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「聖者の生涯 ナーロー」⑨(1)

20100821聖者の生涯ナーロー⑨

◎マンダラ

【本文】
 ティローはまた一年間、黙って瞑想し続けました。ナーローはティローの周りを敬意を持って回り、教えを懇願しました。
 ティローは、「教えがほしいなら、ついて来い」と言って、歩き出しました。ティローは、大きな砂漠に入っていきました。ティローはゆっくり歩いているのに、ナーローはどれだけ一生懸命走っても追いつくことができず、疲労(ひろう)困憊(こんぱい)して座り込んでしまいました。
 ティローはナーローに、「教えがほしいなら、マンダラを作れ」と言いました。
 ナーローは砂でマンダラを作りましたが、マンダラにまく水が見つかりませんでした。するとティローは、
「お前には血がないのか。」
と言いました。そこでナーローは、動脈を切って血を流し、水の代わりにしました。
 次にナーローが、マンダラに飾る花をどこにも見つけられないでいると、ティローは、
「お前には手足がないのか。自分の頭を切り取ってマンダラの真ん中に置き、その周りに手足を置きなさい。」
と言いました。ナーローはそのようにしました。
 ティローはナーローに、「幸せか?」と尋ねました。ナーローは、「自分自身の血と肉でできた曼荼羅をグルにささげるのは、幸せです」と答えました。
 ティローは、

「けがれた快楽を持つこの肉体には、実体がない。
 しかしそれは同時に、永遠の至福の源でもある。
 中有である、心の鏡を見つめなさい」

と言って、ナーローの体を治すと、中有のヨーガの教えを伝授しました。

 はい。もう勉強会に何度も出てきてる人はね、だいぶ慣れてきたかもしれませんが(笑)。このナーローのわけの分からない世界にね(笑)。もうあまり驚かなくなってきたかもしれませんが、前回までの話でもいろんなね、ちょっとよく分からない試練がいっぱいあって、それをナーローが乗り越えてきたわけだけど。いよいよもう佳境に入ってきたわけですね。というよりも、もうほとんどこの段階においては、ナーローは相当高い段階というかな、完成直前ぐらいの段階といってもいいね。
 で、ここで、曼荼羅を作れと。自分の頭を切り取って真ん中に置き、その周りに手足を置いた――みたいに書いてあるけど、これは比喩ではなくておそらく本当にやったんだと思います。『八十四人の成就者』でもそういう話が出てきたと思いますが、つまりそれくらいのステージにあったんだね。自分の肉体の元素そのものを操れるステージっていうかな。これはもちろん相当高いステージではあるが、どんな聖者でもできるっていうんじゃなくて、こういった密教系の――つまり単純に心が悟りました、聖者ですねっていう世界ではなくて、元素的なものであるとかエネルギー的なものもすべてを操れるようになった人の、一つの特徴的な現象ですね。だから密教系の成就者とかヨーガ系の成就者は、こういうちょっと驚くようなね、肉体的な奇跡的なことをやるんだね、よくね。

◎純粋なる永遠の至高なる喜び

 で、ここでティローがナーローに授けた教えが、「けがれた快楽を持つこの肉体には実体がない。しかしそれは同時に永遠の至福の源でもある。中有である心の鏡を見つめなさい」と。
 これは読んだこの通りなんですが、つまりこの肉体というのは――これは原始仏教時代から、あるいは原始ヨーガから、四念処とかにもあるように、この肉体はもうけがれていると。けがれているっていうのは、いつも言うように糞尿の塊であるとかそういう意味でもけがれているんだけど、それ以前にね、この五蘊――まあ五蘊っていうわけですけども――色・受・想・行・識。五蘊ね。この五蘊は、お釈迦様の言葉を借りるならば、「五蘊は苦蘊である」っていう言い方をするんだね。苦蘊。五蘊っていうのはつまり五つの集まりという意味なんだけど、五つの集まりっていうのはつまり、色・受・想・行・識。肉体・感覚・表層の意識、そしてサンスカーラといわれるカルマの集まりみたいなもの、そして識別作用ね。これによって人間はできていますよと。で、それはすべて苦しみの集まりですよと。だからこの肉体をはじめとした人間存在っていうのはすべてけがれたカルマの受け皿というかな。カルマによって作られた、われわれが悪いカルマを経験するための道具でしかない。これが基本概念なんだね。
 しかし――いいですか、いつも言うように、原始的なヨーガとか仏教っていうのは、そのようにわれわれの存在自体を否定して、肉体を否定し、心の働きを否定し、あるいはエネルギーを否定し、すべてわれわれを魔に結びつけるものであるとして否定し、それらとは関係のないわれわれの心の本質にアクセスすることを目指したわけだけども、密教とかあるいはヨーガの世界では逆に、いつも言うようにね、いや、確かにこれはけがれていると。あるいは、確かに多くの苦しみをもたらすものではあるが、うまく利用すれば――つまりある特殊な方法を使えば、逆にこの肉体あるいは五蘊そのものが、われわれの進化の材料になると。あるいはわれわれに素晴らしい幸福をもたらす材料になるんだっていう考えなんだね。
 ヨーガなんかもそうです。つまり皆さんがやってるアーサナ・呼吸法・ムドラーに代表される、ああいうハタヨーガとかクンダリニーヨーガの教えもそうです。つまり普通はこの肉体っていうのは否定されるべきものなんだが、逆にこの肉体の機能あるいはエネルギーのシステムを利用して、われわれに早く悟りをもたらすようなシステムを考え出したわけですね。
 だからこのわれわれの肉体っていうのは非常にけがれていて、そして実体がないと。けどそれは、永遠の至福の源でもあると。
 ここで対比されているのは、けがれた快楽を持つ肉体。しかしそれは永遠の至福の源でもあると。つまりわれわれが経験している快楽――それは例えば若い人の場合は性的なね、セックスの喜び。あるいは食事の喜び。あるいは例えば涼しさとか暖かさとか。あるいは肉体だけではなくて精神的なね、例えば自分が褒められて嬉しいとか、あるいは好きな人と一緒にいると嬉しいとか、そういったこの五蘊によるね、われわれの現世的な喜びがある。で、それはすべてけがれた喜びなんだよっていう言い方をしている。何でけがれてるのかっていうと、われわれの心の本性とは関係のない、われわれが何度も生まれ変わって培ってきた間違った観念に基づいた喜びだから。つまりわれわれを低い世界に落とす喜びだから、それはけがれてるんだね。われわれがその喜びを追い求めれば追い求めるほど、われわれは低い世界に落ちる。あるいはこの偽りの世界に結びつけられる。それはけがれた喜びであると。
 しかし同時に、この肉体あるいは五蘊っていうのは、このけがれたといわれる輪廻の世界そのものも、大もとはですよ、大もとは仏陀の本性から生まれてるんだと。あるいはヒンドゥー教的にいうならば、大もとはシヴァあるいはクリシュナの至高なる本性から生まれてるんだと。そういう発想だね。
 じゃあ何が悪いのかというと、本来は純粋性を持っているはずのそのエネルギーをわれわれ自身がけがしてるんだと。われわれ自身が正しくない方向に向けてるから、それはけがれた喜びになっているだけであって、それを正しく、われわれの心の本性や、あるいは神や、そういったものに向けることができたならば、われわれは純粋なる永遠の至高なる喜びに達すると。
 これを別方向からやってるのがバクティヨーガです。つまりバクティヨーガっていうのは、いつもここでも言うように、例えばクリシュナっていうのを規定して、クリシュナに対するものすごい愛の感情、たとえば恋愛に似たような強烈な求める心を強めていくわけですね。これは一見、普通の男女間の恋愛と非常に似ているわけですけども、そうではなくてわれわれの心の本性、あるいは宇宙の本性そのものであるクリシュナにそれを向けることによって、この同じ感情の働きが、われわれを永遠の至福に結びつける感情に変わるんだね。
 でもわれわれはそうじゃなくて、対象を完全に間違ってる。あるいは感情や心の働かせ方、あるいはエネルギーの使い方を間違ってるんだね。つまり永遠でないものに心を向ける。
 例えば皆さんが好きな男性にしろ女性にしろ、当然永遠じゃないよね。永遠じゃないっていうのは、皆さんが例えばその女性の美しさに執着していたとしても、その美しさっていうのは当然永遠ではない。あるいは優しさに執着していたとしても、その優しさっていうのも永遠ではない。あるいは自分との関係に執着してたとしても、その関係も永遠ではない。というよりも、その相手自体が永遠ではない。ね。すぐ死ぬと。何十年も経たないうちに死んでしまうと。ね。もちろん食べ物なんて永遠ではないし、あるいは地位とか名誉とかお金とか、すべて永遠ではない。その永遠ではないものにわれわれが、心の働き、感情の働きを向け、肉体のエネルギーを使うことによって、われわれは疲弊し、そして低い世界に落ちていくんだね。
 じゃなくて、永遠なるもの。クリシュナという永遠なるもの。あるいはシヴァという永遠なるもの。これに対して――あるいはもちろん仏陀でもいいけども――ものすごい執着、あるいはものすごい渇愛。これを向けることができたならば、この同じ――例えば渇愛とか執着とか普通は悪いといわれてるものが、われわれに永遠の歓喜をもたらすものに変わるんだね。
 同じようにこの肉体のエネルギーも、このエネルギーを性欲に使ったならば、それは一瞬のわずかな快楽とその大いなるエネルギーロスで終わってしまう。その性欲そのものが――まあちょっと端的な言い方をすれば、性器を通じて――性器っていうのは、皆さん何だと思っているか分かんないけど、人間の性器っていうのは、われわれの魂と動物世界を結びつける絆です。絆。だからここからエネルギーばっかり漏らしていると、ここから――つまり目に見えないエネルギーの絆が動物界にできるんだね。で、死んだ魂は性器からの道を通って動物界に生まれ変わっていく。つまり皆さんが日々「ああ楽しいな」と、「ああ快楽だ」と思って――それは非常に短い、しかもたいしたことない快楽なわけだけど――それによって繰り返してきた性的修習が、結果的に皆さんを動物世界に結びつけてるだけだと。
 あるいは、お金を儲けて嬉しいなとか、物をいっぱい集めて嬉しいな――当然これはわれわれを餓鬼界に結びつける。しかしそれも、その一瞬一瞬の喜びっていうのはたいしたもんではないと。こういうものに例えばわれわれのエネルギーあるいは感情っていうものを費やしてるんだね。
 じゃなくて、もう一回言うけども、この肉体を使って、例えば礼拝をすると。あるいはムドラーをすると。あるいはもちろん精神的にね、神や解脱や救済っていうのを思うと。何度も言うけどね、もう分かってると思うけど、この同じものを使って修行ってやってるわけだね。つまり、普段人を憎んでるその同じ心っていうものを使って、慈悲を思うわけでしょ? あるいは普段悪いことをやっているこの体を使って、修行してるわけでしょ? つまりこの体、あるいは心、あるいはエネルギーっていうのは――何度も言いますが――われわれを悪趣に結びつける材料なんだが、もし皆さんが正しい教えと巡り会い、そして生きる方向を変えたならば、この悪しき苦蘊といわれる五蘊は、われわれを解脱や菩薩の世界やあるいは仏陀の世界にね、結びつける道具となるんだっていうことだね。

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