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「聖者の生涯 ナーロー」⑨(7)

◎純粋な精神性

 もう一回、わたしの経験を言うとね(笑)、これは話が若干ずれるかもしれないけど、わたし自身の経験として聞いてほしいんですが、わたしはこのクンダリニー的なヨーガがすごく進んできたときに、あるときから体中がもうエクスタシーそのものになって、つまり例えば呼吸してももうエクスタシーなんだね。で、もう何か触れるだけでエクスタシーになると。例えばこうちょんと触っただけで、この指先から体中にブワーって歓喜が走るんだね。ここでいう歓喜っていうのは、なんとなく気持ちいいじゃなくて、本当に「うわーっ!」っていう歓喜です(笑)。だからパソコンとか打てないんだね。だって触るだけでエクスタシーなんだから。【パソコンを打つ仕草をする】「あーっ!」(笑)――っていう感じなんだね(笑)。本当に(笑)。
 そういう時期があって、で、そういうときに、あるときね――ちょっと具体的なものは忘れたんだけど――ちょっとなんか汚いものがあったんです。なんかゴミみたいなね。で、それを片付けなきゃいけなくて、「うわー」って感じでそれに手を触れたときに鳥肌が立って、「うわー気持ち悪い!」って感じで、「うわー!」ってなったんだけど、そこでふと「あれ!?」と思って。わたしはそういえばこないだまで、何に触れても歓喜になっていたはずだと。こうだから喜びでこうだから苦しみだとかそういう二元性を超えて、すべてはもう歓喜そのものであるっていう経験をしてたはずなのに、なんで今これ触ったら嫌な感じになったのかと。歓喜ももちろん出ないし、ちょっと逆に鳥肌が出て嫌な感じになった。――「あっ、これは……愛が足りない」と思ったんだね。つまり、このゴミに対する愛が足りないと(笑)。ね。つまりゴミに対する偏見があったと。よって、わたしの偏見によって、エネルギー自体は純粋なんだが、それにわたしの偏見をかぶせることによって、気持ち悪さ、鳥肌、こういったものが生起したに過ぎなかったと。で、そこでちょっと心を変えて――変な話なんだけど――そのゴミに対する強烈な愛を持ってね(笑)、純粋な愛の心を持って触ったら、歓喜になった。「ああ、やっぱりそうだった」と。
 あるいは別の経験として、これも前に言ったけど、あるとき――ちょっとこれはエクスタシーとはちょっと違うんだけど、すべてがね、よく密教とかバクティヨーガで言うように、すべてが神の現われというか――まあいろんなパターンがあるんだけど――そのときはね、女神というかな、ダーキニーというか――例えばですよ、この空間にもいろんな神が満ちていて、例えば物質元素とかすべてが神や女神達の集まりでできているというか。そういう感覚をしょっちゅう感じるようになったときがあったんだね。で、だんだんそういうことを日々経験するようになって、瞑想中もそうだし、普段の生活の中でもそれを経験するようになっていって、「ああなるほど、この世っていうのは本当に純粋な仏陀や神々や女神の現われだったんだ。あれは比喩ではなくて本当だったんだ」っていう経験をよくしてたことがあって。
 で、そのときにあるときわたしがある仕事場でね、風呂場でちょっと熱い風呂に入りすぎて、風呂場の洗い場のところで横になってたんだね。そこは仕事場の風呂場だったんだけど、横になってるでしょ。横になってふと見たら、多分前に入った人だと思うんだけど、前に入った人がなんでか分かんないけど、風呂で自分の下着洗ったのかわかんないけど、その人のパンツがかけてあったんです(笑)。パンツがかけてあって、で、それまでわたしは横になっている時にその至福の状態に入っていて、「あー……」って歓喜状態にいたんだけど、パッと見たら汚いパンツが置いてあって(笑)、一気に気持ち悪くなっちゃってなんか(笑)、「だれだよこれ……やめてくれよ……」みたいな感じでちょっと冷めちゃって(笑)、気持ち悪いなんか嫌な気持ちになってね、ちょっとその人に対する怒りみたいなのも出てきて(笑)、「ったく、ふざけんな」みたいな感じになったんだけど(笑)、ふっとまたそこで「あ!」って、「いや、それはおかしい」と思って――「だってわたしはこないだまで、すべてが女神とか神の現われっていうふうに分かって気づいてたはずなのに、なんでパンツだけ違うんだ」と思ったんだね(笑)。で、そこでちょっと「うっ」とまた心を変えて集中して、「いや、このパンツっていうのもわたしの観念によって生じた幻影である」と。わたしの心のけがれのあらわれとして、そういった観念的断定を下しているだけであって、このパンツという誰かの、前に入った人の汚いパンツっていう観念的あらわれも、純粋な神の領域からの祝福に過ぎない、って考えたとき、そのパンツを構成している原子の一粒一粒がダーキニーになった(笑)。

(一同笑)

 女神たちによって、そのパンツが構成されてるって分かったんだね。そこで「あー……」って至福になったんだね(笑)。
 これは、ちょっとわたしの経験を一つ二つ言いましたが――つまりこれが、その到達すべき点なんだね。で、年がら年中この境地にいられたとしたら、それはもう相当な高い境地。つまりすべては本当にただ純粋なんだと。
 もちろんそれは思い込んじゃ駄目ですよ。言葉とか頭で思い込もうとすると、本当はまだそうじゃないのに、それをそうなってるっていうふうに思い込んでしまうと、そのけがれが浄化されないから。
 だからまだそこまではいってないんだが、そういうもんなんだって普段から考えてたらいいね。
 そのためにわれわれは、この本来は純粋な至福であるものを封じ込めてるわれわれのカルマやけがれや観念っていったものを、一つ一つ引っぺがしていかなきゃいけないんだね。
 だからそれがここで言っていることだね。純粋な精神性がないとまずく感じるが、純粋な精神性があるとその食べ物だけではなくて、あらゆるものは永遠であり不老不死であり、純粋であり寂静であり云々と。至福である。ということですね。

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