「解説『ただ今日なすべきことを』」第2回(2)
【本文】
ただ今日、なすべきことを
もしそれが成功するとしたら、案じようと案じまいと、成功するでしょう。
ならば未来を案じることに、何の意味があるでしょうか?
もしそれが失敗するとしたら、案じようと案じまいと、失敗するでしょう。
ならば未来を案じることに、何の意味があるでしょうか?
ただ今、この瞬間に集中すべし。
お釈迦様の言葉でも、以下のような教えがありますね。
「過去を追うべからず
未来を期待するべからず
過去はすでに過ぎ去ったものなり
未来はいまだ来たらず
ただ今日、なすべきことを全力でなせ」
はい。まあ、これもいつも言っているようなことですけどね。でもこれもよく考えてみたらいいね。
われわれは特に、未来に対してものすごく妄想するわけだね。で、普段からいろんなことを期待したり、逆に恐怖したりする。で、「ああ、こうなるだろうか、こうなったらどうしよう?」ということを悶々と考える。
まあ前も言ったけど、われわれの人生のほとんどは妄想です(笑)。それは未来への妄想と、過去への妄想。まあ過去っていうのはつまり思い出とか後悔だけど。ほとんどこれで占められている。この今の瞬間に集中してる時間って非常に少ない。まあこれは前も何回か同じような話をしたけども、例えばね、明日何か大きなイベントがあるとしたら、ずーっとそのことを考えてる。あるいは昨日何か失敗があったとしたらずーっとそのことを考えてる。つまり昨日への――ああ、こうしとけばよかったな――とかいうその心のイメージ。それと明日への期待とか恐怖――あ、こういうことがあったらいいな、でもこうなったらどうしよう――これで、その人は今この瞬間を生きることのないまま時間が経っていくんだね。それはほとんどその過去と未来の中に生きている。今この瞬間に集中する人っていうのはなかなかいない。
で、なんていうかな、ここでは未来のことを中心に言ってるんですが、その時間っていうのは無駄でもあるし、無駄な苦悩なんだね。で、それがここに書いてあること。「もし成功するとしたら、案じようが案じまいが成功する」と。
これはね、それが真実かどうかっていうのは別にして、そういう考え方はとてもわれわれにメリットをもたらします。つまり、もう一回言いますよ――案じようが案じまいが絶対成功します、成功するんだったら。で、失敗するんだったら、案じようが案じまいが絶対失敗します。
これはわたしよく何回か相談されて言ったのが、まあここに来る人で何人か、結婚したいっていう女性がいてね。つまりだいぶ年も三十に近づいてきて、わたしはこのままいくと結婚できるんだろうかと。心配だと。早くいい人に巡り会いたいと。で、それをいつも悩んでいると。そういう人が何人かいて、そういう人にわたしがいつも言うのは、本当に素晴らしいあなたのパートナーともし巡り会い、素晴らしい結婚をする運命にあるんだったら、絶対そうなります。どんな邪魔が入っても絶対なります。その運命はね。だから心配しても全くしょうがない。もしそのような者が現われないんだったら、あなたが何をしようが絶対現われません。よって心配しても意味ありません。――こういうことをよく言うんだけど、だからそれはすべてにおいてそうなんだね。うん。
われわれはいつも不安と期待にさいなまれてるでしょ? うん。「あれ、これどうしよう。今日の夜こういう仕事をしなきゃいけないけど成功するかな、失敗しないかな」――ドキドキする。あるいは、「昨日こういうことがあったけど、それによって今日会社行ったらこういうふうに言われるんじゃないかな? ああ、どうしよう」――言われるんだったら絶対言われます。じゃなくて、何もなく平安に過ぎるんだったら絶対にそうなります。
それはだからなんていうかな、まあその背景にはカルマの法則があって、で、まあインド占星術で言うように、ほとんどのことはもう決まってるんだね。これには深い意味があるんだけど、まあ大ざっぱにそう考えてください。ほとんどのことは決まっている。もちろんわれわれが修行をしっかりして解脱するかどうかとか、悟るかどうかとか、それは決まってないともいえます。ただそうじゃない、日々の日常的なこととかはほとんど決まってる。いつも言うけども、大事なのは――例えばですよ、それが成功するか失敗するかとか、あるいはその出来事が起きるかどうか――それじゃないんです。そこで何を学ぶかとか、あるいはそこで心がどういう状態になるか。これが大事なんだね。
つまり言い方を換えると、現象は決まっている、もう。そこで反応をどうするかは決まっていない。つまり例えばTさんが明日上司に怒られるとしたら、もうカルマとしてこれは決定されてるんです。しかし、じゃあTさんが勉強会に今日出ました――これによって何が変わるかっていったら、Tさんは明日上司に怒られる――これは決定です。Tさんが勉強会に出ようが出まいが決定です。Tさんが今日勉強会来たから、その恩寵によって明日怒られないでしょうってことはない。どっちにしろ怒られます(笑)。どっちにしろ怒られるんだけど、普通だったらそこでTさんは怒られてしゅんとしたり、あるいは逆に相手を怒り返したりしちゃって、より悪いカルマを積んでたかもしれない。でも勉強会で、いや、怒っちゃいけませんよと。気のせいですよとかさっき学んだから、明日バーッて怒られたときに、「あ、気のせいだ」と(笑)。「わたしはこの人を憎くも何ともない」と。「甘んじてそれは受けましょう」と。こういう安らかな気持ちになれるかもしれない。これが違いなんだね。
だから何か起きたときに心の反応がどんどんいい方にいい方に向かっていくのが修行のメリットなんだけど、その現象、起きる現象は過去のカルマによってセッティングされてるから、それはもう最初から決まっているんだと。だからそこに心動かしてもしょうがないんだね。明日これが起きるかな、起きないのかな?ってことを考えても全く意味がない。もう無駄なんです。そこで生じる期待や恐怖って超無駄なんだね。
で、いつも言うけど、そういう人っていうのはその未来に心を集中し続けることによって、最も新鮮な今という喜びをいつも捨ててるんです。まあ逃してるっていうかな。まあお釈迦様のこの言葉でもあるけど――「過去はすでに過ぎ去った」と。で、「未来はいまだ来たらず」と。つまり、未来っていうのはもう、まだ来てないんです。だから、なんていうかな、そこに――あのね、ちょっとまた別な言い方をすると、われわれが心の迷いを捨ててこの今の瞬間に集中したとしたら、これが百パーセントできたら、ものすごく素晴らしい瞬間があります、ここにね。で、これを持続させられたらものすごく素晴らしいんです。でも未来っていうのはまだ来てないんです。つまりこの瞬間瞬間は素晴らしいんだけど、この未来っていうのはただの頭の中の妄想だから、そこに素晴らしさとか、あるいはなんていうかな、そのリアリティってないんだね。ただ頭の中で作り上げてる妄想にすぎない。じゃあ過去っていうのはどうかと。過去は腐ってるんです、変な言い方すると。つまりこの今の瞬間の新鮮さはもうない。つまり新鮮だった果物や野菜がもう腐ってるような状態です。だからそこに目を向けてもしょうがない。じゃなくてこの一瞬一瞬に全力で集中しなきゃいけない。
一瞬一瞬っていうのは本当にもう小さなことも含めてね。もう、そうだな、例えばパッてここに座っていると。で、わたしが話してるとしたら、その話の一つ一つ、あるいは話してなかったとしても、こうここにいる、その素晴らしい法友っていうかな、修行の友といられることの喜びってあるじゃないですか。
この間も言ったけどさ、人間って慣れによって新鮮さを失うんだね。よーく考えてみてください。まあ、っていうかこういうことってさ、相対的に考えるとすごく分かりやすいんだね。ちょっとイメージしてみましょう、相対的に。これちょっと妄想になるけど、ちょっと妄想してみましょう。はい、われわれは、今、実はこれは夢で、本当の現実のわれわれは北朝鮮にいます(笑)。で、思想統制され自由を制限され、仏教とかヨーガなんて学べないと。で、宗教は悪だって言われ、で、激しい労働にさらされると。心の中ではなんとなく真理への思いっていうのはあるんだけど、それをできる状況にないと。で、それを語れる友もいないと。さあ、このような環境に自分がもしいると考えたら、パッと現実の今の自分に心を移したときに、なんて素晴らしい瞬間なんだと考えられる。つまりわれわれには自由があり、思想の自由もあり、そして五体満足なこの体があり、そして何よりもその法を分かち合える友がいる。で、実際にその修行ができる時間っていうのがわれわれにはある。こんな感動があるだろうかと。
こういうことをさ、皆さんよく仏教の本とかヨーガの本を読んで、そういうことよく書いてあったりするから、それを読んだときは皆さん感動して、そうだ!と思うかもしれない。でもそれ持続しないよね。でも持続させなきゃいけない。
つまり瞬間瞬間リアリティを持って見るとそうなんです。この瞬間がものすごく感動的なんだね。ものすごくありがたいっていうか。で、これは慣れちゃいけないんです。つまり、一瞬一瞬その自分の心を生まれ変わらせるんだね。「なんて素晴らしいんだろう!」と。また次の瞬間には、「あ、なんて素晴らしいんだろう!」と。また次の瞬間には、「あ、なんて素晴らしいんだろう!」(笑)。これをもう連続するんです、ずーっと。その状態で生きる。
だからこれはどうでもいいことっていうか一般的なこともそうなんだね。例えば外に出たら太陽が出ていると。なんて素晴らしいんだと。あるいは夜空がきれいだと。いや、なんて素晴らしいんだと。あるいはそうだな、まあさっき言ったようにその自分の人生っていうのはまだ続いていると。まだわたしはチャンスがもらえてると。明日死ぬかもしれないっていうのが真実なんだけど、でもわたしはまだ生きてると。まあナーガルジュナとかも言ってるけど、息を吸ったあとに吐くことができるっていうことは奇跡だと考えなさいと。つまり人の命っていうのはいつどうなるか分からない。息を吸って、吐いたと。「はい、まだ生きてる!」と(笑)。「まだ修行ができる!」と。「なんて素晴らしいんだ」と。このようなことを考えながら瞬間瞬間集中しなきゃいけないんです。これを、そういうことを考えないでいろんな修行をかたち上はやりながら「明日会社どうしようかな……」とか、「昨日なんかあれ大失敗だったな」とか、こんなことやってるのがわれわれなんだね。
だから瞬間瞬間に集中し続けなきゃいけない。これはお釈迦様がひたすら言ってることでもあるし、それからさっき言ったナーガルジュナが言ってることでもある。これはだから一つのわれわれのまたね、考え方のポイントだね。
このお釈迦様の詩っていうか言葉っていうのはとてもかっこいいっていうか、きれいなものだけどね。「過去を追うべからず、未来を期待するべからず。」――過去はすでに過ぎ去ったと。未来はまだ来ていないと。つまりわれわれの前にはリアリティとして今しかないんだと。でもそれを知ってる者っていうか、それをそのように生きてる者はほとんどいないんだね。だからそれは、なんていうかな、努力してそれを持続させるべきだね。もう今に集中し続ける。