「精進の完成」
第七章 精進の完成
【本文】
かように忍辱した者は、精進に身をゆだねるべきである。覚醒は精進に立脚するから。精進なくしては、実に功徳は得られない。それは、あたかも風なくしては運動がないに等しい。
精進とは何か。善に対する努力である。
その反対はなんと呼ばれるか。怠惰、汚らわしい悪になじむこと、落胆、自己への軽蔑である。
【解説】
仏教では、「四つの正しい精進」という概念があります。
①今できる善の実践を精進する。
②今はまだできない善の実現に精進する。
③今生じている悪の捨断に精進する。
④今はまだ生じていない悪が生じないように精進する。
【本文】
輪廻の苦しみを厭わないことから、(善への)不活動、楽への耽溺、惰眠(があり)、(それから)よりどころを渇望することによって、怠惰が生ずる。
【解説】
チベット仏教の実践では、修行の基礎段階で、輪廻の苦しみを徹底的に学ばせます。それによって、この輪廻の少なくとも地獄・動物・餓鬼界といった苦しみの世界を避け、できるならば輪廻を抜け出そうという強い欲求を起こさせるためです。
しかしこの輪廻がいかに苦であるかという認識が甘いと、その苦を逃れるための善への努力の心が足りなくなります。また、その裏側に苦が潜んでいる楽を、そうとは知らずに求めるようになり、楽に耽溺します。そして今与えられた時間の貴重さを認識できずに惰眠をむさぼるようになります。そしてあいまいな形で輪廻の中によりどころを求め、輪廻から脱却しようという欲求なく、あせりもなく、ただ怠惰になじむようになってしまうということですね。
【本文】
煩悩という猟師にかぎつけられて、汝は生の網の中に入った。今に及んでなお、汝は死神の口の中にいることを知らないか。
汝は、同胞が順次に殺されているのを見ない。しかも汝は、屠殺業者によって(屠殺される運命にある)牛のように、惰眠をむさぼっている。
死神ヤマ天によって監視せられ、行く手の全てふさがれた汝に、どうして食の楽しみがあり、惰眠があり、恋愛がありうるか。
【解説】
そして我々は徹底的に、自分の死についても考えなければなりません。
ここは面白いたとえがありますね。つまり煩悩の悪魔という猟師、この猟師の罠にひっかっかり、我々は、「人生」という網に捕らえられてしまいました。
同胞は、どんどん殺されています。だってそうでしょう? 周りを見てください。周りの人間は、毎日、どんどん死んでいるのです! しかし我々はまだ、そのような危険な悪魔の罠にかかっていることに気付かずに、ぼーっとしているのです。それはちょうど、屠殺業者の牛のようです。仲間の牛が次々と殺されても、牛は、自分の身に迫る将来の危険を、真剣に考えることはありません。平和に草を食む毎日が、明日も続くと思っているのです!
しかし我々はすでに、完全に、死神によって行く手をふさがれているというわけです。つまりもう我々が、死神の手から逃れるすべはないのです。「生」という罠の中に入ってしまったからには!
このような絶望の状態にある我々が、この苦境から逃れるすべを考えることなく、のほほんとして味覚を楽しんだり、惰眠を楽しんだり、恋愛を楽しんでいる暇があるのか、ということですね。
【本文】
死は、準備を整えた後に、汝に襲いかかるであろう。その際に怠惰を捨てても、時ならざるときに、汝は何をなしうるか。
「これはまだ果たされていない」「はじめられたばかりである」「半分なされたままになっている」。それに、死が突然訪れてきた。ああ、私は滅ぼされる。--と考えつつ--激しい憂いに目ははれ、涙のために目の赤くなった親戚達が、絶望に沈んでいるのを眺めながら--ヤマの使者の顔を目の前にして、犯した罪の思い出にさいなまれ、地獄の叫びを耳にしながら、恐怖のためにもらした不浄物で身を汚し、取り乱した中で、汝は何をなすであろうか。
【解説】
死が準備を整えるというのは、死のカルマが熟したとき、ということでしょう。しかしそのときがいつ来るかは、全くわかりません。そして「そのとき」がやってきたら、もう遅いのです。死がやってきたときに、「よし、怠惰を捨てて精進しよう」などと考えても、もう遅いのです。ゲームオーバーなのです。
人は瞬間瞬間、今なすべきこと、今なすべき修行を全力でなすべきです。しかし怠惰によりいろいろなことを中途半端にしている間に、死がやってきます。そこで我々は絶望に陥るでしょう。パニックに陥り、過去の悪業を強く認識し、悪しきバルドの恐怖にさいなまれながら、死んでいかなければなりません。
【本文】
「私は(生簀に)生かされている魚に等しい」と、ここで汝がおそれを抱くのは当然である。まして悪を犯した汝が、激しい地獄の苦しみを恐れるのはしかるべきだ。
か弱きものよ。汝は熱湯に触れても痛傷を受ける。地獄のカルマを作りながら、どうしてかように安らかに座っておられるか。
【解説】
自分は、屠殺されるために生かされている牛のような、あるいは調理されるためにわずかな間生簀に入れられている魚のようなものであると、まず死について考えなければなりません。
そして次に、自分のなしたカルマを顧みるに、多くの悪業を、過去世においても、今生においても積んできたのだということを、認識しなければなりません。死が必ずやって来るということだけでも一般的に恐ろしいけれど、自分の場合、膨大な悪業があるので、今死んでしまったら、地獄に落ちてしまうかもしれません。よってそれを強く恐怖するのです。
ところで、最初の方で、精進の反対として、「落胆、自己への軽蔑」というのがありましたね。これはどういうことでしょうか?
「私はカルマが悪いので、地獄に落ちてしまうかもしれない」と落胆し、単に自己嫌悪に陥り、卑屈になり、やる気をなくしてしまう--こんな状態は駄目だ、といっているのです。
そのような状態は、リアルな認識が足りない状態です。
たとえば、こう考えてみましょう。あなたはベルトコンベアーに乗せられています。少し先に、地獄が見えます。このまま行くと、地獄に落ちてしまうことが明らかです。
そのようなときに、「どうせ俺はカルマが悪いから」と、卑屈になって何もしない人がいるでしょうか(笑)?--いたら逆に、すごい勇者だと思いますね(笑)。目の前にリアルに地獄が迫ってきているのが見えたら、普通は、卑屈になっている暇などなく、何とかしてそこから逃れようと、全力を尽くすでしょう。
あるいは、お釈迦様がよくお使いになったたとえとしては、「頭に火がついた男」ですね。--頭の髪の毛に、あるいは帽子でもいいですが、火がついてしまいました。もちろん、そのままにすればあっという間に火は髪の毛を焼き、皮膚を焼き、大やけどか、死に至るかもしれません。
そのときに、「私はカルマが悪いから、頭に火がついても仕方ないんだ」といって、卑屈になったり怠惰になる人がいるでしょうか(笑)?
だから、自己の悪業、カルマの悪さを認識して暗くなったり卑屈になるというのは、リアルな認識がまだまだ足りないんですね。本当にお釈迦様がお説きになった輪廻の教えを信じ、本当にカルマの法則を信じ、そして本当に自己の犯してきた悪業を認識し、その果報としての来世の苦しみの世界を恐怖するならば、卑屈になる余裕はないし、落胆する余裕もないのです。もう死に物狂いで、一分一秒も惜しんで、その悪業を浄化するための修行と善の実践に励むことでしょう。
だからこの懺悔から来る慙愧、すなわち自己の罪や自己の心の汚れを恥じる気持ちというのは、精進の土台なのです。
【本文】
励まないで果報を望む者よ。か弱くて、苦難の多い者よ。すでに死に飲まれながら、自ら不死だと思う者よ。ああ、不幸な者よ。汝は自滅の道をたどる。
人間という船を得たうえは、それで苦しみの大河を渡れ。おろかな者よ。惰眠をむさぼるときではない。この船は再び得がたい。
【解説】
ここは、これまでも何度も出てきましたね。
人間の生が、船にたとえられています。なぜなら、この人間という生は、努力しだいで、天へいたり、あるいは苦しみの輪廻から解脱する可能性を秘めている生存形態だからです。しかし同時に、生き方を誤ったなら、地獄へいたる船にもなってしまいます。
だから今のこの生は、大きなチャンスであると同時にピンチなのです。まさに今、勝負のときなのです。だから惰眠をむさぼっている暇はないのです。
非常に低い確率で、我々はこの人間の生というチャンスを得たのですから、惰眠をむさぼったり怠けている場合ではないのです。
さあ、すでに四つくらいの、精進を促す項目が出てきましたね。
①輪廻がいかに苦しみであるかを考える。
②死は必ず来る。そしてそれはいつやってくるか全くわからない、ということを考える。
③自己のカルマの悪さを認識し、死が来る前に、死に物狂いで修行しないとまずいぞ、ということを考える。
④今、人間の生を受けていることが、いかに貴重なチャンスであるかを考える。
これらについて深く考えさせることは、現代のチベット仏教においても基礎としてやっていますね。
これらをリアルに、心を込めて何度も何度も考えることで、精進の土台ができてくるでしょう。1日6回くらい、これらのことを考えるといいのではないかと思います。