「菩提心の軍隊」
【本文】
また、全ての医師は、施術の苦しみによって病を癒す。それゆえ、多くの苦しみをなくするために、わずかな苦しみが忍ばれねばならぬ。
しかし、この適切な施術すらも、最良の医師(仏陀)は行なわない。大いなる傷病を優しい療法で癒す。
導師は、最初には野菜等を人に与えるように命ずる。それから、次第に進んで、後には自己の肉までも捨てるようにさせる。
自己の肉を野菜に等しとする智慧が生じたときに、彼が肉と骨を捨てるに、どういう困難があるか。
【解説】
よく仏陀は医師にたとえられます。煩悩という病にかかり苦しんでいる衆生の苦悩を癒すからです。
治療のための施術には、普通は苦痛が伴うものですが、仏陀は、優しいやり方で、我々の病を取り除いてくれるというのです。
優しいといっても、生ぬるいという意味ではありません。巧みな手段(ウパーヤ)を持っているという意味ですね。
たとえばエゴを大事にする心でいっぱいの人に、「仏陀のように肉体を捨てろ」と言ってもできるはずがありません。しかし野菜くらいなら、人にあげることができるかもしれません。そのようにして仏陀の教えに従えば、徐々に徐々に、煩悩から智慧、エゴから慈愛の方向に心の傾向を変えられていき、最後は喜んで自己の肉体さえ布施できるような智慧と慈愛を身に着けることができるのです。だから仏陀や、聖なる導師の言葉に誠実に従い、修行していくことが大事なんですね。
【本文】
彼は罪悪を離れて苦しみなく、叡智を得て哀愁がない。なぜなら、心は妄分別によって、身は罪悪によって苦難を受けるから。
功徳によって身は楽しく、叡智によって心は楽しい。他人の利益のために、慈悲心によって輪廻界にとどまっている者が、何に悩まされるか。
菩提心の力によって、旧悪を滅ぼしながら、功徳の海を身に集めつつ、声聞(小乗の行者)よりも、速やかに進む。
かくて、全ての苦悩と懈怠とを取り除く菩提心の車に乗って、一つの楽から楽の状態へと進むならば、心ある者の誰が落胆するか。
【解説】
ここはとても本質的で深く、またすばらしいことが説かれていますね。
罪悪によって我々はこの世で苦しみを受けます。
そして妄分別、つまり無智によって、心の苦しみを受けます。
よって心において智慧を得、そしてこの世界で罪悪のカルマから脱したなら、我々には心身ともに苦難はないのです。
それどころか、功徳によってこの身体は、外的な条件に関わらず、歓喜に包まれます。そして智慧によって、心は至福に包まれるのです。
本来、このような魂は、この輪廻にとどまる必要はありません。彼がこの輪廻にいるのは、慈悲によって、他の衆生を救おうとするため、その理由だけなのです。
そして大乗の菩薩の修行は、菩提心という強力な武器を持つことによって、過去に積んだ悪を速やかに滅ぼし、また多くの功徳を積んで、進んでいきます。
この道と、小乗の行者の道を比べてみましょう。
断っておきますが、ここでいう小乗の行者とは、上座部仏教のことを言っているわけではなく、衆生救済を考えず、あるいは完全な全智を得ることを考えず、ただ自分だけがいかに早くこの輪廻から離れるかを考える修行者のことです。
実は、大乗の菩薩と、小乗の修行者とでは、後者の方早く目的を達成します。
しかしそれは、小乗の修行者の目的が、大乗の菩薩とは比べ物にならないほど、初歩的なものだからです。
それは、何らかの方法により、この輪廻に自分が転生する因の働きを止めてしまうことです。
しかしそこに全智がない限り、再びこの修行者は、この輪廻に舞い戻ってしまう可能性があります。
つまり小乗の到達点は、結局のところ、本当の意味での到達点ではないのです。
そういう意味で、最初から全智を求め、菩提心を行ずる大乗の菩薩こそ、小乗よりも速やかに目的に向かって進む、というのです。
そして大乗の菩薩の修行は、菩提心の力によって、楽から楽へと進む修行です。
もちろんここでいう楽とは、現世的な楽のことではありません。智慧と徳から来る、本質的な至福感です。
その道の初期の頃は、もちろん、苦悩もいろいろあるでしょう。それはまだ、カルマが浄化されていず、智慧も足りないからです。しかし菩提心の修行こそは、カルマの浄化と智慧を速やかに得させるので、その修行は徐々に、苦難は少なく、多くの至福に満ちたものになっていくのです。もちろんそれは、客観的には、苦しく見えるかもしれません。客観的には、菩薩はいつも、苦難を背負い、苦しんでいるように見えるかもしれません。しかし功徳に満ち、悪業が浄化され、智慧と慈悲に満ちた心を持つ菩薩にとっては、徐々に徐々に、どのような状況にあっても苦しみはなく、どのような状況にあっても至福に満ちた状態に進化していくのです。
このような道を正しく進んでいる者にとって、落胆することなどあるはずがないではないか、ということですね。
【本文】
衆生の利益を成就するために、「善への決意」と「菩薩の誇り」と「善行の喜び」と「企てからの離脱」という四つの軍隊が必要である。苦しみを恐れ、また福利を幾度も観じて、「善への決意」を起こすべきである。
かくして、敵軍を根絶し、「善への決意」と、「菩薩の誇り」と、「善行の喜び」と、「捨て去ること」と、「専心」と、「自制」という軍隊を操って、努力の増大に励むべきである。
【解説】
ここは似たような文章が少しかぶる形で続いているので、まとめてみましょう。
①菩薩の道を達成しようという決意
②自分は菩薩であるという誇り
③菩薩行を行なうことの喜び
④未来についてあれこれ企てることをやめること
⑤全てを捨てること
⑥今やるべきことに全力で心を注ぐこと(専心)
⑦真理の教えに従って、自己を制すること
これらの「聖なる軍隊」を自己の心に置き、育て、そしてそれによって魔の軍勢、怠惰の悪魔や煩悩の悪魔といった魔の軍勢と戦うのです。
私は特に、まずはじめに、最初の三つについてしっかりと考え、心に何度も植えつけることが大事だと思いますね。つまり、
①決意。すべては心の方向性です。「菩薩になろうかな・・・」とか、「菩薩になれたらいいな」ではなく、「私はどんなことがあっても、菩薩の道を歩くのだ」という強い決意、欲求が必要です。教えを学んだり、考えたりすることで、菩薩の道を歩き、達成しようという強い心の決意、心構え、覚悟を、何度も何度も心に植えつけるべきです。
②誇り。誇りは駄目だとか、自分は菩薩だという自我観念も持ってはいけない、というのは間違っていると思います。逆に、この世に存在する上で、唯一つ持つべき自我観念、それが「私は菩薩である」という誇りなのです。
「武士は食わねど高楊枝」という言葉がありますが、菩薩は、まだ修行途上なので苦しいこともあるでしょうが、自分は菩薩であるという誇りのもとに、決して、苦しくても、菩薩の心、言葉、行動から外れたことをしてはいけないのです。自己の苦しみがあろうとも、衆生のために笑顔と幸福を振りまきましょう。
③喜び。心は、喜びを感じる方向へと向かいます。菩薩の道は喜びの道です。まずはそれは知識として学び、考え、そして実際に菩薩の道を実践することで菩薩の喜びを経験します。そうしたらその経験を、何度も何度も反復して思い起こします。このようにして、「菩薩の道は喜びである」という思いを、意識的に心に根付かせるのです。
実際に菩薩の道は、たとえようもない喜びの道なのですが、永い輪廻の生の習性によって、我々は苦難の因である煩悩に対して喜びを感じるような癖がついてしまっているのです。だから意識的に、菩提心による本質的な喜びを、心に植えつけなければならないのです。
菩提心を達成するぞという欲求、決意。
われは菩薩であるという誇り。
菩薩の道を歩くことの、たとえようもない喜び。
これらについても、一日に何回も考え、心に植えつけるべきでしょう。
それにより怠惰や無智の魔は打ち砕かれ、心は菩提行に向かい、速やかに修行は進んでいくことでしょう。
-
前の記事
「恐れずに進め」 -
次の記事
「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(5)