yoga school kailas

「偉大なる苦行者のしるし」

◎偉大なる苦行者のしるし

【本文】
③偉大なる苦行者のしるし――心を修練し、煩悩を除去するために、いかなる苦難にも耐えることができること。

 われわれが修行を進めると、いつも言うように、さまざまな浄化、あるいはカルマ落としがやってくる。あるいは、まああっちからやってこなくても、自分が何かを自分の中で乗り越えようとするときに、当然それは辛い。しかし、どんな苦難が来ても、忍辱ね、耐えなきゃいけない。

 で、そのような修行をひたすら繰り返してると、あるときわれわれは――まあ、「いかなる」っていうのはもちろんどこまでかっていう問題があるけども――相当大きな苦難が来ても耐えられるようになってくる。それはもちろん最初の志が強いからだけど、それは一つの証拠になりますよと。

 だからこれは逆に言うと、例えばいろんな苦悩が来たときに、ちょっと心が萎えてしまう。「ああ、ちょっと駄目だ……」ってなってしまうとしたら、反省しなきゃいけない。「ああ、まだまだわたしは忍辱が足りない」と。「修行にはもっと強い心が必要だ」と。「強い心をもっと培って、もっともっと大きな苦難にも耐えられるようにしよう」っていうことを考えなきゃいけない。

 はい、しかし、あらゆるさまざまな苦悩に耐えられるようになったと。喜んでそれに立ち向かえるようになったら、それは一つのしるしですよと。

 だから、そういう意味ではいつも言うように、逆境っていうのは祝福なんです。なぜかというと、そういうのがないとわれわれは鍛えられないんだね。

 前にも言ったけどさ、例えば占星術でものすごい――例えば幸福のグランド・トラインが二つあるとか、そういうタイプの人って、あまり人生で逆境がない。そうなると当然、心が辛いときがないから、それに立ち向かうとか、苦しみに耐えるっていう経験ができないから、表面上幸せなんだけど、心はなよなよっとした状態で進んでいく(笑)。そうなると、その人は何か自分の本質的な問題とぶつかったときに、なかなか乗り越えられなくなっちゃうんだね。

 だからそういう意味でいうと、われわれの前に逆境が訪れる。で、そこで苦しまなきゃいけない。これは神の祝福ともいえる。そして、それによって自分の心が鍛えられるんだね。

 わたしもやっぱり振り返ると、そういう逆境的なこととか苦しいことっていうのは――もちろんずっと苦しかったわけじゃないんだけど、ある時期ごとにバッバッて来たりする。で、今考えると、もう気が狂う寸前のときもあった。つまりその苦しみがすごすぎて気が狂う寸前だったり、あるいは自殺する寸前とかね。あるいは、もう逃げ出す寸前っていうか、そういうところまで追い込まれたことは何回もあった。でも、不思議なことにね――最後までわたしが、例えば、こうかっこよくね、ぐーっと心を変えなかってのもあるわけだけど、そうじゃなくてもちろん、特に昔は、心が萎えてしまったこともよくあるわけです。いろんな苦しいことがバーッてあって、最初は「うう、頑張るぞ……」ってやってるんだけど、「ああ、もう駄目だ」と(笑)。で、さっき言ったみたいに、自殺しようって思ったこともある。あるいは、もうすべてから逃げ出したいって思ったこともある。あるいは、いろんなそういう破滅的な思いにとらわれたこともある。でも、振り返るとだけどね、そのときは真剣なんだけど、振り返ると、ギリギリでパッとそれが終わるんだね。

 つまり、「わー、もうすべてから逃げ出したい! 修行も放り出したい!」。あるいは「もう苦しすぎて自殺したい!」って、そういうふうに本当に思うときもあったんです。で、それがもし、そこまでいってそれが後何日か続けば、本当にわたしは自殺してたこともあったかもしれない。もしくは、修行をすべて投げ出したこともあったかもしれない。けど、ギリギリまでいくと、パッと終わるんです(笑)。

 だから、明らかになんか操作されてる感じがあるんだね(笑)。ギリギリまで引っ張られて、わー……ってやられてパッて終わる。つまり、それがそのときの自分の限界だった。そこで、ギリギリでなんとか苦しみが終わると。で、またしばらくして油断してると、また来たりするんだね(笑)。だからその繰り返しが、自分にとっては、やっぱり何も無い人生に比べたら、すごい自分の心が鍛えられた。振り返るとね、そういう感じがする。「ああ、すべては祝福以外の何ものでもなかった」と。その渦中にいるときはよく分からないんだけど。苦しすぎて。

 だからちょっと話がずれたけど、いかなる苦難にも耐えなきゃいけないわけだけれど、それにはやっぱり耐えるための訓練が必要だと。で、その訓練っていうのは、われわれに祝福があれば、自然に与えられるんだね。時期が来ると必ず、いろんな形で苦しめられる。で、それに耐えながら、ひたすら正しい生き方をすると。これがわれわれの訓練になります。

 もちろん、わざわざ日々苦しいことをやる必要はないんだけど、ただまあ、一つの基準として――例えば、われわれが何かしようとするときに――まあ人生っていうのは選択の連続だからね。「さあ、どっちを選択するかな」っていうときがあるよね。で、もちろんわれわれが心を仏陀や至高者に合わせて、誠実にこっちだなって分かれば、それはそれに越したことはない。でもそれもよく分からない場合、一つの基準として、エゴが嫌がる方を選ぶ。これは修行者の一つの基準です。

 もちろん、エゴが嫌がってないけれども、でも至高者の意思だと思ったらそっちを選んでかまわないんだけど。でもちょっと、至高者の意思がどっちかよく分からない――というときに、エゴが嫌がる方を選ぶ。これは一つの修行者の生き方です。

 エゴが嫌がる方を選ぶ。そうすれば当然苦しいです。でも、それがわれわれの人生なんだね(笑)。変な言い方だけど(笑)。それがわれわれの人生っていうのも変な言い方だけど(笑)、つまり、それによってわれわれは鍛えられ――つまり、そういうことに人生使わなかったらしょうがないじゃないですか。われわれは何のために生まれてきたんですか?――おいしいものを食べ、ぐっすり寝て、楽しい経験するために生まれてきたんだったらいいけども、そんなんだったら悲しい。じゃなくて、自分を鍛え、自分の悪いところを滅して、少しでもいい状態、いい魂に進化するために生まれてきたんだとしたら、そのためにこの人生を有効に使わなきゃいけない。よって、エゴを滅する方を選ぶ。エゴが嫌がる方を選ぶ。もちろんその前に至高者の意思が分かれば越したことはないけどね。

 そういうことを日々行なうことで、自分の心を鍛えるんだと。つまり、そういう認識が必要だね。修行って何ですかと。いや、それは自分を変えていかなきゃいけない。そのためには当然さまざまな苦痛――つまりまだ煩悩があるわけだから、煩悩と教えがぶつかれば苦悩を感じるのはあたりまえだと。それに日々ぶつからなきゃいけないんだと。苦しいことから逃げたいって気持ちはとても人間にはあるわけだけど、そもそも修行って苦しいんだと(笑)。もちろんそれを乗り越えたときには、もう何倍もの喜びがあるわけだけど、でもぶつかってるとき、エゴと戦ってるときは苦しくてあたりまえだと。ね。

 これもシャーンティデーヴァの『入菩提行論』にもあるけども――苦しみがあってあたりまえであると。なぜならば、エゴと戦っているからだと。戦闘において、そういう苦しみはつきものだと。ね。戦ってるときに、安楽じゃないじゃないですか。あたりまえだけど。自分もいろいろ刺されたりしながら、一生懸命戦ってる。で、エゴの首を斬り落とさなきゃいけない。それは、あたりまえだと。苦しみがあるのはね。で、そういう覚悟みたいなものがやっぱり必要なんだね。

 はい、それをしっかり実践してると、もういろんなことにあまり苦しみを感じなくなってくる。これが一つのしるしだと。まあもしくは、苦しみを喜びとして突っ込んでいけるようになるっていうことだね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする