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「教えの修習の重要性」

◎教えの修習の重要性

【本文】
 もし、この三つの生命体いずれの条件もそなえていない者が死を迎えたならば、生きている間に多く修習したいずれかの真理の教えを繰り返し思念しながら死を迎えるべきである。死はいつやってくるかわからない。死を迎えた緊急時においても真理の教えを思念できるように、普段から繰り返し真理の教えを心に根付かせておくべきである。

 つまり、死んだらすぐに仏陀になれるような境地にはもちろんないと。ね(笑)。そして四つの光の経験とかもあんまりしてないと。そしてバルドとかギーターの教えとかが、死後の世界で自然に出てくるほども修習してなかったと。「やばい!」と(笑)。この人が、ああ、でも死にそうだと。もうこれはだから最終手段です。もうしょうがない。とにかくすぐに死後に出てくる可能性はないが、一番可能性のあるもの、つまりあんまりおまえ、修習してこなかっただろうと。してこなかったみたいだけど、その中でも一番修習したのはどれだと。要するに、一番修習したものを死の直前に修習するんだね。まああんまりなんか教えとか修習してなかったけど、しいて挙げるならば『バガヴァッド・ギーター』かなと。よし、それだったら『バガヴァッド・ギーター』を徹底的に――もっと短いのでもいいよ。例えばこの発菩提心の詞章はいつも唱えてたなと。じゃあ発菩提心の詞章でいい。発菩提心の詞章をワーッて唱える――とかね。しかし、それさえもできないかもしれない。つまり死の緊急時において、そんなこと頭からすっ飛ぶ。そんなんじゃもう最悪です。よって、そのときになんとか真理の教え、あるいは神や仏陀を思い出せるように、普段から徹底的に修習をしなさいと。
 だからわたしいつも言ってるよね。短い人生で――よく多くの人は瞑想っていうと、無の瞑想をやっぱりみんなやりたがるんだね。はい、瞑想しましょう、心を無にして――まあこれはこれでもちろんいい瞑想です。それはそれでね。でもそれよりも、修習系の瞑想をいっぱいやった方がいいんだね。徹底的に神への愛を修習するとか、菩提心を修習するとか、慈悲を修習するとか。それのみが、われわれの中にそのようなものを確立してくれる。無の瞑想をやっても、そのときはいいんだけど、何も別に創造されないから。経験はするけどね。経験はするけど、創造はされない。よってひたすら――もちろんそういう無になる瞑想も、一日のうちでちょっとはやるのはいいけども、大部分は創造的な瞑想をやった方がいいです。つまり自分の心を作り変える瞑想。それをどれだけやったかによって、死の直前のパニックのときに、さあ、何が出てくるかが決まる。
 面白い話があって、ヒンドゥー教のインドの人たちって、本名もしくはミドルネームとかに、神の名前をくっつけるんだね。だからクリシュナさんっていっぱいいるんです(笑)、結構インドで。そこらへんのなんか店屋のおやじさんとかがクリシュナさんだったりする。あるいはラクシュミーっていう女性とか、サラスヴァティーとかそういう女神とか神の名前を結構つける。本名でつけたり、あるいはミドルネームでね、何とか・何とか・クリシュナ・何とか。つまり普段から呼ぶ名前としては「クリシュナ、クリシュナ」って呼んでる。何だっけ? K君もインドで……

(K)ラーマクリシュナシヴァーナンダ。

 ラーマクリシュナシヴァーナンダっていうすごい名前の人と会ったって(笑)。まあとにかくそういうのをつける。ね。で、子どももその名前で呼ぶんです。これ、何でだと思いますか? じゃあT君、何でだと思う? 子どもに神の名前をつけて、みんなその名前で呼ぶんです。

(T)その神の名前を修習させるため?

 それは五十点だね(笑)。

(T)このバルドの話と関係ありますか?

 もちろん関係ある。

(T)死後の世界で、何だろう、その神のイメージが出てきやすくするくため。

 まあ、もちろんそうなんだけど。今五十点って言ったのは、その子のためというよりは、周りのためなんです。

(T)ああ、なるほど。

 そう。つまり周りが、例えばかわいい子どもが生まれたらね、「ああ、クリシュナちゃん、クリシュナちゃん」「ああ、クリシュナ、クリシュナ」って言うわけです。
 面白い話があって、これはある経典に載ってるんだけど、ある男が息子にね、さっきの話じゃないけど、息子にナーラーヤンっていう名前をつけてた。ナーラーヤンってヴィシュヌ神のことです。ヴィシュヌ神の別名なんだけど、息子にナーラーヤンっていう名前をつけてたんだね。で、息子に超執着してた。もう溺愛してた。で、そのお父さんが死ぬときに、もう息子のことで頭がいっぱいだった。で、「ああ! ナーラーヤン、ナーラーヤン!」って死んだら、ヴィシュヌ神が出てきたっていう(笑)。

(一同笑)

 だからそれは一つの理想的な例なんだね。つまりそのためにやってるんです。つまりヒンドゥーの人たちは子どもに、かわいい子ども――つまりかわいい子どもだから集中するじゃないですか。「ああ! クリシュナ! クリシュナー!」ってやるわけです。それによって死ぬときも「ああ! クリシュナ! クリシュナ!」って出てきて、それからもちろんクリシュナ神のことも普段から信仰してるから、それが結びついてクリシュナ神とかが出てきたりする。イメージとしてね。そういうことをやるんだね。
 ただこれももちろん補助的な話だよ。うん。実際に例えば「クリシュナー!」って言ってその神のイメージと結びつかなかったら、単純にその子どもが出てきて終わるかもしれない。
 これは日本の南無阿弥陀仏とかもそうだけどね。ひたすら南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏って生きてる間に唱えると。本当にこれが成功したら、死のときにも南無阿弥陀仏と唱えることによって、阿弥陀様が出るかもしれない。でもなかなかそれは難しいかもしれないね。それはだからその人の信仰心の強さによるでしょう。だからあの浄土教っていうのは、そういう意味でいったら日本のバクティ・ヨーガかもしれないね。一つはね。徹底的にその阿弥陀様へのバクティを極限まで強めることができたら、もちろんあれでも救われるかもしれない。でもなかなか難しいかもしれない。まだ今言ったヒンドゥーの方が智慧があるかもしれないね。うん。だってやっぱりみんな子どもとか好きだから。自分の子どもとかに愛着するから、それを利用して、ね、死後のときにも登場させようっていうかね。
 ただそれはまあ、すべて補助的なことです。とにかく心が徹底的に神や仏陀やあるいは聖なるものを求める状態を、いろんな工夫をして、生きてる間に作っておかなきゃいけないんだね。

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