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「外的条件をあてにしない」

◎外的条件をあてにしない

【本文】
⑤外的条件をあてにしません。

 はい、これもシンプルに書かれてるけども、これはみなさんそれぞれ日々瞑想したり、日々自分の日常において思い起こして、その深い意味を考えたらいいかもしれない。

 「外的条件をあてにしません」っていうのは、そうですね、まあこのままなんだけども、これもヨーガでいうと、バクティ・ヨーガとかカルマ・ヨーガの世界と非常に近いわけだけど。自分がやるべきこと、これを何か達成する上において――もちろんね、前提として「わたしは神に愛されていて、神は完全に見守ってくださっている」――こういう信頼ももちろん大事だね。それから、例えば人が協力してくれたときとかに、それを有り難く感謝して、その協力を素直に受けると。それはもちろん大事なんだけど、最初から、そのような例えば人からの助けであるとか、あるいはいい状況を与えてもらうとか、そういうのは当てにしないっていうことです。

 つまり、極端に逆に言えば、誰一人協力してくれなかろうが、あるいは最悪最強の悪条件であろうが、全力で成し遂げるっていう強い決意が必要だってことだね。

 じゃなくて、心が弱かったり甘かったりすると、最初から、「ここでこの人が助けてくれるだろう」とか、あるいは「こうなってこういい状況になるだろう」っていう悪い意味での楽天的、悪い意味での根拠のない希望的観測によって、物事を進めようとする。それによって、例えばいろんな状況が、実際には協力してくれなかったり状況が悪かったりすると、文句を言ったりとか不満が出たりする。

 だから、お釈迦様が「犀の角のように一人行け」と言ったように――基本的にはですよ、基礎的には――たとえ一人としてわたしに協力してくれなかろうが、わたしはこれをやり遂げると。あるいは、この道を全力で進むと。そういう基本的な覚悟が必要なんだね。

 あの、これもね、さっきの一番目の「間違った極端」と絡めると、だからと言って例えばですよ、「外的条件をあてにしない」と。誰か協力を申し出たときに、「おれは外的条件をあてにしないから」って頑なに拒否する(笑)――これは極端です。じゃなくて、もちろん本当に友好的にね、いろんな意味でいろんな人が協力してくれるんだったら、それはそれで感謝して受け入れればいいと思う。まあそれはケースバイケースだけどね。しかしもともとは、つまりそのベースの心としては、決してあてにしないんだと。

 で、もう一つの危険パターンとしては、最初はあてにしてなかった。しかし、優しい人に多くの愛を受けてると、途中からあてにしてしまうようになる場合があります。ね。これも危険だね。つまり最初は周りをあてにしないで、まさに自分がその孤独であろうとなんであろうと、全力でなすべきことをしてきたと。しかし途中から、優しい人々が自分にいろんな恩恵を与えてくれるようになってきた。で、そこで心が甘えてしまって、で、そういうのがパッて無くなったときに、ちょっと一人では出来なくなってしまうとかね。これも危険なパターンだね。

 だから常に、もちろんいいカルマがやって来て多くの協力を受けるとか、いい状況にあるときはそれはそれでとても素晴らしいわけだけど、そのときにも決して心を緩めずに、何があってもそういった状況をあてにしないんだと。どんな悪い状況が来ても、それは関係ないんだと。そのような修行者としての毅然とした意識っていうかね。それが大事だね。

 お釈迦様は、例えば王様に招待されて多くのご馳走を食べるときもあった。そうじゃなくて、貧乏人の家に托鉢に行って、粗末な物しか食べられないこともあった。あるいは、インド全体が仏教徒だったわけじゃないから、逆に批判されて托鉢に行ったら石を投げられて、その日は何も食えなかったこともあった。でもお釈迦様は、何でもオッケーなんです(笑)。ね。はい、今日は王様に招かれて、インド料理のご馳走をたくさんたらふく食べましたと。普通この人は、明日も期待するわけです(笑)。ね。「今日は本当においしかった」と。「さあ明日は何かな?」と(笑)。ね。「今日はチキンカレーだったから、明日は豆のカレーが出てくるかな」って期待したら、明日はなんか王様呼んでくれないと。「えー、王様何考えてんだ」――っていうふうにお釈迦様はならない(笑)。ね。今日はご馳走で――それはいいでしょうと。明日は石を投げられた――それは全くかまいませんと。明後日はどうなろうとそれは全く問題ではないと。そういうような心が大事だね。決して外的条件をあてにしない。ただ自分のなすことを淡々となし続けるってことですね。

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