「聖者の心を瞑想する」
◎聖者の心を瞑想する
はい、ここまで特に何か質問とかありますか?
(H)聖者の心に集中するっていうのは……
これはね、二つ意味があります。一つは、心とか考えなくて、ただその聖者のことを思うだけでもいい。まず一つはね。
もう一つは、心って考えた場合、これはもう自分の理解の範囲でいいので――例えばミラレーパだったら、さあ、ミラレーパはどういう心を持っているだろうと。これはね、できるだけもちろん強い信を持った方がいいね。つまりミラレーパというのは、完全に現世を捨てていて、師匠への帰依とね、それから衆生への慈悲でいっぱいであって、おそらく完全にこの世の真理を悟ってるんだと。そのような大聖者である――ということを自分の想像でいいから、イメージして集中するんです。これが二つ目の意味。
そうじゃなくて一つ目は、ただ自分の心にある――ミラレーパ嫌いだったら駄目だけど、好きな場合――「ああ、ミラレーパ!」と。ぐーってやるんだね(笑)。他の聖者でもいいよ、もちろん。自分の好きな。
――だからそれは例えば、われわれから言ったらさ、その大聖者の心って分からないわけだから、もう想像でいいんです。想像でいいっていうか、その想像する行為自体が一つの瞑想になる。で、何度も言うけども、その土台には信が必要です。強い信があって、この人は本当に大聖者だと。そういうのがあったら、で、縁があったら、成功する。縁がなくても、ある程度の瞑想は成功します。自分がそういう信を持てばね。
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