「煩悩への宣戦布告」
【本文】
愛着、憎しみなどの我が敵は、手も足も持っていない。剛勇でもなければ、智慧もない。それなのにどうして彼らは、私を召使としたか。
しかも彼らは、我が心に住まい、そこに安住して私を打ち滅ぼす。にも関わらず、私はこれに憤りを起こさない。ああ、誤った忍耐心よ。
たとえ一切の神々と人間とが私の敵であったとしても、私を無間地獄の火の中に引き入れることはできない(しかし私の煩悩はそれを可能とする)。
この火にあえば、スメール山さえも、灰さえも残らないほど焼き尽くされる。煩悩という強力な敵は、私を一瞬にしてそこに投げ込む。
他のすべての敵の寿命は、長くても実に彼(煩悩)のそれほどではない。私の煩悩という仇敵の寿命は、はなはだしく長い。
すべての者は、もし忠実に仕えられれば、奉仕者に幸福を与える。しかしかの煩悩は仕えれば仕えるほど、奉仕者に苦しみを起こさしめる。
かように相続することの久しい煩悩という敵が、苦悩の奔流を生ずる唯一の原因として我が心に住するとき、どうして私に、恐怖心なく、流転の喜びが起こりえようか。
※注 暗鬱たる人々に死の苦しみを与える(煩悩という自然の敵)を、激しく殺そうと戦闘の前線に私は躍り出る。矢と槍の傷の苦しみをかえりみず、勝利を得ないでは踵を返さない。
常に一切の苦しみの原因である(煩悩という)自然の敵を、討ち滅ぼそうと立ち上がった私に、たとえ百の悩みがあったとしても、今どうしていかなる理由から、絶望と落胆がありうるか。
人々は敵の与えた傷跡を、あたかも飾りのように、理由もなく手足につけている。大目的(すなわち衆生の救済)を成就するために立ち上がった私に、苦しみがどうして妨害となり得るか。
漁夫、チャンダーラ、農夫などは、ただ己の生活のために専心して、寒暑等の苦悩をしのぶ。
ならば衆生の救済のために専心している私が、どうして苦悩をしのべないか。
十方の空間の果てに至るまでの世界を、煩悩から解放しようと誓言しながら、私自身は煩悩から解放されていない。
自身の状態を知らないで主張する者は、狂人に等しい。それゆえ、私はこれから常に煩悩の殲滅に不退転となろう。
私はそれにつかみかかろう。そして煩悩を憎み、戦を交えよう。ただ、煩悩の掃滅に関係のある種類の煩悩は例外である。
たとえ私の腸はこぼれ、首が落ちても、煩悩という怨敵に、私はゆめゆめ身を屈しない。
普通の戦においては、敵は戦闘に負けたとしても、また他の地方に拠点を構えるであろう。そして力を盛り返し、再び攻撃してくるかもしれない。
しかしこの煩悩という敵には、かような避難所はない。
私の心の住人たる彼は、追い立てられてどこに行くであろうか。そこに住み着いて彼が私を殲滅するために努力するであろう場所は、ただ愚鈍に基づく私の無気力だけである。煩悩は、智慧にまみえれば直ちに消え去る賎しい存在である。
煩悩は対象に存在せず、感覚の中にも存在せず、その中間にも存在せず、それ以外のところにも存在しない。しからばそれはどこにあって、全世界をかく乱するか。それは、ただ幻に過ぎない。それゆえに、我が心よ、恐怖を捨てよ。悟りのために励みを行なえ。どうして汝は、地獄で自己をいたずらに苦しめるのか。
以上のように決意して、私は仏陀の説かれた実践規律を実践するための努力をする。
医薬によって治療せらるべき者が、医師の命令を守らないで、どうして健康となりえようか。
【解説】
愛着や憎しみなどの煩悩、これは我々の敵です。なぜなら、これら煩悩のおかげで、我々は苦しみを受け、悪趣にも落ちるからです。しかし我々はこのとんでもない敵の召使のようになっているのです。なぜかこの苦悩しか与えない敵の言いなりになっているのが私たちです。
この煩悩という敵は、我々の心に住んで、我々に苦しみを与え、我々の肉体も精神も良いカルマもすべて滅ぼします。こんなとんでもない敵に対して、なぜか我々は怒ることがないのです。これをシャーンティデーヴァは「誤った忍耐心」と呼んでいます。
現代人はちょっとしたことで自分の被害を叫び、加害者を非難しますが、最も攻撃すべき加害者は、自己の心の中にいるのです。
たとえこの世界のすべての生き物が自分の敵だったとしても、私のことを地獄に落とすことはできません。なぜなら、地獄に落ちるかどうかは、自分の心の状態やカルマによって決まるのであり、他者の介入はそこにはないからです。しかし自己の心に住む煩悩というこの敵は、一瞬にして我々を地獄に落とすこともできるのです。
そして、普通、金持ちの主人などは、召使が忠実に仕えれば、給料を与え、あるいは様々な恩賞を与えたりもするでしょう。しかしこの煩悩という主人は、我々が忠実に仕えれば仕えるほど、苦しみをもたらすのです!
しかも、普通、たとえば嫌な敵がいたとしても、そのうち死んでしまうか、どこかに行ってしまうかもしれません。しかしこの煩悩という敵は、私が何とか打ち滅ぼさない限り、永遠に死なず、私の心に住み続けるのです。
よって今こそ私は、この煩悩という敵と戦うために立ち上がり、戦を交えよう! というシャーンティデーヴァの勇ましい決意が、ここには語られています。
命をかけた戦争においては、私は矢や槍が体に刺さったとしても、煩悩を打ち滅ぼすまでは、決して逃げ戻ってこない!――このような強い決意を持った私に、たとえ百の悩みがあったとしても、どうして絶望と落胆がありうるか――これはどういうことかといいますと、もうこの人は、「逃げる」「戦いをやめる」という選択肢を捨てているのです。この場合においては、「さて、どうやって勝とうか」という悩みはたくさんあるでしょうが、絶望とか、落胆などはありえないのです。不退転、つまり負けても負けても進み続け、必ず最後は勝つ!--という決意があるわけですから。
漁夫や農夫やその他の人々は、暑さや寒さや、その他の苦痛に耐えて日々を送っています。しかし彼らがそれらの苦しみに耐えているのは、生活のためです。あるいはそこで得られるお金などのわずかな快楽のためです。
しかし菩薩は、すべての衆生を救うという大目的のために立ち上がったのですから、普通の人の味わう苦しみはもちろん、その何万倍もの苦しみさえも耐えようというくらいの強い決意が必要なのです。そのような心構えが。
「私はそれにつかみかかろう!--たとえ私の腸はこぼれ、首が落ちても、煩悩という怨敵に、私はゆめゆめ身を屈しない!」
――こういった箇所は、私は好きですね。つかみかかってください。「まあ、煩悩もいいんじゃないですか?」とか、「まあ、そのうち何とかなるでしょう」とか、「まあ、自然に任せましょう」とかいう、間違った楽天主義、間違ったバクティ・ヨーガが、最近の宗教界や精神世界にははびこっているように思えます。しかしバクティ・ヨーガにしろ仏教にしろ、本来はこのような激しさを必要とするものだと私は思います。つかみかかり、殴りかかり、完膚なきまでに叩きのめすのです!--たとえその戦いにおいて自分の腹が裂かれ、腸がこぼれ、首が落ちても!--首がない胴体だけになっても、煩悩と戦い続けよう!--「シャーンティデーヴァ(平和・寂静の神)」という名前とはそぐわないような勇ましい表現が展開されていますね。しかし本来、シャーンティとは、動物的なぼーっとした平和のことではないのです。それは煩悩などの汚れが滅された、寂静の平和です。だからその境地を得るまでは、シャーンティデーヴァは煩悩と勇ましく戦い続けるのです。そしてもちろん我々もそうしなくてはなりません。
そして煩悩というのは、私の心を住処としているので、もしここを追い出されたら、他に行くところがないのです。戦に負けた煩悩が再び力を盛り返す場所、それは「愚鈍に基づく私の無気力」だけだといいます。つまり我々が愚鈍になり、無気力に陥ってしまったなら、当然、また煩悩は力を盛り返してきてしまうでしょう。しかしこの章のテーマである「不放逸」に我々が励むならば、そして悟りの智慧という光によって照らすならば、直ちに消え去ってしまう――煩悩などは、高々その程度の敵なのです。
よって我々は、愚鈍・無気力を捨て、悟りを得るためにただひたすら不放逸に励むべきなのです。
そしてそのためには――病人が医師の忠告どおりに生活し、薬を飲んで初めて治療されるように――衆生の医師である仏陀の言葉を我々は忠実に聞き、守り、その教えどおりに生き、修行することが求められます。仏陀の命令を守らないで、どうやって悟りを得ることができるのか――こうしてシャーンティデーヴァは、この「不放逸」の章を締めくくっています。
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