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「修行の基礎・戒について」(2)

◎高い世界への枠組み

 で、戒律のもう一つ、本来の意味を言うと、まあ、さっきT君が言ってくれた、「徳を積む」、そして「徳を漏らさない」と、それから「悪業を積まない」という意味がありますが、またねえ、別の角度から言うならば、戒律っていうのは枠組みなわけだよね。枠組みっていうのは、少なくとも神、もしくは、神を超えた世界に至るための枠組みなんです。
 つまりどういうことかっていうと、我々が適当にそのまま普通に、心の赴くままに生きていたらどうなるか……まあ、よくね、ゾクチェンとかマハームドラーとかでは、心の赴くままに生きなさいっていうことが書いてある。で、無智な人っていうか、真理と縁の遠い人がそういうものを読むと、「そうか」って思って、ほんとに心の赴くままに生きて(笑)、地獄に落ちる。
 つまりゾクチェンやマハームドラーが言っている「心の赴くままに」っていうのは、本当に深い深い純粋な心の赴くままにって言っているんだね。で、我々が「心の赴くままに」ってやってしまうのは、単なる過去世とか過去の習性なんだね。
 つまり怒りっぽい人がいたら、それはその人が何生もかけて怒ってばっかりいた習性なんだ。で、この人が例えば、プライドを傷つけられたときにカチンときて、「クソ!」ってなって怒ってしまう。で、あ、なんかゾクチェンの本に書いてあったから、よし、心の赴くままに怒るぞと思って、ここで怒ると(笑)、それはその人はさらに地獄のカルマを積むことになる。ね。
 あるいは例えば、ねえ、異性を見かけたと。で、それによって例えば恋愛感情が出たり、性欲が出たりする。ここで心の赴くままに(笑)、実行しようってやってしまったら、その人はただ、その人の過去世からの動物のカルマとかを表現しているだけだから、よりその動物的なカルマが強まって、動物界に落ちるかもしれない。
 あるいは自分をよく見せたいという傾向がある場合、自然に表現していると、そのような行動ばかり取る。これは、一見なんかこう上手くいくように見えるけれども、それは、修行とか悟りとかいう意味でいったら、どんどん自分を、本来の自分から遠ざけていることになるから、これも修行の道とは反対方向に行ってしまう。
 だから心の赴くままに行ってたら、我々は、なんていうかな、もう過去世から繰り広げてきた、悪しき習性に委ねられるしかなくなってしまう。よって、枠組みが必要なんだね。うん。
 それは逆の言い方をすると、少なくとも神になるってことを考えた場合、神ってどうかなって考えるわけだ。
 神って、生き物を殺すかな、と(笑)。殺さないな、と(笑)。
 で、神って盗むかなと。いや盗むはずがないと(笑)。ね。
 あるいは、神は邪淫をするかなと。いや、しないと。ね。 
 嘘をつくかなと。つくわけがないと。
 酒を飲むかと。飲まないと。ね。
 つまりその、自分がなりたいものの行動様式っていうのをまず分析して、そこに合わせた生き方をすれば、そうなるじゃないかっていう発想なんだね。
 これはだから逆も言えるわけだね。動物の生き方っていうのがあって、それを真似してその通り生きてたら、我々は来世動物になる。まあ来世どころか、今生でもたぶん動物的になる。まあ、それだけじゃなくて、今生普通に生きてる人のいろんな姿、いろんな行動とかを見て、その通り真似したら、当然我々はその人に近づく。
 もちろんこれはだから、この間も言ったけども、逆に聖者の真似をするっていう修行法があります。聖者の真似をすることで、その人もその聖者に近づく。まあ、そのような深い意味もあるんだけど、単純にその行動様式によって、それに近づくっていう意味プラス、その人のエネルギーを受けるとか、その人の培ってきた、過去世からの経験ももらえると。そういう深い意味もあるけども。

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