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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第一回(5)

 はい。次に、「辺境の地に生まれた者は、修行ができない。」
 はい。これは、つまり人間に生まれましたと。しかし「辺境の地」――まあ現代では本当の辺境の地っていうのは少ないかもしれないけど、つまりアフリカの奥地とかね。そういうような、つまりまだ未開の地。まだ――まあ言ってみれば、解脱の教えであるとか、そういうその崇高な教えがない未開の地ですね。
 ただですね、その、未開だからといって崇高な教えがないとは限らない。例えばよくいわれるのが、オーストラリアのアボリジニとか。あるいは昔のインディアンとかで崇拝されてた宗教っていうのは、非常にヨーガとか仏教に近いっていう説もあるんだね。だからその、未開だからレベルが低いとは限らないんだけど、でもまあ未開でレベルが低いのもいっぱいあるわけですね。つまり単純に、その動物やね、あるいは人身供養などの殺生によって、神に祈りを捧げて、その農作物の豊穣を祝うだけの宗教とか。あるいはシャーマニズム的なね、単純にオラクルをして、ちょっと低い霊をおろして、お告げをしたりするだけの宗教とかね。そういうのだけで成り立ってるような地域っていうか、未開のもあるわけですね。で、そういうとこに――つまり、「やったー! おれは人間だー!」って生まれたのに、「ウォウォウォ」とか言って(笑)……

(一同笑)

 「あれ? ここはなんだ?」なんかあの……(笑)。ちょっとイメージがちょっと……貧困だけども(笑)。ちょっとこう、ただなんていうか、生き物を殺して、捧げてるだけのようなところに生まれたら、「なんか違うな」と(笑)。

(一同笑)

 で、そこは未開だから、例えば文明も入ってこないと。まあそこで例えば――まあ現代では本当に未開ってあるか分かんないけど、そこにテレビもないと。あるいは情報も入ってこないと。だから例えば、「遠い国に、ヨーガがあるんだよ。仏教があるんだよ」っていうことも分からないと。もうその小さな世界すべてが世界だと思ってしまってる。そういう国に生まれたら、やっぱりチャンスがないよね。せっかく人間に生まれてもそのチャンスがないと。

 はい。次に、「盗人や野蛮人のような、愛著や怒りが非常に強い者たちの中に生まれると、修行ができない。」――はい。例えば、まあ野蛮人っていうのも、これは現代ではどれくらいいるのか分からないけど、そういう蛮族っていうかな、そういう野蛮な民族とかね。もしくは盗人のグループとか。まあそうですね、現代でいうと暴力団の息子とか……なのかもしれないけど(笑)。ただ現代ではさ、仮に暴力団の息子に生まれても、情報化社会だから、もちろんインターネットとか、本屋に行けばいろんな思想があるから、そこに縛られるってことはないよね。で、昔の例えばインドとかっていうのは、もう本当に、なんていうかな、カースト制とかもあるし、もうその一族に生まれたら、もう一生その一族の業を背負わなきゃいけないっていうか、同じような環境で、同じような生き方をするような社会があったわけですね。もしそういう社会に生まれた場合、例えば盗人の、強盗の一族に生まれて、もうその世界しか知らないと。もう強盗のことしか教えられないと。こういう状況に生まれたとしたら、当然修行ができない……っていうことだね。
 あるいは、「愛著や怒りが非常に強い者たちの中に」って書いてあるけども、これもだから環境的にね、もしそういうような環境に生まれた場合も修行ができないといえるかもしれない。つまり家族とか、周りの者たちが本当に怒りが強いとか、愛著が強いとか。もちろんでもそれも言ってみれば自分のカルマなんだけどね。カルマによってそういう世界に生まれるわけだけど。

 はい。次、「言葉を理解できない者として生まれると、修行ができない。」――これはもう単純な話で、現代的に言うと知恵遅れであるとか、ちょっとこう思考力が足りない者として生まれるとか、そういう障害的な話ですね。人間の体を得たけども、ちょっとこう教えを理解する力がないと。これもだからハード的な問題、もしくはカルマ的な問題だね。その場合も修行ができませんよと。これ、もちろん受動的にはできるよね。周りの者が一生懸命いろんなのを聴かせてあげるとか。しかし積極的に自分では修行できない。

 はい。次が、「またある者は、如来が法を説かれた時代に生まれても、誤った見解を持つために、布施や供養を施すこともない。そしてカルマの法則も信じず、来世も信じない。このような誤った見解にとりつかれた者は、たとえかたち上、修行の道に入ったとしても、真にダルマを悟り得ることはできない。」――はい。つまり、現代のように、まだこの世に仏教とかヨーガっていう教えが残ってますと。「ああ、いい時代に生まれましたね」と。そして、例えば修行の道に入りましたと。あるいは、ある人はお坊さんになりましたと。しかし、カルマを信じない。布施や供養をしない。輪廻も信じない。え?……みんな、「そんな人いるんですか?」って言うかもしれないけど、インターネットとか見るといっぱいいるね。わたしもよくネットとかで見てると、お坊さんなんだけどね、お坊さんとかが書き込んでて、「輪廻はない」とか書かれてて(笑)。

(一同笑)

 え!?って思って(笑)。「輪廻はない」っていう人が結構いるんです。一人じゃないんです。結構いるんです。つまり、まあまさにちょっと現代的なね、ちょっと悪い意味での合理主義におかされてるんだね。なんかそういうのがかっこいいと思ってる人が多分いるんだと思う。つまり、仏教っていうのは、知性的な教えであると。もちろん知性的な教えなんですよ。でも、その知性的っていうのをはき違えてる。つまり、現代人の頭で納得できるようなことじゃないと、それはすべて方便だって考えてしまう。でも、そうじゃないんだね。お釈迦様が説いた輪廻の話、カルマの話っていうのは、これはまあ前提として、現実としてまず受け入れなきゃいけない。でも修行者、あるいはお坊さんっていう立場にありながら、輪廻を信じない人も確かにいる。あるいはカルマの法則も信じない人も確かにいる。
 これはね、ちょっとこう、まあいろんなパターンがあるだろうけど、いわゆるね、大乗仏教の一つの弊害だと思います。どういうことかというと、大乗仏教っていうのは、原始仏教とかよりも一歩実は先をいってるんです。つまり原始仏教が基本的な教えを説いて、大乗仏教は一歩先をいったんです。つまり何かというと、その代表的なのが、「一切は空である」っていう教えなんです。しかしこれはね、皆さん何回か学んだことがあると思うけども、この一切は空であるっていう教えっていうのは、まだ基本のできてない人には教えちゃいけない教えなんです。これをもし最初に学んでしまうと、悪趣に落ちる、つまり地獄に落ちると言われている。これは意味分かるよね、皆さんはね。つまり大乗っていうのは、つまりいつも言うように、二つの真理がありますよ、一つはこの世限定の真理。もう一つは究極の真理。この究極の真理が空なんだね。で、もう一つのこの世の真理っていうのが、カルマであるとか、輪廻であるとかいう話なんですね。つまりわれわれは今、幻の中に巻き込まれてますよ。で、その幻の中における法則性をお釈迦様はいろいろ言ってるんです。「はい、いいことすればいいことが起きますよ。悪いことすれば悪いこと起きますよ。」――で、もう一方では、「でも、それ全部幻だから、本当の本当のこと言うと、善も悪もないんですよ。」「でも、あなたがその幻に巻き込まれてる間は、善をなし、悪をやめないと大変ですよ」と。この全体像が理解できてるならいいんだけど、日本の仏教っていうのは大乗仏教中心だから――まあ、いつも言うように、例えばですよ。原始仏教っていうのは、まさにね、家の土台のようなものなんだね。で、大乗仏教っていうのはその上に建てる柱とか梁みたいなものです。で、さらにその上に密教っていう屋根が乗っかるわけだけど。これでもう仏教の完全なる家が完成するんだけど、日本仏教っていうのは大乗仏教中心だから、土台がないところに柱が建ってるようなもんです。だから非常に不安定っていうか。ね。つまり、基本的なカルマや輪廻や、あるいは現世を放棄するような基礎ができてない人に、善悪もないんだよっていう教えが入ってくる。そうすると、みんな勘違いするわけだね。
 これがだから――もちろん本当に仏教と縁のある人、あるいは智慧の高い人は、そういう勘違いはしません。つまり、その教えが言いたいことをちゃんと分かって、「あ、なるほど」と。「わたしはこのように生きつつ、その空の教えもしっかりと体得していこう」と考える。しかし、カルマの悪い人、あるいはまだ仏教の教えとあまり縁のない人は、単純な表面的な空の教えとか学んで、修行者なんだけど、「おれは偉大な修行者だ」ってフリをしてるわけだけど、基本的な教えを疎かにしてるから、どんどんカルマが悪くなって――はっきり言うと、普通の人よりカルマが悪くなります。だって普通の人は道徳的に生きてるから。ね(笑)。修行者は、道徳も超えた真理の法を基に生きるわけだけど。カルマの法則とかね。でも、この空の教えを勘違いしてる人は、その道徳も関係ないと。あるいはカルマの教えも関係ないと。ね。まだそんなレベルではないのにね。「空だ」と言ってどんどん悪業積んで、で、低い世界に落ちてしまう。これが大乗仏教の一つの落とし穴なんだね。
 だからいつも言うけど、チベット仏教の優れてるところっていうのは、非常にシステマティックに全体像をつかませようとするんだね。つまり基本的な段階で、まず戒律であるとか、あるいは煩悩を捨てましょうね。あるいはカルマの法則、輪廻といった教えを徹底的に学ばせて、「もう本当に理解しました」と。「本当にこの世は苦で、すべてはカルマであって、輪廻から抜けなきゃいけないんだ」と。「もう理解しました」と。「がんばります!」って言ってる人に、「よく理解したな」と。「そのうえで聞けよ」と。「一切は空だ」と(笑)。そうするとそれがバシッと理解できるんです。「あ、なるほど」と。「一切は実はないんだな」と。ないんだけども、われわれはそのないんだっていう世界にはまってるから、これを単純にないんだっていっていいんだろうかと。ね。前にサラハの勉強会でも言ったけども、それは頭では理解しても、心が地獄に堕ちたらしょうがない。それはもう普通の人よりも最悪の状態になるんだね。まあサラハの表現だと、「それはまるで、目を開けて火の中を歩むようなもんだ」って言ってる。つまり仕組みとか分かっちゃってる。頭でね。空だとか分かっていながら心は輪廻に引きずられてるから、分かってながら、地獄で苦しまなきゃいけない。これはよけい悲惨になるんだね。
 はい。でも、カルマによってそのような状況になる人もいる。つまり、教えと巡り合い、一応かたち上修行してるけども、カルマとか信じない。輪廻とか信じない。根本的な基本的なその正しい見解を信じないがゆえに、全く悟ることができないと。これも障害だっていうことですね。「難である」と。

 はい。そして八番目。八番目は、まあこれもちょっとなかなか悲しいことなんだけど、ほとんど条件整いましたと。人間に生まれましたと。素晴らしい知性を持ってると。そして正しい考え方を持ってると。で、修行の道に入りましたと。でも、その時代、仏陀の教えありませんと。ね(笑)。つまり、ほとんど条件整ったんだけど、「あれ? 仏陀の教えない」と(笑)。ないってどういう意味かっていうと、つまり仏陀が現われてね、教えを説きましたと。今はまだ一応教えが残ってる。しかしどんどんこれも廃れていって、もう全く、「仏陀って一体何言ったんだろう?」と(笑)。ゼロと。あるいは仏陀だけじゃなくて、ヨーガとかの聖者もね、もうすべてその教えも滅んで、何も残っていないと。全く何だったのかよく分かってないと。そういう時代っていうことですね。つまりこっち側のいろんな条件がほとんど整ったが、しかしその時代に教えが全くないと。これは非常に悲しいね。このような状態でも、もちろん修行はできないと。
 はい。これがまあ、ほかのね、ことがあげられることもあるけども、八つの修行ができない条件ね。
 はい。そしてこれは、もちろん皆さん考えなきゃいけないのは、われわれはこれらすべてを乗り越えてるんだと。ね。その稀有さっていうかな。つまり、一歩間違えば、これらのどれかにはまりこんでいたかもしれないわけだけど、それを乗り越えていることの、まあ希少価値っていうかな。それを何度も何度も自分に言い聞かせなきゃいけないんだね。
 はい。じゃあここまで何か質問ある人いますか? 特にないかな? はい。じゃあ次いきましょう。

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