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「容易なことから」

◎容易なことから

【本文】
三.まずは容易なことから実践を始めてください。

 これはもう読んだ通りです。つまりヨーガ、あるいは仏教、あるいはこの慈悲に関する大乗的な教えっていうのも、さまざまな修行がある。あるいはさまざまな考え方がある。で、例えばお釈迦様とか、あるいは偉大な過去の菩薩がやったことを見ると、もう到底今の自分にはできないこともいっぱいあるわけだね。例えばお釈迦様の輪廻転生の中で、餓えた虎がいたんで自殺して自分の体を食わせたとか(笑)、何かそういう話がいっぱいある。で、今それやれって言ってもできないかもしれない、例えばね。特に肉体を供養する話っていっぱいあるんだね。大乗仏教とかお釈迦様の過去世の話でね。でもそれは、今はできないかもしれない。あるいはそこまでいかなくても、二十四時間修行し続けた聖者がいたと、例えばね。でもそれは、今わたしにはまだできないかもしれない。じゃあ、できないからって何もやらないのか――じゃなくて、まずはできるところからやる。

 これは前も言ったけど、われわれの過ちの一つは、「できることをやってない」っていうとこがある。これは前に、仏教の四つの努力ね――四正勤の教えで言ったけども、四正勤の中に「今できる徳を全力で積む」っていう教えがあるんです。これ、これだけ読むと、「え? 当たり前じゃん」って思うかもしれないけど、そうじゃないんです。今言ったように、われわれは、今できるのにやってないことがたくさんあるんです。だから、「まずは、できることぐらいやれ」と(笑)。ね。つまり、さっき言った熱意とも関わるけども、熱意があったらまずやるはずなんです。

 もう一回言うけどね、できないことってあるよね。で、できないことは、はっきりいってしょうがない。しかしできないことを嘆く前に、できることをやってんのかっていう問題がある(笑)。ね。だからまずは容易な、できることは、熱意を持って日々やるということですね。

 で、そこからもちろん力が蓄えられ、次のこと次のことというように、だんだんだんだんより激しいこともできるようになってくる。

 これも『入菩提行論』にある教えなんだけど、『入菩提行論』で、仏陀っていうのはね、まず弟子に野菜を人に与えることから始めさせると。で、後には体までも与えさせるようにすると。自分の肉体を野菜と等しいと考えられるようになった者が、自分の肉体を与えるのにどんな障害があるかっていう教えがある。

 つまりこれはどういうことかっていうと、普通はまず第一段階では、エゴに満ちた人っていうのは野菜――まあ野菜っていうのは一つの例だけども――自分が例えば野菜を持っていたとしてね、その野菜を人にあげるのも嫌なわけです、最初は。ね。「大根くれ」って言われても、「いや、今日大根安売りで買ってきたんだからあげられないよ」って言うかもしれない。そこはまず仏陀は、「さあ、その野菜を貧しい人にあげなさい」と。その教えから始める。で、「本当は嫌なんだけど、でもまあ、これくらいはできるか」と思って、まずは例えば大根の布施から始める。それからだんだんだんだん野菜ぐらいならあげられるようになってきて、で、だんだんだんだんもうちょっと大事なものがあげられるようになってきて、で、だんだんだん今度は――例えばお金にものすごくとらわれてて、「お金は大事だから」っていってた人が、そのお金を人々のためとか、あるいは仏陀とかにお布施できるようになってきて、あるいはもうちょっと自分の執着の強いものもお布施できるようになってきて――で、こういうふうに進んでいって最終的に、「人々のためならば」っていって自分の肉体までも捨てられるようになると。

 でも最初は大根から始まってるわけです(笑)、例えばね。この人がもし最初から大根さえも――「いや、おれは肉体の布施なんか無理だ!」って言って、何とかできそうな大根さえも布施しなかったら、全くそれはずーっと永遠に無理です。

 よって、われわれはまずはできることから手をつける。逆に言うと、できることは百パーセントやる。できることは百パーセントやって、「さあ、これはちょっとどうかな?」っていうことは、ちょっとずつその範囲を伸ばしていく。ちょっとずつ、ちょっとずつできるようになっていく。そういう熱意が必要ですね。

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