世は心だから。本当に何度も言うけども、この世はすべて心なんです。っていうことは逆に考えると、ラッキーですよね? ラッキーっていうのは、つまり、皆さんは夢を見てる――夢っていうか、妄想しています。つまり、こういう条件があるからわたしは駄目なんじゃないかとか、こういうカルマあるから駄目なんじゃないかとか、あるいは物理的にこういう状況にあるから駄目なんじゃないかとか、いろんなことで自分をガチガチに制限してるんだね。そんなことないんです。全部すべては心なんです。ということはわれわれの心さえ変われば、あるいは心さえ真剣になれば、心さえこの理想を本気で追求しようと考えれば、いつでもわれわれは変われるんです。今夜にでも変われるし、この瞬間にでも変われます。この瞬間にだって皆さんは聖者になることができる。そしてその心構えが本物で、そしてかつしっかりと強く持続すれば、皆さんは一生、まあ一生っていうか、そのまま聖者の道を歩み始め、そして壊れない、不退転の菩薩や聖者になることもできる。
 だからすべては心なんだね。自分をけがすのも心だし、自分を浄化するのも心だし、理想に近付けてくれるのも心だし。だからこれは心をだから逆に言うと、甘く見てると、すべては心だから、すぐにやられてしまう。心がその、悪い方にガーッて流れてるのを甘く見てると、すべては心なので、いつの間にか自分が取り返しがつかないようなけがれに覆われてしまうこともある。しかし逆に自分の心が本当に真剣に理想を追い求めてれば――だからいつも言ってるけども、結局それだけでもいいんです。それだけでもいいっていうのは、まずスタートの心構え。これがしっかりとしてれば、あとは勝手についてくるから。必要なものは勝手についてくる。だからこれが一番大事なんだね。
 はい。だからちょっと話を戻すけども、ちょっと厳しくなるけども、世間のことはどうでもいいと。ね。これは何度も言うけどね――でも、ですよ。でも世間でいろいろ生きていかなきゃいけないじゃないですかと。それはそうです。でもそれは本当にその人が聖なるものや、あるいは真実っていうものを追い求めてれば、勝手についてきます。勝手についてくるっていうか、もちろん普通にわれわれはこの世で活動してるわけだから――まあつまり言いたいのは、心のさっき言ったような、例えばさっきのふんどしの聖者の話みたいなね、このふんどしがねずみにやられるんじゃないかとか、そういったかたちでわれわれは巻き込まれてるわけだけども、そこらへんを放棄しろっていうことですね。この世のことはどうでもいいじゃないかと。ね。あるいは、さまざまな心配なんてどうでもいいじゃないかと。ね。わたしは心を完全に神に預けてしまったんだと。
 これもわたしの好きな話で、ラーマクリシュナが、まあ死の前にね、まあいわゆる喉の癌にかかったわけですけども、喉の癌にかかって、病床でね、こう苦しんでるときに、彼の信者の一人がラーマクリシュナにこう言ったわけですね。「あなたは偉大なる聖者、アヴァターラであられるのですから、カーリー女神の恩寵を受けていらっしゃるのですから、その病気を治してくださいということを、あなたのカーリー女神にお願いすればいいじゃないですか」と。ね。「あなたのカーリー女神は完全なる絶対なる宇宙の母なんだから、病気を治してくださいとお願いしたらいいでしょう」と。で、ラーマクリシュナはそれに対して何も答えなかったんだね。でもその信者は何度も何度も同じこと言ってたんだね。そしたらラーマクリシュナは、その信者に言ったのはね、「わたしはお前が智慧あるやつだと思っていたが、お前はそんなにくだらないやつだったんだな」と。ね。「わたしは母なる神にこの身も心もすべて預けてしまった」と。「だからわたしは、わたしの病気を治してくださいなんて、もう言えないんだ」と。これがラーマクリシュナの心だったわけだね。
 だからこういう完全な明け渡しっていうかな、これが大事なんだね。「わたしはただあなたへの愛だけが欲しい」と。あるいは「あなたと一つになること、これだけがわたしの望みです」と。「あとはいりません」と。「あとはおまかせいたします」と。こういう、なんていうかな、心なんだね。
 こういう話っていうのは、普通に話したら、ちょっと厳しく聞こえるかもしれない。しかしそれはね、はっきり言うと、今がカリユガだからです。こんな話っていうのは、時代が時代なら、つまりヒンドゥー教的に言うとね、サティヤユガとか、クリタユガとかいわれる、素晴らしい聖なる時代だったら、当たり前のことです。すべてを神にお預けして、あとはおまかせ。当たり前です。皆さんがもしタイムマシンとかでサティヤユガに行って、偉そうにね、「すべてを神にまかせ」とか言っても、「え? 当たり前じゃん」って(笑)、みんなに言われます。普通でしょと。ね。それプラスアルファがあるわけだけど。ね。しかし現代では、そういうことさえも、例えば――まあもちろんそれが完全にできなくても、そのような試みをしようとすることさえも普通は理解されない。ね。「いや、もちろん神とか信仰も大事かもしれませんが、われわれにはこの世の生活があります」と。あるいは、この世の喜びもありますと。それがこの世の、まあスタンダードなんですね。カリユガのスタンダードっていうか。よって、このカリユガにおける聖なる修行っていうか、誠実なる道っていうのは、苦行であるといわれてるんだね。まともな経典通りの聖なる生き方っていうのは、カリユガにおいては苦行であると、よく言われるわけだけど。つまり常識がそうじゃなくなっちゃってる。しかしそうじゃない、ちょっとでもその道に心が向かう人、まああるいはちょっとじゃなくて、皆さんみたいにね、「ああ、そうなんだ」と。「わたしはこの教え通りの道を歩みたい」っていう人は、もう全力で歩いてください。それが、もちろん皆さん自身のためにもなるし、このカリユガにおける、まあ太陽になるっていうかな。希望になります。
 ちょっとかっこいい言い方ですけどね。皆さんはこの世の希望になることができる。それは、仮に皆さんがね、例えば、具体的に、例えばまあ誰かの修行を進めるとか、誰かに教えを与えるとかできなかったとしてもですよ――まあできたらいいけども、できなかったとしても、例えばある一つの魂が、ある一つの存在が、そのようにこのカリユガの魔に負けず、心に神の理想を保ち、そして心をどんどんどんどん成熟させていくと。心を神への帰依と、衆生への四無量心で満たしていくと。こういう存在が一人いるだけでも、この世界はその光で照らされます。そしてそのみんなの心の希望になります。
 希望っていうのは二つの意味で希望になる。一つは、まあ、なんていうかな、無意識的に、その存在がこの地球に与える光の影響というか、プラスの影響によって、みんなが希望を持つと。
 で、もう一つは、もうちょっと具体的な意味ね。具体的な意味っていうのは、そういう存在が例えばそこにいて、で、その人と接することによって、みんなは何かを感じるでしょう、当然ね。エゴをできるだけ捨てようとしてて、心を神や衆生への慈悲で満たそうとしてる人がここにいるとしたら、当然ね、みんなちょっと違うものを感じます。ね。「あれ? なんかこの人違うな」と。「普通と違うな」と。「あ、こういう生き方もあるんだな」と。これもね、みんなにとって希望になります。
 だからそのためにも、まあこのカリユガのね――つまりこのカリユガっていうのは、この魔と聖の闘いでいうと、完全に魔が勝ってる時代だから。ほとんど八割ぐらい魔がこの世界を覆ってる時代なので、この時代の中でも希望となれるように、しっかりと自分の魂っていうかな、カルマを磨いてほしいですね。

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