「瞑想の完成」
第八章 禅定の完成
【解説】
いよいよ、瞑想の章に来ました。
現代の学者のかたがたは、この後の第九章、智慧の章こそが、この入菩提行論の重要部分と考える方が多く、他の部分にはあまり注目しない人が多いと聞いたことがあります。
しかし私は逆に、第一章からこの第八章に至るまでの部分が、第九章に勝るとも劣らず非常に重要であり、特にこの第八章こそが、この論書の心髄部分ではないかと考えています。
【本文】
かように精進の力を増大して、その後、心をサマーディに安立すべきである。なぜなら、心の散乱した人は、煩悩の牙の中にいるから。
身体を(世間から)、そして心を(愛欲等の雑念から)引き離すことによって、散乱は生じない。ゆえに世間を捨離し、雑念を放棄すべきである。
愛著のために、また所得などを渇望するために、人は世間を捨てかねる。ゆえに、それを捨て去るために、賢者は次のように認識せよ。
すなわち、心の停止(シャマタ)によって、観察力(ヴィパシャナー)を十分に具えた者は、煩悩を滅ぼしうる--と、かように知り、まずはじめに、心を静めることを追求すべきである。そしてそれは、世間に対する無頓着の喜びから生ずる。
【解説】
ここはまず瞑想の基本的な教えを説いていますね。
心の停止の瞑想(シャマタ)と観察の瞑想(ヴィパシャナー)については、すでに何度も触れていますが、まずは心の停止に励まなければなりません。心が静まっていないと、観察も何もあったものではないからです。
ですから瞑想家は、必要以上にあまり世間に染まらず、また精神的にも煩悩の動きを静めていかなければなりません。
「世間に対する無頓着の喜び」とありますが、現世的な富、愛欲、地位、名誉、プライド・・・こういったものから心が引き離されてくると、ものすごい喜びが生じるのです。これは比喩ではなくて、実際に心身が安らかで歓喜になります。特に大乗の修行者のように、功徳を積んでいる人はそうですね。
逆に言うと、現世への欲求、執着が、ある程度断ち切られないと、そのような寂静・歓喜・安定の瞑想は実現されず、ましてその心を観察して悟りを得ることなど到底不可能だということです。よってまずは修行者は、心を現世から引き離し、静めていくことからはじめなければならないのです。