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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(10)

【本文】

 また、ダルマサンギーティ(法集経)には、次のように説かれている。

「菩薩は、菩提心から一切法を感得すると知るべきである。
 一切法とは、法界そのものであると知るべきである。
 認識する知には限りがあり、叡智は空なるが故に、一切法は空であり、住処がない。また知りつくされることもない。このようにダルマターを知るべきである。
 菩薩の心とは何かといえば、一切の衆生を利益し祝福する心である。
 また、それは無上の心であり、慈愛によってうるおす心である。
 その無上の心は衆生の苦しみを悲しむ心であり、
 大きな喜びによって後悔しない心でもある。
 それはまた、すべての者を平等に扱う、捨による無垢な心である。
 空性によって変異しない心である。
 また、無相・無願・無住の心であると説かれている。
 全智に回向する善根に入り、菩薩の境地にも座さず、中道に尽きることもない。」

 
 はい。ここはちょっと、書き方が難しい感じもするけども、まあ簡単に言うと「法界」とか、あるいは「ダルマター」ね。まあちょっと専門的に言うと、法界っていうのはダルマダートゥっていうわけですが、ダルマ、ダルマの世界ね。で、ダルマターっていうのは、これは法性とかいわれますが、法性っていうのは、法の、性質の性ね。まあつまりこのダルマターっていうのは――ここでいう法っていうのは、つまりダルマっていう言葉っていうのは、かなり広い意味があるんですね。仏教とかの教えのこともダルマっていいますが、そうじゃなくて、あらゆる現象すべてもダルマっていうんだね。で、ダルマターっていうのは、あらゆる現象の本質っていうことです。つまり、すべての現われの正体っていうかな、本性っていうかな。それをダルマターといって、それが大乗仏教とかね、密教とかでは、悟るべきこの世の真髄なんだね。
 まあ簡単に言うと、だからここで言ってるのは、この世の真髄に到達するには、菩提心が必要ですよっていうことです。

 はい。そして、その中間のところで書いてるのは、四無量心の世界だね。これは分かると思いますが、「無上の心であり、慈愛によってうるおす心」、そして「衆生の苦しみを悲しむ心」、そして「大きな喜びによって後悔しない心」、そして「すべての者を平等に扱う、捨による無垢な心」。
 はい、これはもう、いろんなところでこれも書かれてるので――『菩薩の生き方』とかね、いろいろ勉強してほしいと思いますが、まあ大乗仏教の菩薩道に不可欠な「四無量心」ね。「みんなの幸福を願い、そしてみんなの苦しみを悲しみ、そして大きな喜びを持つ」と。「そして平等心を持って自分のことは棄てる」と。これがまあ、四無量心ね。これをしっかりと、まあ菩提心の基礎として持たなきゃいけない。

 で、最後の方に書いてあるのもちょっと難しいですが、まあ簡単に言うと、これがわれわれが仏陀に到達したときの一つの表現ね。例えば「空性によって変異しない」ね。一切変化のない空の境地、そして「無相・無願・無住」ってありますが、まあまず相がない。相がないっていうのは、まあ簡単に言うと、平等であるということです。これはこうであって、あれはああであってっていう相がない。すべてが平等の境地であって、「無願」ね。なんの願いもない。つまりなんの欲求もない。なんの心の――仏陀っていうのはいつも言うように、仏陀の境地に完全に達すると、一切の努力や意志がなく、自然にちょうど太陽光線が、なんの意志もなく生き物に利益を与えるように、なんの意志もなく努力もなく、自然に衆生を利する存在になるんだね。仏陀っていうのはね。だから言ってみればお釈迦様は仏陀なわけだけど、お釈迦様が現れて、いろんなことをしたよね。お釈迦様が現れて、悟りを得て――まあお釈迦様っていうのは、あの当時、北インド中心にね、裸足で歩き回って、多くの人に教えを説いた。で、多くの人を解脱させ、あるいは解脱させないまでも、真理を説いて、みんなを苦しみから解放したと。これは、お釈迦様自身は、一切意志も努力もしてないんだっていう話なんです。つまり、お釈迦様が「さあ、どうやってみんなを救おうかな? 今日はちょっと疲れてるけど、よし、がんばるぞ!」――こんな感じじゃないんです(笑)。じゃなくて、自然にやってるんです。別に努力してるわけでもなければ、計画してるわけでもない。まあ、ちょっとバクティ的に言えば、まさに神の摂理っていうか、本当に、ただなるべくしてなってるだけなんだね。それが仏陀の境地なんだね。
 もちろん、そこまでいくまでは努力しないと駄目ですよ。われわれはまだそんな段階じゃないから、無努力で、「あるがままに」とかやってたら、どうせくだらないことしかしないから(笑)。あるがままにパチンコ屋に行ったりとか(笑)。

(一同笑)

 無努力で、なんかごはん食い過ぎちゃったとか、そういうなんかくだらない人生にしかならないから(笑)。じゃなくて、今のうちは、われわれはちゃんとこう、自分をね、その道にちゃんと当てはめる努力が必要。「いや、わたしはこんなんじゃ駄目なんだ! こうなるぞ!」――努力が必要なんだけど、仏陀の境地に達したら、なんのそういったものはなくなるっていうことだね。
 そして、「無住」。これも難しいけども、いつも言うように、まあ、無住所涅槃っていうように、仏陀の境地っていうのは、どこにも住まないっていうかな、どこにも留まらない境地だね。

 はい。そして「菩薩の境地にも座さず、中道に尽きることもない」っていうのも、これも簡単に言うと、無住所涅槃と同じで、どこにもいないと。つまり完全な――中道っていうのは空性のことだけども、その空の境地に没入するわけでもなく、あるいは、この悟りのない菩薩のままでこの輪廻にさまよってるわけでもない。つまり二元を越えた世界に行くわけですね。まあこの辺は、今日はあまり突っ込みませんが、そういう仏陀の究極の境地に至るにも、菩提心が必要っていうかな。菩提心のみが、そこに至る種になるんだっていうことですね。

 はい。ここまで何か質問その他ありますか? はい。じゃあ最後までちょっといってみましょうかね。

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