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「二つの真理の理解」

◎二つの真理の理解

【本文】

『このように、究極の意味の真理と、便宜的・限定的な意味の真理という、二つの真理の理解が必要である。これについてミラレ―パはこう語っている。

「愚昧な人々の心の状態に合わせて、
 全智者である仏陀は、『すべては存在する』と説いた。
 しかし究極の意味の真理からいえば
 魔もなければ仏陀もない。
 修習する者もいなければ修習すべきものもない。
 導くべき場所もなければ道しるべもない。
 結果である身体と智慧もない。
 それゆえに、ニルヴァーナもない。
 すべては、名前と概念によって仮に設定されただけである。
 三界が堅固であることも動揺することも、本来成立せず、不生であり
 基もなければ同時発生もない。
 カルマも、カルマの果報もない。
 それゆえ、輪廻という名前すらもない。
 究極の意味においてはこのとおりである。」

「ああ、衆生がないならば、過去・現在・未来の仏陀は、どこから生じるのか。
 因のない果はあり得ないから、
 便宜的・限定的な真理としては、輪廻とニルヴァーナは存在すると、聖者は説かれた。
 存在物があらわれるということと、存在がなく空性であるということの二つは
 本質は無差別であり不二であるから、
 すべては双入であり、広大である。
 そのように理解した賢者は、認識を見ずに智慧を見た。
 衆生を見ずに仏陀を見た。
 有法を見ずに法を見た。」

 このように、究極の意味としては輪廻とニルヴァーナの如何なる法も存在しないが、便宜的・限定的な意味としては、衆生が仏陀になること等の、輪廻とニルヴァーナにおけるすべての設定がある。
 そしてこの、名前と概念によって仮に設定された、縁起によってあらわれる現象と、すべてが自性として成立しないという空性の二つは、本質は同じものとして存在する。
 よって、縁起やカルマの法則に代表されるこの世の限定的な法と、すべては空であるという法は、どちらかをとることによってどちらかを捨てるということがあってはならないのである。』

 これも同じようなことを言ってますけども、ここで一つ重要なことを言うと、この最後の方で「ニルヴァーナさえ存在しない」ってあるね。これはちょっとショックがあるかもしれない。つまり、われわれが悟りを得て行くニルヴァーナもないんですかと。

 これはどういうことかっていうと、ちょっとまた別の言い方をすると、ニルヴァーナはあります。しかし、みなさんがイメージしているニルヴァーナではありません。

 つまりこれはね、われわれは今迷妄の闇の中にいる。よくわたしは麻薬患者とかに例えるけども。例えばMさんが麻薬かもしくは何らかの原因によってね、完全な幻覚の中にいたとするよ。もう全然他の人とは違う世界に入ってしまってる。ここで、Mさんに対してわたしが「目覚めなさい!」と言っても、あなたは――例えばMさんが蝶々ょになったとするよ(笑)。幻覚によってね。「わたしは蝶々だ」とか言って。わたしが「Mさん、Mさん、あなたは蝶じゃない。人間なんだよ、Mさんなんだよ!」って言っても、通じないんです。なぜならばMさんは蝶になりきってるから、わたしの言葉もちょっと変化したものとして聞こえてくる。例えば、わたしがカブトムシに見えるかもしれない(笑)。で、わたしが「Mさん目覚めなさい!」って言っても、Mさんには「やあ、蝶さんごきげんよう!」とか言ってるように、「空はどうですか?」とかわたしが言ってるように聞こえるかもしれない。

 つまり、輪廻という幻影にはまってる人に輪廻を外れた仏陀が何言っても、ストレートには聞こえない。また別の言い方すると、二元性の中にはまってる人に一元――つまり、二元を越えた世界の話っていうのは、することは不可能なんだね。理解させることは不可能。

 でも、だとしたら、何も出来ないのかと――そうではない。仮の目標設定をするわけです。つまりわれわれに理解できる――われわれはこの輪廻っていう苦悩の世界で苦しんでいて、それを越えたニルヴァーナがあるっていう何となくイメージがあるよね。「悟りの世界は素晴らしい!」と。でも、よく考えてみて下さい。われわれが悟りの世界をイメージ出来ると思いますか? 仏陀の境地というのは、イメージすら出来ない。けどもわれわれは何となくイメージするよね、仏陀の境地って。それは間違いなんです。仮のものなんです。つまり本当にわれわれが悟ったときに現われる世界は、全く予想に反しています。

 これはよくわたし言うけども、完全に予想外なんです。予想外っていうのは、「あっ、ちょっと違ったね」じゃないんだよ。よくわたし、馬と柿ほど違うって昔言ってたけど、馬と柿以上に違うよ。馬と柿っていうのはつまり「ジャンル違うじゃん!」っていう世界じゃないですか(笑)。で、そのジャンルどころでもない、もうすべてをひっくり返したような、「あっ、そうなの?」っていう、「そっちなの?」みたいな感じだね。でもそれすらもちょっと違うね。完全にもう二元を越えた世界だから、全く違う、想像すらできない境地なんだね。

 でも一応この世にいるわれわれは、まず想像しなきゃいけない。まずイメージによって目標を定めなきゃいけないから、このような二元的な「はい、輪廻があって、それが滅したニルヴァーナ」っていうイメージを定める。で、それに向かって突き進むのは、これは正しいことなんです。正しいことなんだけど、究極にいうとそれも実は嘘なんだよと。それもすべては仮の設定なんですよっていうことだね。

 しかし同時に、その仮の設定にしっかりとはまって努力をしなければ、われわれの修行っていうのは進まない。よって、この二つの意識を同時に持ちなさいと。つまり非常に二元的な、つまりまずカルマっていうのがあって、善をなすと幸せになりますよ、悪をなすと不幸になりますよ。そして一つずつこのようなけがれを落としていくことによって、われわれはだんだん進んでいきますよ――このような考えっていうのは、しっかりと持たなきゃいけない。で、同時に、でも実際は空なんだよ。

◎コンピューターゲームのたとえ

 これは前から何回かいってる例えで言うと、コンピューターゲームの例えがやっぱり一番いいね。コンピューターゲームの例えっていうのはつまり、Mさんが例えばコンピューターゲームにはまってて、ロールプレイングゲームとかにはまっててね、最近ネットオンラインゲームにはまり過ぎて徹夜でやって死んじゃう人もいるみたいだけど、そういう事件もあるみたいだけども、もう完全にはまっちゃって、自分がそのゲームの主人公になりきっちゃってる。ね。完全にもう我を忘れてなりきってる。そこで、そのゲームの法則性をしっかりと学んで正しくゲームをクリアして行くこと。これがわれわれの今学んでいる一般的な法則なんです。これは必要なんです。最後までわれわれはゲームをクリアしなきゃいけない。

 しかし、クリアして初めて、われわれはゲームに飽きるんだね。「あっ、終わった!」と。「あれ?」っと我に返って、例えば――わたしオンラインゲームってやったことないから良く知らないけど、わたしのイメージだけどね、例えばMさんが何かのキャラクターだとするよ。何がいいかね、吟遊詩人ジュリア(笑)。例えばだよ(笑)、吟遊詩人ジュリアであると。で、Mさんは吟遊詩人ジュリアとしていろいろな冒険をすると。ね。で、何かその同じオンラインゲームの仲間からもジュリアとか呼ばれて、「ああ、わたしを何だと思ってるの?」とかいう感じでこう、いろんな物語が展開されて、ゴールしましたと。すべてが――オンラインゲームってゴールとかあるのかな? よく分かんないけど――クリアしましたと。すべてが終わりました――となったときに、はっと我に返って、「あっ、もうこんな時間だ」と。「夕食の準備しなきゃ!」と、Mさんに戻るわけだね。

 つまり、最後までやっぱりクリアしなきゃいけない。でも、まだクリアしてないんだけど、お母さんとかがやって来て、肩をたまに叩いてくれるわけです。「なにやってんの、あんたジュリアじゃないよ!」と(笑)。「それ、ゲームだよ!」と。

 この最後の答え――つまり、「はい、ここでこのアイテムを取らなきゃいけないよ。ここでこのアイテムを取らないと次の敵を倒せないよ」――こういう法則性ではなくて――この法則は法則で必要なんですよ。ここでこのアイテムをこれくらい用意しないと次には進めないぞと、そういうので頭は一杯だと。それは必要だと。必要なんだけど、同時にたまにお母さんとかが、「言っとくけど、あんたジュリアじゃないんだよ!」――これが、究極の答えなんです。これが空の教えなんです。

 つまり、輪廻というのがありますよ。カルマの法則がありますよ。善によって幸福になり、悪によって、例えば人を憎んでいると地獄に堕ちますよ。人に幸せを与えるとあなたは天に行きますよ――このような法則性が、この輪廻のゲームの中でびっちりと決められてる。それをわれわれは学び、その通り生きてゴール、つまり解脱を目指さなきゃいけないんだけど、同時に、まだゴールしない段階から、でも全部ゲームなんだよ。本当は皆幻影なんですよ。存在しないんですよ――っていうことも学んでおくんだね。これが空の教え。

 だからわれわれにとって空の教えっていうのは、今の段階ではまだよく分からない、何となくのイメージに過ぎない。でもそれでいいんです。逆にその方がいい。変な本とか読み過ぎて、「空とはこうなんだ!」ってガチガチに固めちゃうと、また新たな迷妄をね、新たな消さなきゃいけない無駄な迷妄を一個作っちゃったことになるから、そうしない方がいい。

 われわれが最終的に悟り得る空っていうのは、悟らなければ分からない。しかし、実際はそうなんだと。

 この空の教えと、この世における限定的な法則。この二重の意識っていうのを、常に持っとかなきゃいけない。どっちも捨ててはいけないっていうことですね。

 ちょっと繰り返すけど、どっちも捨てちゃいけないんだけど、どっちかって言うと、もしどっちかしかできないんだったら、空の方を捨てた方がいいです。つまり「空だ!」とか思わないで、とにかくカルマに則ってこの世で正しく生きてっていう、そういう二元論的な思考の方を大事にした方がいい。その方が間違いがない。

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