yoga school kailas

「常に見られている」

【本文】

 師の教えによって、師を畏敬して恭敬をささげる者は幸福である。師匠のもとに住することから、正念は彼らにたやすく発生する。

【解説】

 ヨーガや密教においては、時にはブッダや神に対する以上に、現実の師への帰依心を非常に重要視します。
 そして密教ほどではないにせよ、大乗仏教においても、師の存在というのが非常に重要視されていることがわかります。
 もともとヨーガの伝統においては、弟子は師と共に暮らし、師の身の回りの世話等で奉仕をしながら、教えを受けていくというスタイルがありました。それによって弟子は、単なる言葉による教えのみならず、様々な状況における考え方や、立ち居振る舞いなどを学ぶことができたのです。あるいは常に師に自分の考え方や行動の仕方等をチェックされることにより、自然に自分の汚れたカルマが浄化されていくともいえるでしょう。
 実際に一緒に住まないまでも、師を持ち、師を尊敬し、帰依し、たびたび一緒に接して教えを受けるなら、上記に近い結果を得ることができるでしょう。逆に言えば、人は自分に対して甘いので、そのように自分に指示や教えや良い影響を与えてくれる師が近くにおらず、一人で修行するような状態だと、なかなか自己を律するのは難しいということですね。

【本文】

 「もろもろのブッダと菩薩方は、いたるところを妨げなく照覧なさり、一切は彼らの現前にある。そして私も常に彼らの前に立っている」
と、かように瞑想し、慙愧と恭敬とおそれを伴い、(自制して)あれよ。かくすれば、ブッダの念は、一瞬一瞬、彼に生ずるであろう。

 正念が心の門に守護のために立つときは、正智が到来する。そして得られた正智は再び去らない。

【解説】

 ここは非常に重要というか、実際に使えるテクニックです。
 これはどういうことかというと、まずブッダや菩薩方への強い信を持ちます。そしてブッダというのは全智を持っているわけですから、常に全世界のあらゆることを妨げなくごらんになっているのです。ということはもちろん、私自身も常にブッダや菩薩方に「見られている」といえます。
 もし実際に、目の前にブッダがいたらどうしますか? とてもブッダの前で、悪業を犯したりはできないでしょう。しかしブッダは、こちら側が認識できなくても、実は常に我々を見ているわけです。だから24時間、悪業を犯すことはできないのです。さらにブッダ方は、目に見える行ないだけではなく、我々の心の中まで常に見通していますから、偽善的な行為も通用しません。常に今自分のできる最高の心の状態を保ち続けるしかないのです。 
 もっと言えば、先ほどの教えも応用して、現実の自分の師匠も完全な全智を持ち、常に自分のことを見ている、と考えるなら、よりメリットは大きいでしょう。
 チベット仏教の教えでは、「もし仮に師が〈自分は解脱していない〉と考えていたとしても、弟子は師を、解脱したブッダとして見なければならない」などとも説かれています。頭の固い人はここに矛盾を感じるかもしれませんが、実際はここに何の矛盾もありません。そのように見るなら、最も大きな恩恵があるでしょう。
 ブッダや、菩薩や、自分の実際の師が、常に自分の行動や心の状態を監視している。--そのようにリアルに真剣に考えるのです。そうしたらもう、一瞬たりとも気が抜けませんね。一瞬たりとも、真理から心を外すことはできません。--つまりそれこそが「正しい念が保たれている」状態なのです。

 このようにして正しい念が心の門に生じたならば、その正しい念に基づいて、常に自分自身で自分の身・口・意の行ないをチェックする正智の働きも生ずることになるでしょう。

 ブッダや師の全智を信じ、彼らが常に自己を見ていると考える
 ↓
 常にブッダや師に見られているので、常に正しい思いを持ち続けようとする(正念)
 ↓ 
 常に正しい思いを保てているかどうか、正智による自己チェックを常にするようになる
 ↓
 それにより、より正念は確固としたものになっていく

 このような好循環が生じるわけです。

 もっと言えば、このような観想ができるなら、その人は周りの人の一時的な評価や非難などにも惑わされなくなります。
 人は皆、自己を評価されたい、非難されたくない、理解してほしい、と考えるわけですが、実際は人は無責任に他者を非難することが多く、また誤解や無理解に満ちているのがこの人間世界です。
 しかし上記のような考え方ができるなら、
「世界中すべての人に誤解され、非難され、理解されなくても、仏陀や自分の師がわかってくれればそれでいい」
と考えるようになります。
 もちろん、自分の今の心の状態や修行段階によって、ブッダや師に対して恥ずかしい行ないや思考をしてしまうこともたびたびあるでしょう。しかしそのたびに反省し、少なくともブッダや師に対しては、心の中で最高に誠実になり、いかに彼らに対して恥ずかしくない思考をするか、恥ずかしくない生き方をするか、ということを常に考えるのです。関係のない第三者が、いろいろ自分を非難したり、無理解な態度をとっても、全くそれは関係ないのです。それらに振り回される必要はないのです。ただただ、ブッダや師に恥ずかしくない思考と生き方をしようとだけ考えるのです。

 皆さんもぜひ、ブッダに、あるいは神に、あるいは実際の師がいる人は師に、常に見られていると考えてください。行動から心の奥まで見られていると。そのように真剣に考えるなら、正念と正智はたやすく生じ、そして持続させ続けることができるでしょう。

【本文】

 まず第一に、この心がかように常に見守られねばならぬ。次に私は、あたかも木材のように、常に感官の無い者のごとくあらねばならぬ。

 いつも無益にまなざしをうろつかせてはならない。視線は禅定におけるように常に下方に向けられるべきである。

 しかし視線を休めるために、人は時折、諸方を見るべきである。また(行き会う人の)影を見たなら、その人を眺めて挨拶すべきである。

 路上等においては、危難を警戒するために、時々四方を見よ。立ち止まり、後ろを振り返ったりして方角を観察せよ。

 前進するにも後退するにも用心して行なえ。かようにあらゆる状態において、なすべきことを自覚してなせよ。

 なお「身はかように保たれるべきである」と所作について己に指示を与えた後に、さらに途中で、身はいかに保たれているかと、省みねばならない。

【解説】

 「木材のように」というのはこの経典でよく出てくる表現ですが、面白いですね。
 ヨーガにおいても原始仏教においても、感官の制御、すなわち制感というのは、重要な位置を占めていますね。すなわち、感覚は放っておくとあちこちへと向かい、執着したり悪しき心を生んだりするので、それを制しろということですね。それをシャーンティデーヴァは「木材のように、感官の無い者のごとくあれ」と表現しています。
 
 もちろん実際は我々は五感を有しています。それをわざわざ自らの目をつぶしたり、鼓膜を破ったりする必要はありません。そうではなく、この五感を有し、必要なときにはそれらを使いつつも、悪しき方向に流されないようにコントロールし続けるのです。

 まずきょろきょろするな、とシャーンティデーヴァは言っていますね(笑)。特に現代ではこれは言えていますね。町を歩くと、いたるところに煩悩を刺激する広告が目に入ってきます。あるいは刺激的な格好で魅力的な異性が歩いていたり(笑)、おいしそうな匂いが立ち込めてきたり、恋愛の歌が流れていたりします。そういったものにきょろきょろして心を奪われるな、ということですね。

 視線を下方に向けるというのは、仏教の伝統的なやり方ですが、これはケースバイケースですね。クンダリニー・ヨーガ的な瞑想や、正観(ヴィパシャナー)の瞑想においては、視線を上向きにしたほうが良いともいいます。ちなみに私自身は、結構いつも上向きで歩いたりしますね。これはこれで、空しか見えないのでいいです(笑)。まあ、都会だと、上を向いても下を向いても広告が目に入ってくるかもしれませんが(笑)。

 人と行き会ったら挨拶すべし、というのも、大乗仏教的な感じがしますね。まあつまり、人と行き会ってもじっと下方を見つめてぶつぶつとマントラなどを唱えていると変ですから(笑)、衆生に対しては友好的に挨拶を交わせということでしょうか。
 ただ原始仏典でも、お釈迦様や弟子たち、あるいは外道や信者たちが、それぞれ会うときに、親愛なる挨拶を交わしているシーンが見受けられます。この辺は無畏施(安心施)にも通じるのかもしれませんね。煩悩を放棄する実践と、他者を受け入れる慈愛の実践のバランスをうまくとらなければいけませんね。

 そして何をするにも、常に覚醒した意識を保ちつつ行ないます。ぼーっとして行なわないようにします。この辺は以前に何度も「念」の説明で書いたことの一つですね。

 そして自らの行為において、「このようにすべきである」と自分自身に指示を与えた後に、それがそのとおり行なわれているか、チェックしなければならないといっています。つまり正智ですね。

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