「執着と気道の詰まり」
◎執着と気道の詰まり
はい、今日は一応テキストは終わったので、最後にもし質問があったら質問を聞いて終わりにしましょう。何か質問がある人いますか? 今日の話と関係があってもなくてもいいですよ。
(T)執着って、気道の詰まりと関係があるんですか?
関係ある。そうですね、気道の詰まりっていうのは、一つはカルマと言ってもいい。もう一つは、観念。だから当然、執着も観念だよね。
例えば気道っていうのは、また別の言い方をすると、世界といってもいいんですね。つまり、気道がどういう状態であるかっていうのは、われわれの世界観とも関係がある。
われわれはさっきも言ったように、世界を観念で止めてしまってる。それは一つの執着ともいっていいわけですね。で、その執着の種類、あるいは観念の種類によって、気道のどこが詰まるかが変わってくる。
例えば性欲的な執着、つまり、「おれはこういう女をものにしたい」とか、あるいは「こういうセックスをしたい」とかいうのがいっぱいあると、この辺【スワーディシュターナの辺り】が詰まります。あるいはそうじゃなくて、食べ物が大好きだったりお金やものが大好きだったりすると、へその辺りが詰まるとかね。
つまりすべてこう、決まってるんだね。それは執着ともいってもいいし、観念ともいってもいいし、あるいはカルマといってもいいね。
だから逆に言うと、どっちの方向からでも浄化できる。つまり、日常生活において執着をなくしていったら、気道がちょっと浄化されます。もちろんムドラーとかやっても浄化されます。両面からやれば早い。日常において執着や観念をなくしていって、で、物理的にムドラーやアーサナや呼吸法をいっぱいやってたら、とても早いでしょうね。
◎肉体的疲労と悪い感情について
はい、他に何かありますか?
(G)仕事とかで、肉体的に非常にきつい状態に置かれたときに、それに引きずられて精神状態も悪くなっていくっていうんですか、悪い考えが浮かぶっていうか、何かこう周りの人にもすごく嫌な感情を持ったりとか、そういう引きひきずられていくことってすごく多いんですけど、そういうのは修行を進めて行けば、比較的軽症でおさまるっていうか、そういう感じになるんですか?
そうだね。それはヨーガが一番得意なところで、つまりヨーガのもともとの意味にはコントロールっていう意味がある。つまり自分の神経とか感情をコントロールするんだね。
で、さっきからここの勉強会でいってることっていうのは、ある意味理想論なんです。理想論っていうのは、例えば、じゃあ今のね、問題に対して理想論だけでいうと、それは変容しなさいっていうことになる。変容っていうのは――まあこれいろんな考え方ができるわけだけど――まずね、肉体が疲れることと、その結果である心が悪い状態になるっていうのは、本当は何の関係もないんです。じゃあこれは何が結びつけてるのかっていうと、例えば神経の疲れであるとか、あるいは神経の疲れだけじゃなくて、さっき言った習性、つまり「わたしは神経が疲れたりしたときには、このような悪い感情が出る」っていう習性が、もう固まっちゃってるんだね。でも、同じレベルの肉体の疲れだったとしても、例えば自分の好きなことだったらとても楽しいじゃないですか。例えば野球大好きな人がね、超、野球の練習して爽快で、もうバテバテってなりながら、例えば頭の中ではさ――わたしも昔野球好きだったんだけど、例えばちょっと古いけど――星飛雄馬とかになりきってる(笑)。かなりマゾヒスティックなんだけど、超バテバテになって、「しかし、おれはやるんだ!」みたいな感じになってる(笑)。そうすると逆に楽しいわけです。
つまりこれは、単純に肉体の疲れ自体ではなくて、それをどうイメージしてるかによる。だからそれを、例えばね、バクティ・ヨーガとかによると、「すべては神が与えてくれたものだから、自分の悪いカルマを浄化するために、今わたしは肉体をこういうふうに痛めつけられてるんだ」と。
例えば、読んだことあるか分かんないけど、ミラレーパの生涯とか見るとね、ミラレーパっていうのはたくさんの人を殺しちゃったから、その悪いカルマを浄化するために、師匠から肉体労働をいっぱいさせられるんだね。その肉体労働を師匠に言われながらやったと思ったら、師匠から「やり直せ!」って言われて――つまり、一見無益に思える肉体と精神の苦しみをいっぱい与えられる。そういうイメージがもしあったら、「おれはまるでミラレーパのようだ!」と思いながら肉体労働をしてたら、心はちょっといい感じになるかもしれない。そういう変容をしなさいと。
あるいは、もっと理想をいえば、もうそんなことも考えなくていいと。じゃなくて、もう論理は置いといて、ただすべては神の愛なんだと。今こうして体を痛めつけられるのも、神の愛だと。だからわたしには何の不満もない、と。
◎教えと、ヨーガ修行と、実生活
――でもこれは、理想なんです。じゃあ、それをわたしが今言ったからって、みんなにそれができるかどうかっていう問題がある。じゃあ、できないところはどうするんですか?――それは、ヨーガなんです。つまりアーサナ、呼吸法、ムドラーとかをやってると、コントロールし易くなるんです。
つまり以前はガチガチに、「いやあ、そんなこと言ったって苦しいだけです」って言ってたのが、「あれ?」と、ちょっとできそうな気がしてくる。で、ちょっとずつちょっとずつそこに隙間が生まれて、それによって自分の心が変わってくるんだね。
だからこれ、いつもわたし言うんだけど、教えと、ヨーガ修行と、実生活。この三つが回り出すと最高なんです。逆に言うと、その実生活における苦しみも必要なんです。なぜかっていうと、それが無いと昇華されない。
つまり、「実生活何も無いんです」と。で、この状態で修行しますと。教えを学びますと。でも、この教えが根付いてるかどうか分からない。っていうか根付くチャンスがない。
例えば、じゃあ一番いい例ではね、愛っていうのがあると。はい、自分を苦しめてる人も愛しましょうと。自分を苦しめてくれる人を愛することができて、例えばここでもさっきもやったみたいにね、「慈悲の瞑想ですよ、はい、自分の嫌いな人に幸せをぱーって与える瞑想をしましょう」と。「ああ、瞑想でできてます」と。「でも本当にできてますか?」と。「本当に、そこまでの愛があなたにありますか?」と。「いや、分かりません」と。「何で分からないのかというと、わたしの周りには今、優しい人しかいなくて、好きな人ばっかりだから、当然好きな人のことを愛せます」と。「嫌いな人ってわたしの周りにいないんで、どうなんでしょうか?」と。それははっきり言って、まだまだ愛が成熟してないかもしれない。「じゃあ、あなたの愛を成熟させるために、嫌いな人を用意しましょうか」と。神様がそう思うかもしれない。バーンって嫌いな人を登場させる。で、この本当に嫌いな人が出てきて、日常生活において苦しむっていうプロセスがないと、その人の愛っていうのは本当は育たないんだね。よって、日常のそういうのも必要。
そして、でも日常だけじゃだめだと、つまり、教えがないとどうしていいか分からない。よって、教えが必要だと。
で、教えと日常だけでも駄目だと。つまり理想論で終わってしまう。よって、ヨーガ等の修行によって、ちょっとでも自分がコントロールできる状況を作りだす。
この三つが上手く回り出して、人間は進化していく。
だからまずはヨーガをしっかりやると。で、教えによってどう考えるかをしっかりと学ぶと。それによって日々の仕事とかいろんなものに当たっていったら、それは単純にあまり苦しまなくなるとか疲れなくなるっていうだけじゃなくて、その仕事自体が自分を進化させる素晴らしい状況に変わっていく、ということですね。
だからまずはヨーガをやったらいいと思いますね(笑)。まあ、それだけでも楽にはなると思う。
はい、じゃあ終わりましょう。おつかれさまでした。
(一同)ありがとうございました。
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