「無駄な希望・行為・知識」
◎無駄な希望・行為・知識
【本文】
無駄な希望を持ち、無駄な行為をし、無駄な知識を持っている愚者たちは、
妄想に満ち、ラークシャサや阿修羅のような魔的な性質を持っている。
ラークシャサというのは、日本語でいう羅刹というやつだね。ちょっと鬼みたいな魔的な性質を持った神だね。
無駄な希望を持ち、無駄な行為をし、無駄な知識を持ち、妄想に満ち云々と書いてありますが、これは現代のわれわれにとっては耳の痛いところだと思うね。現代のわれわれは、多くの妄想に満ち――つまりこういうことを言っても、別にすべての人間にそれを強制するわけじゃないんだけども――もともとヒンドゥー教やあるいは仏教で説く古来の理想的な人の生き方っていうのは、仏教だったら解脱を求めて、あるいはヒンドゥー教だったら神の意思に基づいて、純粋に与えられたカルマを生きると。これがわれわれの人生だと。それがカルマ・ヨーガの考え方だね。
でも現代の人はそうじゃなくて、多くの情報を与えられて、「こうなったら幸せなのかな?」「いや、こうなったら負け犬だな」とか(笑)、いろいろ情報を与えられて、その観念の中でいろんな妄想をして、「ああこうなりたい」「こうなったらおれはもう駄目だ……」ってやりながら、いろんな無駄な努力をして、無駄な希望を持ち、無駄な知識を入れ、無駄な行為をしてると。
もちろんこれは昔の話ではあるけども、現代ではよりその部分が大きいと思うね。つまり、本来われわれに課せられた、今生なすべきことというのがあるわけだけど。あるいは個々人のなすべきこととは別に、誰もがしなきゃいけない――つまり自分の魂を磨き、神に近づき、真理を自分で見極めるための生き方というかな。それにこそ努力をし、そしてさっき言ったように、知識ではなく自分の眼を開いて、真理を見なきゃいけない。そのための補助的な知識というのは必要だよ。例えばカルマの法則とはこうですよ、あるいは仏陀はこう言っていますよ――こういうのは必要だけども、そうじゃない――例えばこの世でうまくやっていくための知識とか、あるいは自分の今やろうとしている修行を、「それはそうじゃないんじゃない?」っていうような、ちょっと崩すような知識とかね。
修行の考え方とか教えっていうのは、ぶっちゃけて言えば、全部方便だから。方便っていうのは「道」なんだね、道。道っていうのは、つまり、客観的真理ではないんです。道なんです。方法なんです。つまり、「それをやればあなたは悟るでしょう」――これは仏陀の教えであり、ヒンドゥー教の教えなんです。現代的にいう科学的な、現象としてこれは客観的絶対的にこうですよっていうんじゃないんだね。だからそれはいろんな道があっていいんです。だからさっきから言っているように、その道にいったん入ったら、懸命にその道に純粋に従わなきゃいけない。
でも現代の人というのは、情報を欲しがるから、いろんな情報――特に現代ではインターネットもあるし、いろんなところでいろんな情報を見て――例えば例を挙げるとさ、何がいいとか悪いとかは言わないけども、例えばチベット密教のカギュ派の師匠についたとしますよ。カギュ派の師匠について、「さあ、おれはカギュ派の道を歩もう!」と。うわーって頑張ってたけど、だんだんちょっと苦しくなってきて、「ちょっと修行苦しいな」と。「しかしこれを乗り越えるんだ!」と思ったんだけど、ちょっと苦しいからインターネットでも見ようかなと思って見たら、インターネットで「カギュ派はこういうところが間違っている」とか書いてあったとして、「ああ、やっぱりな」と。「苦しいからちょっとカギュ派やめようかな」と(笑)。本当はそこで、そんなのは排除して信じて乗り越えなきゃいけないんだけども、自分のエゴが弱いから、そういう情報の好きなところを取りたがるんだね。
教えにおいては、「偽つんぼ老人」になってはいけない(笑)。「偽つんぼ老人」ってどういうことかっていうと、コントとかでよくあるよね。昔、ちょっとデータが古いかもしれないけど、私の時代は「八時だよ、全員集合!」とかを見てて(笑)。志村けんとかがやるおばあさんとかの役とかで、そのおばあさんに、「これやってくださいよ! これどうしたんですか?」とか言っても、「ああ?」「うん?」とかいって、聞こえない。でも、「このくそばばあ!」とかいうと、「何だこのやろう!」と(笑)。「え? 聞こえてるのか」って(笑)。都合の悪いことは聞こえないと(笑)。自分のエゴに都合の悪いことは聞こえないんだけど、そうじゃない自分のエゴが好きなことは聞こえると。
あるいはまた別の言い方をすると、フィルターがあっちゃいけないんだね。人間って大体フィルターを持ってる。例えば同じ本を読んだとしても、都合の悪いところはあまり入ってこない。ちょっとエゴがブロックするんだね。都合のいい、自分のエゴが喜ぶところだけばーっと入ってきて、「ああ、よく分かりました」と。
例えば、仮にだよ、私が、Sさんにはこういうエゴの駄目なところがあるから、Sさんを変えたいと思って、「この本を読みなさい」って読ませたとする。でもSさんは、私がここを読んで欲しいと思ったところは全部ブロックして、違うところだけ読んで、「いやあ、先生、本当に良く分かりました」。「ああ、本当か、分かったのか!」って思っても、全然変わってないと(笑)。これが人間のエゴの汚いところなんだね。
だから、そうであってはいけない。そうじゃなくて、われわれは何をやりたいのかと。修行の道っていうのは、単純にエゴにのっとって知識を弄ぶ道ではなくて、自らが心の眼を開いて、ありのままに真理を悟らなきゃいけない。そのための道なわけだね。そのために努力しなければいけない。
でもそうじゃなくて、現代では情報の飽和状態だね。お釈迦様の時代って、情報っていうのはあまりないよね。本とかもないし、テレビもないし。例えば若い弟子がお釈迦様に出会って、すごく感動して、修行の道に入りましたと。でも例えば友達とか親とかがやってきて、「お前、そうじゃなくてもっとお金を稼いでね、いい女と結婚して、そのいう道の方がいいんだよ」って言って、それで若い弟子がそそのかされて家に戻っちゃってね、修行をやめちゃったとかいう話もあるわけだけど、実際に。そういう単純な話じゃなくなってるよね、もう現代では。
例えば修行やろうと思ったら、「いや、結婚したほうがいいよ」――そんな単純な問題じゃなくて、いろんなパターンのいろんな情報に、われわれはもうぐちゃぐちゃになってわけが分からなくなってる。何が本当に正しくて、何が幸せで、何が不幸せなのか、もう価値観が多様化し過ぎてる。価値観が多様化し過ぎただけならいいんだけど、その中で自分というのをしっかり持って、見極めて、「いや、みんなはこう言っているけど、これこそが私の道だ」っていうんならいいんだよ。そうじゃなくて、いろんな情報に押し流されて、無駄な努力をしている。あるいは無駄な行為をしている。無駄な知識を弄んでいる――これは駄目だっていうことだね。