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「生命欲」

◎生命欲

【本文】
『スワラサヴァーヒー ヴィドゥショーピ タタールドービネーヴェーシャハ

それ自身の本性の中を流れており、賢明な人にさえもあるといわれるのが、生命欲である。』

 はい。この生命欲っていうのは、「生きたい」「死にたくない」っていう煩悩で、われわれは普段はあまり認識はしない。認識はしないけども、根本にあるんだね、われわれのね。
 これは「賢明な人にも」っていうのは、「心がきれいで修行が進んでてあまり執着ないです」と。「あまり嫌いな人もいません」と。あるいは「ある程度ものをありのままに見れます」と言う人でも、生命欲っていうのはすごくあるっていうとこだね。
 つまりわれわれは永い、永い間もう輪廻に結び付けられてて――つまり逆の言い方するとわれわれが死んでも生まれてくるっていうこの輪廻。これ自体も生命欲のあらわれなんです。自殺しても生まれ変わります。なぜかっていうと根本に生命欲があるから。自殺したらどうなるかって話って質問としてよく受けるけども、自殺しようが自殺しまいがその人の生きていたときのカルマによって当然生まれ変わるわけだけど、自殺ってある意味――自殺自体がどうこうっていうんじゃないけども、例えばある百ぐらいのカルマを経験しなきゃいけない人生があったとして、それが五十くらいで「耐えられない」っていって自殺したとしたら、今生の五十、プラス来世に加算されるわけだね。だからより苦しい人生になる。来世ね。それだけといってしまえばそれだけなんだけど。 だから自殺自体に問題があるっていうよりはそこで逃げてしまうことによって、今生の分を加算された苦しみを来世味わなきゃいけない。つまり自殺したいっていう人は別に生命欲がないから死ぬんだっていうんじゃなくて、逆なんです。この人生っていうか、生命っていうか、「自分の思い通りに生きたい」あるいは、喜びにとらわれすぎてて、執着やあるいは苦しみにとらわれすぎてて嫌悪が強すぎて、そのように思い通りになれない状態から逃げてしまう。その裏側にはものすごい執着があるわけだね。だから自殺する人も同じです。あるいは自分のことを卑下する人達も同じです。いつも言うように、卑下とか卑屈さの裏側にはプライドがあります。つまり完全に自分っていうものを持ちすぎてるから、そういう状態が起きるんだね。
 だから口でいくら「いや、私はもう自分に対してなんの執着もないんだ」とか、あるいは「生きることにあまり価値を求めてない」とかいう人がいたとしても、その根本ではものすごく求めてるんだね。で、もがいてるわけです。ものすごく求めてるんだけど、どうしたらいいか分かんない袋小路に追い込まれてしまったという状態だね。
 でもこれはね、良いことではあるんだよ。良いことっていうのは、そこまできて縁と徳があれば、「修行しかないのか」ってなるから。そこまで追い込まれてやっと、「やっぱり修行しかないのか」と。
 私、いろんな人に会ったけども、修行始める人で多いパターンって、小さいころから、この世から消えたいと思ってた人って結構いるんだね。つまり死にたいじゃなくて、消えたい。存在をなくしたいと。そういうことを思ってたっていう人、たくさん聞いたことがある。それは言葉を変えればニルヴァーナなんです。つまり輪廻からの解脱なんだね。でもそれは、「はい。そうですか。じゃあ、はい」って感じじゃ不可能なんだね。死んだからってそれは解脱できるわけじゃない。
 これがだから魂の一つの旅なんだね。魂がいろんなことを輪廻で経験して、もう行き詰まるんだね、最後は。最初は喜びを「わー」って求めて、苦しみから「わー」って逃げての繰り返しをやってるんだけど、だんだんだんだん、カルマが行き詰まって、「あれ? この世って苦なんじゃない?」ってことに気づき始める。気づき始めるけども、袋小路に入ってる。逃げたくても逃げられないし、この現世で完全な至福を実現することは不可能だっていうことに気づき始めた。「さあ、どうするんだ」と。「解脱しかないの?」っていう状況に追い込まれるんだね。そこで縁とか徳があると、みなさんのようにちゃんと修行できるような環境とか条件が整うわけだけど。

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